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クボタカイ、ダイスキ vol.2

 クボタカイ、ダイスキのvol.2である。
 誰が読むのかわからないが、(願わくばクボタカイ君本人に読んでほしいようなほしくないような)”好きなものの良さを語ることで、世界に好きなものが増える”という持論によりまだまだ続くのである。

 前回、「ベッドタイムキャンディー2号」を例に、彼の”新しさ”を語った。
彼の新しさは、近代純文学の一節と現代的な音やワードという異なる要素が違和感なく紡がれている、あるいは、混ざり合っているというすごさだと。

 しかし”違和感なく” ”混ざり合って”いるのは、歌詞とメロディが持つ異なる時代性だけではないのだ。もう一つ、クボタカイの楽曲をものすごく特別なものたらしめている要素がある。それは、”ボーカルが楽器”という部分だ。

 ボーカルが楽器ってある意味当たり前だと思われるかもしれないが、違う。違う。そうじゃない。説明しよう。興奮気味に。

 クボタカイの曲は、ボーカルが、この歌にはこの声以外ありえない、というレベルで溶け込んでいるのだ。歌詞とメロディと声、どれもが、これ以外ありえない、この組み合わせ以外ありえない、この曲は歌詞とメロディとボーカルでできています、ではなくてこの曲という一塊です、というレベルなのだ。もし他の人がカバーして歌ったらそれはもうバリエーション違いではなく、単なるまったく違う作品になってしまう。そのくらい完全な組み合わせで構成されている。そこに彼の曲の気持ちよさがある。

 世の中にあふれる数々の曲は、「歌手の声が特徴的で際立っている」もしくは、「メロディが良くて、歌手がうまく歌っている」のどちらかが多いように思う。どちらも別に悪いことではないのだが、曲としてのまとまりを感じるかといわれると、どうだろうか。前者は歌手の声の癖を楽しむ側面が強いし、後者は曲がよければほかの人が歌っても良いような感覚がある。

 翻ってクボタカイの曲を聴いた時に感じた衝撃の一つが、ボーカルが世界観を構成するものすごく強力で重要なパーツとしてすべての音をまとめているということ。この曲はクボタカイのボーカルじゃないと成立しないという感覚。そしてそれはライブに行って確信に変わる。この声でないと成立しない感じは、生歌を聴きに行きたい強烈な動機になった。

 ライブで生歌を聴くと、そのこれしかない感、この声でないと成立しないがもっと際立つ。

 私は音楽に詳しくないが、それなりにいろいろな曲を生活の中で楽しんではいる。そんな私が、ライブでの生歌を楽しみにしているのは今のところクボタカイだけである。ライブに、そこでしか聴けない音楽を聴きに行く。アーティストに会いたいとか、ライブの雰囲気に浸りたいとか、大きい音で音を体で感じたいとか、いろいろライブに行く理由はあるだろうが、純粋に「その曲を聴きに行くのが楽しみた」と思って行っている。なぜならそこに、そこにしかない”声”を含めた演奏があるからだ。

 そういうことにクボタカイの曲を聴くまで思い至らなかった。
 デジタルではない、「音楽」が楽しくて、「音楽を聴きに行く」楽しさを教えてくれたクボタカイに感謝だ。


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