見出し画像

花とナイチンゲール

1.夏、翔る

 階段を飛ぶように駆け下りる。息がきれる。下駄箱で靴を履き替える時間がもどかしい。重たいプリーツスカートが、風をにぶく打つ音がする。

 部活のない日のわたしは、いつもこうだ。

 帰りのホームルームが終わるや否や、友だちへの挨拶もなおざりに、わたしはスクールバッグを掴んで教室を出る。そうして、まだ誰も出てきていない廊下を突っ切り、駐輪場まで走る。自転車のカゴに、カバンを放り込んだらよーいどん。勢いよく自転車を漕ぎだすわたしに、通りがかりの先生が、あまりスピード出すなよ、と叫んだ。わたしの返事は、軽やかに空へ飛んでゆく。
 外には、茹だるような暑さがまだたゆたっている。夕方になってようやく鳴き始めた蝉たちも暑くてたまらなかったんだろうなと、ぬるい風を追い越しながら考えた。首筋を汗が伝ってゆく。

 わたしの通う高校から、葵の大学までは約二十分の距離がある。
 真夏、授業終わりに、わたしは二十分自転車でひた走る。足も、気持ちも、止まらない。世界中みんな置き去りにして、前へ、先へ、うんと速く自転車を漕ぐ。小高い丘を登って、下りて、一直線に進んでゆく。

 ときどき、思う。
 真っ青な空みたいなこの衝動は、どこへ向かうんだろう、って。


 大学へ着くと、雑然と放り出された自転車の群れの合間に、投げだすようにして自分のものを停めた。飛び降りてカバンを引っ掴む。高校の制服姿のまま、わたしは葵のいる学部棟へ、迷わず向かった。──最初のころは、わたしを見る大学生たちの目に躊躇したけど、最近はもう気にならない。まわりもだいぶ見慣れたのだと思う、制服で校舎へ入っていくわたしを見ても、訝しそうな顔をする人にはほとんど遭遇しなくなった。
 誰に止められることもなく、葵のいる、美術室へと歩を進める。

 大学の、葵が棲み家にしている第三美術室はいつも静かだ。
 ドアの前まで来ても、物音ひとつ聞こえず、人のいる気配すら薄い。

 逸る気持ちのままドアを開けようとして、わたしは、戸に嵌められた細長いガラスに映ったわたしを見た。慌てて、乱れた髪を撫でつける。制服を見下ろして整えると、目を瞑り、大きく息を吸い込んだ。ゆっくりと、吐く。身体の深いところから、鼓動がわたしを叩いている。心臓をぎゅうっと片手で握る。
 急く感情をどうにか押し止め、まぶたを持ち上げた。
 そうして、そっと、ドアに手を掛ける。

 音を立てないように──ではなく、なるべく振動を起こさないように、わたしは美術室の扉を開けた。

 いた、と。
 唇だけで、呟く。
 男性にしては華奢な体躯の、その背を少し丸くして、大きなカンバス──Pの何番だったか、教えてもらったけれど忘れた──と向き合っている。七月の、ほんのりと色づいた斜陽に染められ、多くの塑像や制作物に囲まれたその場所で、今日も葵は絵を描いていた。
 美術室に滑り込み、後ろ手にゆっくりとドアを閉めると、わたしは美術室の定位置に座る。手にしたスクールバッグを、今日一番、丁寧に、静かに足許へ置いた。


 葵は、耳がきこえない。

 だから、黙って入室するわたしの存在に、葵がいつもすぐ勘づいているのか、それとも全く気づいていないのか、わたしは知らない。大きな音を立てればその振動が伝わるのだろうけれど、集中力を削ぎたくない私は、足音一つ慎重に、するりと忍び込むようにしていた。そうしてそっと、部屋の片隅で、絵を描く彼の輪郭をなぞる。大きな窓硝子を額縁に、かそけく光る薄茶色の髪、長めの前髪の下で俯せられてるまつげ、翳を差すまなざし、噛みしめるように結ばれた唇、その横顔の肖像。
 カンバスを走る絵筆の音が、鼓膜をくすぐる。ニスの匂いがする。西へ傾いた太陽に、開け放たれた窓からぬるい風が吹き抜けてゆく。いっそうけたたましくなっている蝉の声、その隙間に微かな雑踏が聞こえる。それら全てが、乾いてゆく汗の代わりに皮膚へ滲んで、わたしのからだの奥深くへと染みこむのだった。わたしの、誰にも触れられないところを、ひどくやわらかく揺らす。

 今度は、どんな絵だろう。
 カンバスに向き合う葵を見つめながら夢想する。完成するまで盗み見ないように心がけている──植物の絵であるのはほとんど間違いがないけれど。
 一心に、光を追うような葵の絵が好きだ。初めて見たときから、わたしはずっと、彼の描く絵画がとても好きなのだった。



2.蝉時雨、花に絶え

 「夏凪 葵」という人を初めて知ったのは、蝉時雨が激しかった、去年の夏のことだ。通学途中にある小さなギャラリーで開催されていたグループ展で、わたしは彼の絵に出会った。

 正直に言って、わたしは特別、美術に興味のある人間ではなかったし、その日ギャラリーに足を踏み入れることになったのだって、部活帰りに友だちの梓織に連れて行かれたというそれだけのことだった。だから、なんのグループ展だったのかも定かではない。けっして広くはないギャラリーの中を、梓織が嬉々として歩いてゆくのを、わたしはひよこのように追いかけた。
 壁に掛けられたいくつもの作品は、わたしの視界の端にちらちらと引っ掛かるだけだった。わたしにとって絵は絵でしかなかった。まして、名を上げているわけでもないだろうアーティストの絵画に、心を打たれるはずがないと、自分のどこかで小さく思ってすらいた。

 一枚、また一枚。大小さまざまなカンバスに描写された世界は、わたしの中ではどれも淡泊で、車窓から見る風景のように、流れては消えていった。
 梓織は、時折足を止めては一枚の絵に向かい合って、何かを探るように見つめていたけれど、彼女を真似て隣に並び、その絵を見ても、わたしには何もわからなかった。梓織が絵の前で何分も立ち止まっているさまは、まるで儀式のようで──そう、例えば、祈りに似ていて、わたしは少しだけ息の詰まる感じがした。
 グループ展の人足は疎らだった。わたしと梓織と、乏しい客の足音が、冷たい床を叩く。ギャラリーはうんざりするほど静けさを保ち、外を歩いた名残の蝉の音が、わたしの耳だけに響いていた。

 居心地の悪さに、わたしは不必要に身体をほぐす仕草をした。小学校のときの社会科見学で美術館に足を運ぶことはままあったけれど、わたしは適当に感想を書き留めると早々に部屋を通過して、ロビーのソファでクラスメイトと喋っているようなタイプであったから、梓織のようにゆっくりと歩を進めることに、まったく慣れていなかったのだ。
 歌いたいなあと、心の中でため息を吐いた。
 静かな場所にいると声を出したくなる。さっきまで合唱部で思う存分咽喉を解放していたせいか、よけいに歌が恋しいような気がした。──ギャラリーを出たあとで梓織に首を竦めつつ話したら、彼女はころころと笑った。ナイチンゲールみたいね、と。

 同じ合唱部なのに、どうして息遣いすらひそませて、絵を鑑賞できるのだろう。梓織の背を追いかけながらぼんやり考えていたとき、ふと、その絵はわたしの目を惹いた。
 知らずに足を止めていた。
 鼓動の音を、今でも憶えている。

 絶え間なかったわたしの蝉時雨さえ、ふっと、静寂に溶けた。


 花びらの外側だけが、ほんのりと薄紅に染まった白い花の群れが、ぐんと、青空に伸びてゆく。風がそよいで、光の粒がさんざめく。剪定されていない無造作な感じが、かえって逞しく見える。小さなカンバスの中で、花が生きている。描かれているのではないけれど、これはきっと舗道の片隅で、アスファルトを割って咲いているのだ。そんな音と、──匂いもする。そんな気がする。花と空で構成された爽やかな画面は、一方で、情熱的だった。筆遣いのせいかもしれない。踊る白、走る青が鮮やかで、とてもまぶしい。まぶしい、と、思った。

 ──『あおい』。


 わたしが突然足を止めたので、それまで自由に絵を見ていた梓織が振り返った──ようだった。爪先から痺れて、その場から動けなくなったわたしに、彼女が歩み寄る気配があった。隣に佇み、わたしの視線を辿って、梓織もまた『あおい』に目を遣ったのだと思う。
 しばらくの時を挟んで、きれいな絵だねとほほ笑んだ声に、わたしは何て返したのだったろう。
 立ち尽くしているわたしを置いて、梓織は他の作品を見に行った。わたしは結局、彼女が時間を掛けてギャラリーを一周してくる間もずっとそこにいて、そろそろ帰ろうかと促されるまで『あおい』を見ていた。完全に、時を忘れていた。ギャラリーを出るときには、空は夕暮れに染まり、浴びるようだった蝉の声は途切れ途切れになっていた。


 いい絵だったねと、帰り道を歩きながら、梓織は言った。

「美術鑑賞も悪くないでしょ、小夜」

 好きだと思えた絵はたった一枚だったけど、わたしがそう苦笑すると、梓織はまるで自分こそが恋に落ちたかのよう、歌うように続けた。

「わたし、大事なのは出会いだと思うんだ。たくさん好きになればいいわけじゃないっていうか」
「……そう?」
「うん。わたしね、いつも探してるの。本当の本当に、心の底から、ああこれだ! って、そんなふうに運命を感じられる絵をね」

 だからちょっぴり小夜がうらやましい、ため息とともに梓織は羨望をこぼした。わたしは小首を傾げる。僅かに身を乗り出し、茜色を映した黒眸はわたしを捉えると、茶目っ気たっぷりに笑った。

「あのね、小夜。あおいの花言葉は『熱烈な恋』なの」
「え……」
「小夜が一枚だけ気に入ったっていうあの絵。題材になっていた『あおい』──タチアオイの花言葉は『熱烈な恋』に『豊かな実り』だよ」

 花言葉をいったいどこで、いつ調べたのか、梓織は饒舌に話した。ふうんと相槌を打ちながら、わたしは、彼女の目がきらきらと輝いているのをきれいだなあと思う。梓織はきっと、本当に絵画が好きなのだ。

「運命の赤い糸かもね」



3.秋の音は、蝶番

 梓織の言葉は、普段だったら、なに言ってるの、ばかじゃないのと、小突いて笑いあうようなものだった。でもその日はどうしてか、不思議と切ない余韻をわたしの胸に残した。
 そして、運命の赤い糸とはよく言ったものだ──グループ展で心惹かれた『あおい』の制作者は、わたしの姉が通う大学の学生だったのである。その運命に行き当たったのは、ギャラリーで『あおい』を観てからふた月後、姉の大学の学祭へ遊びに行ったときのことだった。

 梓織に連れられてグループ展に足を運んで以来、わたしはあの絵が忘れられなくなった。だから、夏のあいだ、飽きもせず部活帰りにギャラリーへ通っていたし、それが高じて、一度だけ大きな美術館へも美術作品を見に行った。なんとかの企画展で展示されている著名な画家の作品はやはり圧巻で、素人目に見ても表現力や存在感が桁違いだった。それでも、わたしは兎にも角にも『あおい』が一番好きだと思っていた。というので、大きな美術館へ行ったのは一度だけだったし、夏の終わりとほぼ同時にグループ展を終えたギャラリーにも、結局それ以来行かなくなった。
 大学の学祭へ行ったとき、なんとなく「絵が見たい」と思った。その気持ちは、ほとんど衝動に近かった。その日も梓織と一緒にいて、だから彼女と並んで、わたしは美術室へと足を向けた。

 その美術室は、大きな教養学部棟の三階の一番奥にあった。街角の小さなギャラリーのように、しんと静まりかえっている。西側にあり、日中は翳りを帯びていて、学祭だというのに明らかに外の喧騒と一線を画していた。わたしは、異世界に迷い込んでしまったような錯覚をした。なんとも言えない奇妙な恐れが、ぞわりと胸に迫り上がる。一方で、心を逸らせているわたしも確かにいたのだった。
 美術室に入ったわたしは、彼の『ひまわり』をすぐに見つけた。
 まるで、暗闇の中で唯一芽吹く光のように、それはわたしの目を捉えたのだ。


 受付に座った愛想のない大学生が差し出したパンフレットを受け取って、わたしは迷わず、ひまわりを描いた絵の前に立った。名前を確認しなくてもわかる。この絵は、わたしが夏のあいだ、焦がれて見つめた『あおい』の制作者と同じ人だった。二度目の出会いは、本当に、何かに導かれていたのではないかと夢見てしまうようなものだった。
 『ひまわり』──満開のひまわりが、凜然と、しなやかに、空を背負っている。端的に言ってしまえばそれだけの絵なのに、わたしはやっぱり好きだと思った。この人の絵が好きだった。

「いいよね、この絵」

 不意に影が差した。夢中になっていたので、驚いた。弾かれたように顔を上げると、傍らにはお洒落な眼鏡を掛けた男性が立っていて、彼はわたしと目が合うと、気安そうに笑った。
 君、グループ展にもよく来てくれていたよね、と男性は言う。

「俺、受付当番が多くてよく在廊していたんだけど、毎日のように来るから覚えちゃった」

 ザイロウ、とわたしは音をまごつかせた。受付当番ということは、ギャラリーにいたということだろうか。全然記憶にない。戸惑ってうろたえたわたしに、まあ君は覚えてないか、アオイの絵だけ見に来てた感じだもんね、と、あっけらかんと一人で会話を継いでゆく。

「アオイの絵、好きなの?」

 その問いには肯いた。一瞬躊躇ったあと、すごく、と小さな声で付け足す。わたしの答えに、男性は目尻を下げて笑った。その表情がまるで自分事のようだったので、この人が『あおい』の制作者なのかと勘違いするほどだった。もしかして、と思いかけたすぐ後、──アオイに会ってみる? と、彼はわたしに言った。 

 ──『あおい』を描いた人に、会える。

 熱に浮かされていたわたしに、それを断ることができただろうか。
 あの日のように自由に作品を見ていた梓織が、わたしたちの様子に気づき、どこ行くの、と声を掛けてきた。わたしは、ちょっと行ってくる、すぐ戻るからと、後から思えば、梓織には心配を掛けたんじゃないかと反省するような、中身のない返答をし、眼鏡の男性について行った。
 彼は、作品を展示するために教室中に設置された壁の隙間を抜け、美術室の出入り口とは異なるドアへとわたしを連れて行った。視線を上向けると、準備室、と書かれたプレートが掲げてある。学校関係者以外は立ち入らないようにだろう、隠されていたそのドアを、彼は慣れた手つきで開けた。

 そのとき、古びた蝶番が軋んだ音は、今でもわたしの中に残っている。



4.花とナイチンゲール

 眼鏡の男性──高坂さんという──の計らいで、私は『あおい』の制作者である大学生、葵と知り合いになった。葵が「耳のきこえない人」であることは、初対面のそのときに、高坂さんから教えてもらった。
 聴覚障害、と聞いて、わたしが想像できたのは、小学校の総合学習で取り組んだ手話と点字程度だった。本音を言ってしまうと、あまりピンと来ていなかったと思う。今も、耳がきこえない世界がどういうものであるのか、わかっているかと尋ねられたらふつうに怪しい。簡単な手話と、葵と会話をするときは口を大きくゆっくり動かすこと、困ったら筆談すること──くらいの認識しか持てていないような気がする。

 ただ、そうか、と腑に落ちた。『あおい』が絵であるのに音がするのは、わたしには感じられないような、視覚にひそむ繊細な気配こそが「彼の世界の音」だからなのだと思った。


 葵は、素っ気なかった。人と交流するつもりのない雰囲気がありありと出ていた。わたしはそれがかえっておかしいと感じたくらいだった。
 学祭の日、高坂さんが「またおいで」と見送ってくれたのをいいことに、ギャラリーに取って代わって、わたしは大学の第三美術室へと通うようになった。姉は止めたが、そこはお構いなしである。そして、通うといっても、教室にそうっとそうっと入って、片隅で、葵が絵を描いているのを黙って見ているだけだった。たまに高坂さんが来て、ふたりで話すことはあったけれど、葵がそこに加わることはほとんどなかったし、高坂さんもそんな葵をいつもどおりという眼差しで見ていた。

 紅葉した樹木が葉を散らしてやがて雪化粧し、そのときも瞬く間に過ぎ去って、新しい素顔を見せる。まろい陽射しに蕾が輝いている。
 高校から大学までの道のりの光景が刻々と移りかわるにつれ、飽きずに姿を見せるわたしに、葵も根負けしたのかもしれない。最初は、帰り際のさよならだった。集中力が切れたころにひと言、ふた言、話をしてくれるようになり、気が向いたときには手持ちのお菓子をくれたりするようになった。それは、妹と勘違いしていないかと思うものの。今では「空気に近いけど、ちゃんとそこにいる人間」と扱ってくれている。

 そして、また夏だ。

 美術室にいるわたしはいつもこうして教室の端っこで、定位置の椅子に腰を下ろす。葵の横顔が一番きれいに見えるところ。今では彼が描く絵と同じくらい、絵を描いているその姿を好きになった。
 葵は、カンバスと植物に恋をしている。
 夕焼けに染まってゆく美術室の窓辺。葵は椅子に浅く座って、カンバスに向かっている。何を思いながら手を動かすのだろう。彼が作品を作っている時間は、不思議だ。このあいだまで真っ白だったカンバスには、もうきっと空が現れて、花が咲き、風に葉を踊らせているに違いない。どんな色で、音で、匂いだろう。葵の瞳は、何を見ている?

 葵は目がいいのだと、わたしはひそかに思っている。

 葵の瞳は、風にたゆたう花びらの一瞬を捉える。流れてゆく空の情緒、折々の空気感、微細な光の粒に、ざわめき、揺らめき、動いたものの残像の線──どの絵も、そういうものを美妙な筆遣いで掬いあげている。そしてそれらは、わたしが知っている「音」の世界と重なる──息吹が聞こえるのだ。


 カンバスに向かう双眸の奥でどんなふうに像が結ばれているのか、思いをめぐらせながら、わたしはお気に入りの合唱曲を口の中で歌った。葵の世界がカンバスの中にあるのなら、わたしの世界は歌の中にある。歌が、好きだ。歌うことが好きだ、たぶん、葵が絵を描くのと同じくらい。作者不詳の外国民謡は、鼻歌にすると、なんだか特別な物語を紡いでいるような心地になる。

「……さよ?」

 なんとなくハミングを続けていたら、めずらしく葵が絵筆を止め、わたしの方を振り向いた。それだけなら、まあ、ないこともない。けれど、名前まで呼ばれたものだから、わたしは目を丸くせずにはいられなかった。びっくりして、どうしたの、と、勢いに任せて訊き返してしまった。

「なにって?」

 つまり、唇を早く動かしすぎたということだ。読話できなかったらしい葵は、眉を顰める。

「ど、う、し、た、の」

 落ち着いて、ゆっくりと。わたしは改めて口を動かした。これくらいならば、手話もつけられる。
 問い返したところ、葵は口を閉ざした。目を伏せる。いきなり話しかけてきたから何か用があるのだと思ったけれど、違うのだろうか。
 ほんの数秒、どこともなく視線を遣っていた葵は、ややあって息を吐く。突然のことにまだ緊張しているわたしをよそに、目を上げると、美しい世界をつぶさに観察しているその眼差しでわたしを見つめた。

「ねえ」
「うん」
「小夜を描きたいんだけど」

 だめかな、葵は小首を傾げる。わたしはぱちぱちと音がするほど目を瞬かせ、だめっていうか、と困惑を舌先に乗せた。高坂さんの「ザイロウ」にうろたえたときと同じだった。
 急に、どうしたのだろう。わたしを描きたいってどういうこと。わたしを絵にするっていうこと? 葵の手で? 何で? 葵が、わたしを、描く? ──思考が空転する。そしてある瞬間、美術室のドアに映ったわたしの姿を思い出した。夕方とはいえ、夏の日照りの中を自転車で疾走してきたわたし。汗が乾いてよけいにボサボサになっているだろう頭が気になり、慌てて両手で髪を梳く。葵の視線がわたしに向かっていることに、徐々に頬が熱くなってゆく。
 じっとわたしを見ていた葵は、ふと苦笑した。年上の人の笑い方だった。

「……いいから、座って」

 わたしが羞恥に呼吸を乱れさせているうちに、カンバスを挟んだ自分の席の向かいに、葵は一脚の椅子を置いた。どうぞと、そこへ手が差し伸べられる。わたしはその場所を凝視した。どこかで、蝉が高らかに鳴いている。


 椅子が冷たい。腰を下ろして、真っ先に思った。
 わたしが、第三美術室の窓際に歩み寄るのは初めてだった。なぜならここは、葵の聖域だから。わたしは汗の滲む手のひらで、せわしなく制服の表面を撫でた。葵はもう、何事もなかったかのように、いつもどおり座っている。イーゼルからはカンバスが下ろされて、葵が下絵を描いているときの板が乗せられていた。スケッチとかクロッキーとか、高坂さんとの間で何度か言葉が飛び交ったけれど、わかっているような、わかっていないような……。わたしはいつもそうだ。そのことが、今になって、恥ずかしくてたまらなくなった。
 開け放たれた窓から風が抜け、竦ませた首筋をさらう。
 わたしは外を見た。

「……はな」

 カンバスに絵筆を乗せるとき、葵がいつもここから見ている景色──
 わたしの微かな唇の動きを目敏く拾ったのか、視界の端で、葵が顔を上向けたのが見えた。その視線がわたしに問う。わたしは葵へ向き直り、ここから花が見えるんだね、と話した。

「知らなかった」

 ああ、と葵が頷く。彼が下絵に意識を戻すのを見て取って、わたしはまた外を眺めた。
 第三美術室からの眺望は大きく開けて、大学のキャンパスだけではなく、敷地外の風景もよく見えた。キャンパス内の花壇はもとより、遠くにはひまわり畑がある。夏の黄昏には物憂げなふうである、でも、きっと日中は、青空をカンバスに、ビビッドな色彩が踊るように咲き乱れているのだと思う。
 葵の目が捉えている、世界。美しさの、そのかけら。

「わたし、葵の絵が、好きだよ」

 イーゼルの板越しに、告白する。覚えた手話のうちで、恐らくわたしが最も繰り返した動作──右手の親指と人差し指をひらいて、咽喉に向け、斜め前に引きながら閉じる。「すき」。初めて使うのではないのに、妙に緊張して、指先が震えた。
 葵はあっさりと、右の手のひらを胸に当てて撫で下ろす。

 ──「知ってる」。

「あと、小夜がたまに、歌ってるのも知ってる」

 鉛筆の芯が、紙を滑る音がする。
 今度こそ、わたしは完全に固まってしまった。そのうちにも、葵は口と手を動かしてゆく。手はともかく──未だかつて、こんなに饒舌な葵は見たことがないというほどに、話す。

「なんだろう、空気が変わる、気がする。小夜が歌っているとき。おれの絵が好きっていうわりに、歌い始めると、小夜は、歌のことだけ考えてる」

 楽しそう、そうささめいて、葵は小さく笑った。

「おれはそれが、好きだよ」

 だから今も歌っていていいよ、べつに「音」がはっきり聞こえるわけじゃないけど、おれはその空気が描きたいから。
 その目がサッとわたしを捉えて、朱色の光を零しながらまた下絵へと戻ってゆく。走り出す鉛筆の音に、わたしはゆっくりと、瞬いた。第三美術室の窓から風景を臨むのが初めてであると同時に、絵を描く葵をほとんど正面から見つめることもまた、初めてだと気づく。

 『あおい』との出会いから一年。
 わたしの、新しい夏。



 それからのわたしは、カンバスを挟んで葵の向かいに座るようになった。やっぱり横顔を見つめるのも好きなので、いつもというわけではなかったけど。
 葵は絵を描き、わたしは完成を夢想しながらそのさまを楽しく眺めて、気まぐれに歌う。距離が近づいたからといって、特別、会話が増えることはなかった。

 でも、わたしができる手話は少しずつ増える。
 今の目標は、手話で歌うこと。

 葵が絵の中に視覚以外のもの──音や匂いを描くように、わたしも歌の表現がもっと豊かになったらいいなと思った。葵には、内緒だ。そのうち驚かせたい──高坂さんにこっそりそう話したら、作品制作以外に淡泊な葵が驚くところは俺も見たいと言ってくれた。
 わたしは、『あおい』に出会うまで、耳から聞こえる音だけが「音」だと思っていた。初めてギャラリーへ行ったあの日、静けさを破るように歌いたかったわたしを想う。葵が描く世界を知らなかったら、ずっと知らないままだった世界だ。振り返ると、不思議な気持ちになる。梓織は、運命の赤い糸だったねと、占い師みたいな表情で笑った。得意げな彼女をわたしは小突く。

 新しい夏の夕暮れに描かれた『ナイチンゲール』は、第三美術室の準備室にいる。葵が、その瞳で聴いてくれた、わたしの歌声の絵だ。一度見たきり、そこにある。面映ゆかったのもあるし、彼の眼差しとわたしの声が重なるとこんなふうになるのだと、心がふるえすぎたせいもある。結果、見過ぎたら減りそう、そんな感想を洩らしたわたしに、葵は怪訝そうだった。

(一瞬がまぶしい)

 葵の『ナイチンゲール』は、わたしたちに同じ夏が二度と来ないことを予感させた。だからわたしは、今日も自転車を漕ぐ。高校から大学までのこの道を、彼と、彼の絵に会うために、ひた走ってゆく。

 衝動のその先に出会うのは、きっと、もう少し未来でいい。




 冴島芯、短編『小夜啼鳥の花』改題及び改稿

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?