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多様性って何かということなんだけど、

幡野さんのコラムの炎上から1ヶ月も経ってないんだけどなあ、cakesってバカなの? と、安直な意見しか思いつかないのが本音なのだけど、多様性って無批判に何でも許容することじゃないよと言っておきたくて書いた。


「まず、主上が良い王であるか否か──これは見る人にもより、見る時にもよりましょう。ただ、今回の件に関しては、主上がいかなる王であるかは問題ではございません。剣をもって人を襲うと決めた時点で道義の上では有罪、その罪人に正義を標榜して他者を裁く資格のあろうはずがない」
 - 小野不由美『黄昏の岸 暁の天』(下)

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cakesのコラムについて言及した、先般の日記の中で敢えて過激な言葉を直さなかったところがある。リンチ(私刑)である。さすがに関係者全てにそこまでの意図はなかったはずであるし、表現として好ましくないから直すべきだと思っていた部分と、だが傍目には明らかに公開処刑としか捉えられない掲載でありきわめて問題であると考えていた部分があって、どうすべきかと悩んだ末に私はそのままにした。私の日記を読んだ人の中には、当然、そこまで言う必要があるのかと不快に思われた方もいただろう。

思えば、3月頃の私はこの連載を読んでいたけれども(消してしまったがここで取り上げたし共感もしていた)、何かがあって読まなくなったんだよなと気づいた。そして、タイトルを遡り思い出した。「「いつも読ませていただいています」って書いてるけど、これウソでしょ」(6月22日)である。

相談者の「いつも読ませていただいています」という社交辞令を嘘だと切り捨ててから話に入る回なのだけど、それを敢えて貶さないとだめなのか? と感じたのだ。本当にいつも読んでいたのかもしれないし、読んでいなかったとしても「いつも読ませていただいています」なんてビジネスにおける「いつもお世話になっています」と同じく定型句でしかなく、ここを切り捨てるのはパフォーマンスだろう。相手にきついことを言いたい思惑が透けて見えている気がしたのだった。

それ以来、今回までコラムを読んでいなかった。このタイトルとこの切り出し方を読んだときの違和感を今回の炎上に重ねたとき、先述の「さすがに関係者全てにそこまでの意図はなかったはずであるし」なんていうフォローが果たして必要なのかという気持ちになった。恐らく意図はなかったろう、けれどもこれは、いじめっ子が「いじめたつもりはなかった」と言い張る構図と大差ないように思う。自分の加害性に無頓着なだけだ。

だから私はやはり、何度反芻したとて、事案がDVではなくともあのような回答記事を載せるべきではなかったと考えている。相談者がどのような人格であり、話の中に嘘があろうがなかろうが、「相談をお待ちしています」と受けつけておきながら、公然と掲載する中で相手の話を端から嘘だと糾弾してあのように痛罵することを喝采するのは、品性が卑しく、そのようなメディアの正義に是非などあるはずがないように思う。こんなものが多様性と括られてたまるかとすら思う。DVとの指摘があったから今回は多くの人の目を通り批判され削除されたわけだが、DVでなかったのなら見過ごされたのだろうかと思うとぞっとしてしまうのだ。cakesにも、自分自身にもである。

さて、なぜこの点に私が拘っているのかと言えば、一つには、私自身にも言葉の揚げ足を取りとりあえず「相手にきついことを言いた」がるところがあるよなという忸怩たる思いがあり、リンチという語彙の選択やこの文章全体も含めた自戒である。
もう一つには、端から人の話を嘘だと決めつけた記事の公開を躊躇しない自らの加害性を疑わないメディア、そのメディアと運営元を同じくするプラットフォームに引き続き文章を投稿するのかという葛藤があるからだ。

noteに状況及び心情とも客観性純度100%ノンフィクション、ルポタージュの類いの文章を執筆している書き手がどれほどいるのかは知らないが、私はあまり多くないだろうと思っている。人気タグの上位は「日記」や「エッセイ」である。けれどもたとえエッセイだからといって、たいして為人を知らず面識のない相手の話を「いやこの話どう考えても嘘だろ」と読むことはないし、況してや「この話って盛ってますよね?w」なんてコメント欄に書き込むはずがない。親しくなく、実態を知らないのだから、私にその真偽の判断ができるわけがないので。当たり前である。自分の知識と想像力を過信してはいけない。

だが、cakesはメディアとしてそのような加害に加担する態度を取ったわけであるし、note株式会社はこの件が燃え上がらなければそれを問題と認識することもなかっただろうと考えると、多様性に欺瞞のあるプラットフォームなのだなと思わざるを得ず、投稿するたびに私は懊悩するだろう。果たしてそんな環境で書き続けられるのだろうか。今この文章を書きながらも自問自答している。

これは、幡野さんのコラムが批判された際に書き、投稿しなかった文章です。あまりに馬鹿馬鹿しく、なぜ私がこんなことをつらつらと書き綴ってやらねばならないのかと投稿しませんでしたが、改めて呆れ果てているので、今回の話の前段として載せておきたいと思います。

私はやはり、cakesのコラムの炎上には、一つには、cakesの編集姿勢の問題があると考えています。幡野さん然りばぃちぃさん然り、文筆者の倫理観は個人的に軽蔑の対象ですけれども、たぶん、彼らが一人で好き勝手に書いている分には私はここまで憤慨しなかったでしょう。DV被害者への二次加害も、ホームレスの人々へのオリエンタリズム的視座も、やべえ奴がいる、くらいの認識で、私はただ単に、彼らを一生関わり合いになりたくない方たちとして片づけたはずです。それをいいことだとは思いませんけど、そうしたと思います。


他方、cakesはメディアです。さらに言えば、特徴として、運営会社であるnote株式会社が「多様性を大切にしている」と標榜しているメディアです。これは私が勝手に認識しているものではなく、彼らが彼ら自身により定義づけ、実践を試みている彼らの立場です。

人から人へ情報を伝える媒体として、cakesは社会に参画しているはずです。noteはプラットフォームであり公共性を持ちつつも自由度の高い空間として私たちユーザーに開放されていますが、cakesは違います。情報を選別して、cakesが社会に資する見識と考えたものを掲載しているわけですよね。noteで一個人が好き勝手に書いているのではなく、より影響力を有する媒体として広く喧伝するのですから、現代的な公共倫理を逸脱しないものを発信していく責務があろうと思います。ですが、そうではないコラムが散見され、立て続けに批判の対象になっているわけです。

社会に資する「多様性」とは「何でもいろいろあっていい」という価値観ではありません。であるのに、人文的知見に欠け、前時代的な感性を繰り広げている。cakes編集部はあまりにも無教養で稚拙のように見えます。


けれどもしかしたら、cakesの連載に対し批判の声を上げている私は、note社の掲げる「多様性」の解釈を誤っているのかもしれません。勝手に失望しているだけなのかも。もし、「note社の多様性」が「何でもいろいろあっていい」「どんな話題も許されうる」という下世話な週刊誌じみた雑多性を示し、本来の多様性の意義から外れたことを指しているのであれば、note社及びcakesは今すぐに語彙を替えるべきだと考えます。けれど、恐らくは違いますよね。

プラットフォームであるnoteの公平性を好んで使用しているユーザーの多くは、DV被害者への二次加害のコラム、ホームレス状態の人々を生き物観察するようなコラムを、多様性とは解釈しないはずです。なぜなら、社会的文脈で用いる「多様性」とは、人権と密接に結びつき、様々な属性やありようを尊重する包括的な考え方であり、行動や言論について「何でも許される」だとか「いろいろあっていい」だとかを無批判に許容する便利な言葉ではないからです。ホームレスの人々の記事に関して言えば、はっきりと「異世界(性)」という語彙を複数回用いているのですから、記事が多様性とは真逆の「分断」を含んでいるのは明らかです。そしてその分断は間違いなく、人権を軽視する社会のひずみに起因するものです。cakesは私たちの社会が生みだしたひずみをさらに搾取して「ライフスタイル」記事として提供し、メディアとして分断を強化する、その加害性の無頓着さは批判されても仕方がないと私は思います。note社が目指している本来の「多様性」とは異なるのではないですか?


いくら幡野さんが不勉強を悔いて学ばれたとしても、ばぃちぃさんが読者の意見を参考に今後のありかたを見直されたとしても、cakesの編集姿勢が変わらないかぎりここでは同様のことが引き続き起こると思います。そう感じるから、多くの方がcakesの不買のみならず、noteの退会を決意していらっしゃるのです。cakesは執筆を依頼して記事を掲載しているのですから、そこには当然、編集責任が存在しており、事態を文筆者個人の問題に矮小化するべきではありません。ホームレスのコラムではばぃちぃさんの取材姿勢、許諾、コメントなどでcakesは場の収束を図ったわけですけど、最も非難されているのはメディアとしてのcakesのありかたであることを今一度よく考えていただきたいです。


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