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「情の時代」を生きる

エーリッヒ・フロム『愛するということ』を読み終えたとき、人生で何度も読み返したい本がまた一冊できたことをとても幸せに思った。愛の問題とは愛の対象の問題ではなく愛の技術の問題なのだというフロムの哲学は、これからの私の人生において間違いなく助けになるだろう。

奇しくも、あいちトリエンナーレ2019のテーマが「情の時代」である。数日のうちに有識者による多くの見解が飛び交っているので、美術好きに毛が生えた程度の研究者の卵(しかも割れた)でしかなかった私が改めてこのことについて言及するのには及び腰になるが、「表現の不自由展・その後」の中止に関する積極的支持についてはきわめて残念であると思っている(県知事や芸術監督による安全面に配慮した苦渋の決断については致し方ないだろう)。事の発端となった「慰安婦」問題の少女像をはじめ、歴史イデオロギー的な展示に関する是非や好悪、快不快の意見が、現在もweb上で飛び交っているのを見るにつけ、私は、それらを積極的に議論する場として展覧会が機能してほしかったという気持ちが拭いされないのである。

美術を検討する機会の少ない多くの人が誤解しているが、少女像のインスタレーションは果たして芸術たりうるのか、天皇の肖像を焼く表現はアートと認めていいものなのか、そういった「これはアートか、アートではないか」の対話を巻き起こすことも、現代における「美術館/展覧会」の役割の一つだ。美術館は、必ずしも世間でアートと認知されたから作品を置いているのではなく、作品を置くことで鑑賞者に「アートとは何か」を問いかけているのである。美術館の中で、批判も含め、自由闊達な議論が生まれることは意義深く望ましい状況であるにも関わらず、そのことについて無教養な権力の行使や、いわんや暴力が抑圧したことは、本当に由々しき事態だと言わざるを得ない。
また、トリエンナーレ全体のテーマが「情の時代」であるのならなおのこと、展示作品を観ることで鑑賞者の胸のうちに湧き上がる感情について、より多くの人間が言葉を交わし、理由をさぐり、互いに客観視していくことは、私たちがいま生きている時代の実情を正視し、私たちのこれからのあり方を考える機会に他ならなかっただろう。その場の一つが奪われてしまったのは、やはりきわめて残念なことなのだ。

※「アートとは何か」について、美学的見地から基礎を学びたい人には、佐々木健一『美学への招待』(中公新書)をお薦めしたい。あるいは、マルセル・デュシャンによる「レディ・メイド」について調べることも、「アートとは何か」という近現代の美の概念を検討するきっかけになるだろう。


ところで、「情の時代」とは、あいちトリエンナーレが勝手に思いついたことではなく、社会学を見渡すと「感情(心)の時代」という感情社会学の議論が何十年も前から行われている。1956年に上梓されたフロムの著書はさらにはその先駆けになるだろう。社会学の専門家ではないのでこの論述は控えたいが、これからの共生社会の実現には感情について学ぶことが不可欠だとの見解は、世界的に多くの分野で盛んに議論されているし、それは美術の鑑賞教育においても同様である。

対話型美術鑑賞では、直感的な「すき」「きらい」「いい」「悪い」「見ていて心地よい」「見ていて不快である」などの自分の気持ちが、一体作品のどこから感じるものなのか? をさぐることを重視する。「なぜ」そう思うのかではなく、「どこから」そう思うのか、である。自らの内側に理由を求めるのではなく、自分の外側、つまり、作品に気持ちの理由を求めるのだ。

私は、自分の感情を客観視するトレーニングを他のファシリテーションでもいくつか学んだが、美術を介しての対話は最も簡単な手法の一つという印象がある。対話型美術鑑賞は、実際に目で捉えているモノについて語るので、感情を客体化しやすいのだ。恐らく、現代においてアートが求められているのは、おのおのの感情が激しく行き交う時代だからこそなのだろう。アートは一見、非常に主観的な存在に思われるが、つくる側もみる側にも、誰かの感情を外から眺める体験(客観視)がかならずどこかで生じる。

「感情は自分の心の底から何のゆえもなく自然に湧き上がるもの」というのは恐らく誤解だと私は思っている。外的な要因があってその結果として自分の中に感情が生まれる。感情が先に存在するのではなく、状況や事実、経験が先に存在しているのである――ここには「卵が先か鶏が先か」という問いかけはない。「見たこともない素晴らしい景色を見て感動に打ち震え、私は涙を流した」とするなら、「見たこともない景色がある(今まで見てきた景色ではない)」という個人的な経験(事実)が先にあり、その上に感情や言葉が覆い被さるのである。実際にその景色が素晴らしいかどうかという評価ではなく。打ち震えるような感動の前では、私自身も含めて、誰も意識はしないだろうけれども。


今日日、自己肯定感及びその向上に関する一家言は数えきれないほどあふれている。だがそれらの多くは個人的な経験をあたかも普遍的な話であるかのように転換し、技術と呼ぶには表現が抽象的であまり実践的ではなかったり、時と場合によってはとても非現実的であったりする。私自身も自己肯定感が低い人間だったのでよくわかるのだが、例えば「自己肯定感を下げるような相手とは距離を取るべき」というのは家庭内に問題があってそこから出ることが不可能な場合、大抵は非現実的だし、ありがちな「嫌われることを恐れず自分自身を大事にしよう」というのは漠然としすぎなのである。

嫌われることを恐れるとき、まずは、自分の中に恐れの感情があることを素直に受け止める。なぜなら急に「嫌われても平気だ」と思い込むのは難しいので、「私は恐れている」とそのまま言ってみよう、それだけで感情が少し自分から離れる。次に、何について恐れているのかを考える――「誰に」嫌われることを恐れているのかを考えるのだ。世界中の人だろうか? 街を行き交う見知らぬ人も全員だろうか? コンビニの店員だろうか? 親だろうか? 恋人だろうか、友だちだろうか? 友だちだとしたら、友だち全員なのか、それとも特定の友だちなのかを考えてみる。それから、「嫌われるのを恐れている」という感情は「どこから」生まれているのかを見つめてほしい。つまり、孤独からなのか、愛情からなのか、というようなことだ。一人になりたくないからなのか、その人がとても好きだからなのか。一人になりたくないのだとしたら、一人になるどのような場面を想定しているのだろうか? 部屋に一人でいる場面? カフェへ行く場面? それとも、学校のお昼のお弁当を食べる場面?

「なぜ」という曖昧なことは問わなくていいので、より具体的に考えることを勧めたい。今取り組んでいるのは、評価ではなく観察だからである。自己洞察にwhyは難しいので(「どうして?」と問われ「なんとなく」と答えた経験はないだろうか)、who/when/where/what/howで考えよう。まずは感情を素直に受け止める、それから反芻する、私はその場面の「誰に」「いつ」「どこで」「何に」「どんなふうに」そんな感情を抱いているのかを一個一個考えていく。作業に慣れるまでは時間が掛かるかもしれないが、技術には訓練がつきものだと思って、しぶとくやってみよう(私も毎日取り組んでいる、頑張ろう)。自分自身との対話が進むと、段々と感情を客観視できるようになってくる。自らの感情を否定せず、自分を自分たらしめる感情を観察することこそが、芯のある自分になっていく最良の手段だと私は信じる。他者の感情に振り回されず、自分の感情を自分という存在の中心におくこと――「自己を肯定することを感じる」というのはそういうことではないだろうか。


「表現の不自由展・その後」における出来事への怒りや悲しみを、シニカルに笑う人をSNSでは多く見かける。日本では、批判的であることが社会をよりよくする創造的行為であることがなかなか理解されないが、怒りや悲しみといった感情に対しても、残念ながら揶揄的である。「まあまあそんな怒るなって」と宥められると余計に腹が立つのは、怒りの下にある願望を理解されない苛立ちの上に、感情を否定される悲しみが重なるからだろう。そのままさらに怒りをぶつけることで、対話は破綻していってしまう。

どのような感情も存在して当たり前なのだと認識し、それをそのまま受け止め、どこからその感情が生まれるのか、ではどうするかを考えることが今の時代には求められているのだと思う。アートが「情の時代」を語ること、その作品に目を向け、ともに作品をみる人びとの気持ちに耳を傾けることは、きっと私たちの「これから」につながっていく。


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