見出し画像

水槽の中で熱帯魚は共食いする


12連勤明け、美容室へ行ったら側頭部に小さな禿げができていた。マジか。ウケる、いやウケない、働きすぎだろ、全然面白くないが笑ってしまった。私はこうして自分の身に降りかかった小さな不幸を、瞬間的に笑い話にして逃避する癖をやめたらいいと思う。自己憐憫に対する自罰感情、自罰感情に対する赦免欲求を、小さな水槽の中で泳がせて眺めている。

10年以上切ってくれている担当さんが発見したときは感情の水面を撫ぜられただけだったのに、インスタのストーリーにあげたものを見て話し掛けてきた同僚には思いっきり水中に手を突っ込まれた感じがした。笑いの滲んだ「大丈夫?」に表情が強張る。大丈夫であったものが大丈夫ではなくなる、水が汚濁する感覚を飲み込んで、感情があふれないように蓋をしたら余計に苛立ってしまった。ストレスで禿げができていたことを笑い話にしていいのは私であって、あなたではないです。言いかけてやめた。

私が気に病まないよう笑ったのはわかっている。やさしさや慰めを暴力に変換しているのは私だ。だけど私が話を持ち出すまであなたは触れるべきではなかったし、ましてや笑い混じりに声を掛けるべきではなかったでしょう。そう考えるのは傲慢だろうか、私は哀れまれたかっただけか、もっとやさしくされたかっただけか、掻き混ぜられ、沈殿した感情が巻き上がり汚濁した水に溺れて考える。ストーリーで笑い話にしたのは私だから、責めるべきは過去の私のような気がする。いつだって私に殴り掛かってくるのは過去の私なのだから。


自己憐憫と自罰感情が諍いを起こすとき、手入れを怠った水槽の中で熱帯魚が共食いをしていた様子を思い出さずにおれない。最後の一匹となったグッピーはぐぷぐぷと太り、醜悪だった。私のせいだが。だから私は醜悪なのだと思う。


髪を掻き上げて禿げを見つけたとき、平坦な声で「これどうしたん?」と話し掛けてきた担当さんはやっぱりプロだなあと思った。定期的に検診する主治医も、口調こそやわらかいが殆ど感情を表に出さず、人によっては素っ気なくも映るだろうがそのフラットさこそがプロなんだろう。同情、慰撫、揶揄のどれもを排して、静かに、私の水槽の状態だけを教えてくれる。むりに安心させるようなことさえ言われず、手段と方法の選択肢だけが提示され、水槽をどう取り扱うかは私の手に委ねられる。共食いをする感情をいつまでも持てあます私は、彼らのその水温が羨ましい。



仕上がった私の髪は相変わらず一部がピンクである。美容室を予約した日が鬼滅の刃劇場版の公開日であることを私は全く知らず、帰りに立ち寄ろうと思っていた、映画館の入っている商業ビルには足を向けられなかった。鬼滅カラーだと目を向けられる自意識過剰にもなるよ、ここは東京と違って小さな街なのだもの。目立つんだわ、インナーカラー。私がピンクに染めているのは単なる武装なので、街中で目立ちたいのではない。ああ、武装していても禿げができてしまったのだから春から夏にかけての仕事量はやはりおかしかったのだろう。

仕事も人間関係も、書くことも、あらがわず無理をせず、誤魔化さず、偽らず、適温で生きられるようになるまで、あと何年だろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?