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読み給へ

シェアハウスはいい。ひとりにならなくていいのだ。

シェアハウスはしんどい。ひとりになんてならせてもらえない。

そんなちいさな社会の中で生き、悩み、気を使ったり使わなかったりしている自分と皆を可愛らしく思う。


夏から最近まで、すっかり彼と一緒にいた。過ぎてみないとわからないが、あれほど遠距離が普通の二人だった(ひどい時はカンボジアとザンビアだった笑)と思うと今の当たり前に驚く。そしてたった数日家をあけている(いま)日に、恐ろしいくらいの不安感に襲われる。依存しているのだろうか、とも思ったが、それとは明らかに違う恐怖に近いもの。失ってしまうかもという恐れ。彼が生きている確信がないイコールとてつもなく怖い。そんなことを言い始めたらスーパーにもコンビニにも行けないし家だって安全ではないし安全な場所でも災害だっていつでも起こりうるのだからなにもできなくなってしまう。自分や誰かを縛り付けたいわけではもちろんない。

この夏からひとを失うことが何倍も何倍もこわくなってしまった。こわいからひとつひとつの別れに永遠の別れを覚悟しなくてはいけない気がした。覚悟をしたところで何の苦しみも軽減しないと知っているのに。ことばでいうほど簡単でない「もう二度と会えないかもしれない」を、実際本当に思考し覚悟を実行し続けるのはあまりに精神を疲弊させる。当たり前が当たり前ではない、日常を見つめるということは日常賛美を唄うように美しいことより、なくなってしまう恐怖が大きいのが現実だ。そう理解した上で作品にしているのだから私はここから逃げられないのだろう。

彼がたった二泊外泊をする(しかも国内でしかも超身内の人たちと)だけで、何日も前から緊張し、胸がつまりそうだった。夜は肌に触れるだけで泣きわめき、何故か食べている間も少しずつ悲しくなっておなかを壊し、朝まであまり眠れずにいた。なぜこんなにも勝手に、そばにいないことと死を結び付けてしまっているのだろう。そんな自分にびっくりもした。

ひとりで考えていたら気が狂いそうになる。思い出すのはすべてあの日のこと、あの日の匂い、あの日の顔。彼が遠くにいるだけで私は私中心にあの出来事をみつめなければいけなくなる。避けられず、ふたりにさせられる。そこには綺麗事は残らず、脳裏が埋め尽くされて支配される。ひとりになるのはあの日の前の数カ月はしょっちゅうあったんだった。記憶から消し去ろうとしていた日々を思い出しそうで怖くて今夜はベットにいけないかもしれない。ごたごたと考えていたらすぱんと指を器具で切ってしまった。そうだ、ケーキ屋で洗い物をしていたんだ。痛みと共に現実にやっと帰ってくる。


家に帰って鍋をした。彼のいない家で、今家にいるシェアハウスの住民くんと。いろんな悩みを聞き、いろんな話をした。話は別だったがなかなかにヘビーで、鍋は素晴らしく美味しかった。

シェアハウスになじんだここ数年でよくわかったことは、他人と暮らすことがどこまでも奇跡的であるということだ。結婚生活と全く違うだろうけどほとんど同じだともいえる。全く別の生活からいきなりひとつ屋根の下だ。うまく行き続けるはずがない。めんどくさいことが多いししんどいこともがまんもけんかも気遣いも一人暮らしより多い。それでも一緒に暮らしている。なにかひとつを頑張って、勇気を出して向き合って超えたとき、関係がぐっとつよくなる瞬間を知っている。どんな相手でも、とはいえない。少なくとも今一緒にいる人たちとは、必ず大丈夫だと思える。自信があるのだ。自分と自分の周りの人たちのつながりに。


たとえばうまくいかないことがある。それはお互いが悪い。でもお互いだけじゃなくて、それをとりまく周りもきっとなにがが悪い。だから私は自分が中心にいるときもそうでないときも一度自分を見直す。ああ、ここがだめだったなぁとなんども思う。凄いことだ。一人で住んでいても、夫婦で住んでいても気づけないことを運んでもらえて、気づかせてくれる。私はものすごいところに住んでいる。



気分のいいはなしをしたなあ、というわけではないのに何故かひとりでベットに行くのは、こわくないと思えた。きっと平気な顔をして帰ってくる彼がやっと頭に浮かんだ。

屋根の下にだれかがいることの安心感。それは窮屈で時にものすごく逃げたくなるほどしんどくて、やめてやりたい。それでもみんなで一緒にいる。本当に困っていたら肩を寄せて大丈夫だと言いたい人がいる。自分が困ったら、せめて彼らにはちゃんと言えるようにしておこう。そればかりは、鏡であると信じたい。

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