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はじめに

文章を読むことと書くことが、子供の頃の私の唯一「人よりも得意だな」と思えることだった。学校の朝読書の時間が大好きだったし、それ以外の休み時間も、本を読んでいる時間が多い子供だった。好きな作家の好きな表現を真似して、自分なりに物語を書いたこともあった。高校の小論文の評価はいつもAだったし、現代文は人に教えることだってあった。

算数や理科が苦手な私には、国語だけが取り柄だった。大好きな本のあの物語は私を違う世界に連れて行ってくれたし、活字にあふれた新聞や雑誌だって、知識や意見の宝庫で、幼かった私の知りたい欲求を満たしてくれた。活字が、言葉が、文章が、文字が躍っているだけで心がわくわくしていたのだ。

ところが、大人になった今の私はどうだろう。

雑誌や新聞はおろか、あんなに好きだった作家の新作すら追わなくなってしまった。カバーがボロボロになるまで読んだ、あんなに好きだった本にもう一度手を伸ばすことだってない。

たしか二十歳くらいまでは、毎日とは言えないながらも最近の出来事や心情を綴っていたブログも、何年もほったらかしになっている。Twitterの140字でさえうまく文章をまとめられず、下書きにはぐしゃぐしゃに丸めたティッシュみたいな文字の羅列が保存されている。

今だって、この記事の書き出しを書くのに半日くらいかかって、何度も何度も見直して、ここの言い回しは違う、表現がおかしい、句読点の位置が、表記が、と何度も何度も文字を打っては消し、打っては消し、あれ、そもそも何が言いたくてこれ書き始めたんだっけ。いやそれくらい明確に出しとけよ、メモくらいしとけよ、文章の構成くらい最初に考えとけよ、馬鹿野郎。

あんなに好きだったのに、あんなに得意だったのに。

きっと今だって好きなのに、私は逃げている。

その理由を自分なりに考えてみて、思いつくことが2,3あったのだけど、それについて私のnoteのなかで少しずつ書いていこうかと思う。久しぶりに自分と向き合ってみようかと。あの頃も、思春期のぐちゃぐちゃどろどろとした自分の中の闇と、自分なりに折り合いをつけていくためにブログを書いていたけれど、ここでも、そんなことができたらいいな、と思う。きっと恥をさらすので、少し勇気と覚悟を持って。

すこしだけ、私にお付き合いしていただけると幸いです。