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私のこと-0歳から34歳まで-

どうも、伊藤です。
本日、5月22日をもってワタクシ35歳になりました。

35歳になって思うのは、相変わらず時間が過ぎていくのがあっという間なのと、ここから40代にかけてそのスピードはいっそう速くなると諸先輩方からよく聞くことから、ここらで一度立ち止まって自分の人生を振り返ってみようと至った次第です。
これまでも折りに触れて振り返りはしてきたつもりではありますが、よくよく考えたら自分の半生という単位で振り返ることはなかったので、35歳になったこの機に0歳から時系列で経歴を追いながら、どのタイミングでどんな学びがあって現在の価値観や人格が形成されたのかを確認するために、自分のバイオグラフィーを書くことに挑戦します。


人と違うバックグランドの0〜9歳

シカゴで生まれる

私が生まれたのは1989年5月、アメリカはイリノイ州シカゴの病院でした。
アメリカ生まれとは言っても両親はゴリゴリの日本人なので(こんなに顔は濃いのに)生物学的にハーフではないのですが、アメリカと日本の両方の国籍を有した珍しい状態で、5歳までをシカゴで過ごします。
ちなみに当時の記憶はうっすらとしか残っていないし、大半の時間を日本で過ごしていると実感しにくいですが、大人になった今でもアメリカに行くことがあったりすると、なんとなく思い出すものがあったり気持ちが落ち着くような感覚があって、その度に自分がアメリカ生まれであることを実感したりします。

3歳くらい?のアメリカっぽい一枚。手前は1歳下の弟

アメリカ帰りであることが恥ずかしかった

幼稚園の年長からは日本で過ごすことになるのですが、当初は食生活からお気に入りのテレビ番組まで、幼いながらもあらゆる点でカルチャーショックを受けたことを覚えています。
特に、幼稚園でも小学校でも「人と同じであること」がよしとされる風潮には強烈な違和感を感じながらも、同調しないことには生きていけないと思い、次第に「アメリカ生まれである自分=人と違うこと」をコンプレックスに感じ、周囲に隠すようになりました。
人と違うことは時に強力な武器になることを後に理解することになるのですが、それが自分の生きる道であることは当時まだ気づくわけもなく。

学校の授業で初めての成功体験

さらにこの時期に自覚したことがもう1つあって、それが「自分は並み以下」であること。
その契機となったのが、学校での体育の授業でのできごとでした。
みんなで鉄棒の逆上がりに挑戦するのですが、回数を重ねるごとにクラスメイトの大半ができるようになっていく中、自分はなかなかできるようにならない日々が続きます。
そして、逆上がりができるようになった同級生には「逆上がりができた子」という明確なラベルが貼られるため、それによって残酷にも何となくクラスでの序列のようなものが可視化されてしまうことになるんですよね。
そこで私は「あぁ、自分は真ん中より後ろにいるんだ・・・」と痛烈な劣等感を抱くことになります。
しかし、その状況を見かねた父親が「逆上がりなんて腹筋すれば簡単にできるようになるよ」と、その日から腹筋トレーニングに付き合ってくれるようになり(もちろん初めは腹筋すらできませんでしたが)、腹筋を10回くらい連続でできるようになった頃に、とうとう私も逆上がりができるようになりました。
もちろん、その頃にはほとんどのクラスメイトが達成していたことだったので、恥ずかしくて「腹筋したら逆上がりができた」なんて言えませんでしたが、これが「並み以下の自分でも、人に言うことが恥ずかしいような努力をすればできることもある」というマインドの原体験になったと思います。
自分のことを「並み」とする考えは簡単かと思いますが、この時に「並み以下」と自覚できたことは、後々いろんなことにチャレンジする際に貴重な原動力になりました。

一方で、作文コンクールでは市に表彰されるという経験もあり、実は文学の才能はあった?のかもしれない

何者かになろうとしていた10〜19歳

埼玉から名古屋への転校

小学校3年生の時に転校を経験します。
せっかく小学校2年間で友達もできて、さらにアメリカから日本の生活に慣れて学校も楽しくなってきた頃だったので、通う学校や住む場所が変わるというのはその全てを失うかのような絶望に感じて、親に引っ越しを告げられた瞬間は弟と大泣きしたことを覚えています。(その涙と引き換えに「これで新しい友達を作りなさい」とニンテンドー64を買ってもらえた時は歓喜でしたが)
また、移住したのも埼玉から名古屋というそれなりに離れた土地だったため、ここでもやはりプチカルチャーショックのような壁に直面しました。
例えば、名古屋には方言があって言葉使いが違ったり、テレビ番組の放送時間も埼玉と異なったり。
ただ、こういった違いがあるおかげで、気がつけば脳内で「埼玉でいうこれは、名古屋ではこうなんだな」みたいな置換をすることが癖になり、物事を俯瞰したり、抽象と具体を行き来できるようになったのは他の同級生より早かったと思います。

それでもやはり何事も並み以下から

小学校も高学年になるにつれて、学校の授業で新しいことを習ったり、部活で新しいことに挑戦する機会が増えると思うのですが、やはりそのほとんどで「(周りと比べて)できない自分」を実感し続けるのでした。
が、先述の逆上がりの経験があったおかげで、この頃にはなんとなく「他の人よりやればいいんでしょ」と腹をくくれるようになっていて、全ての分野で万能でこそなかったのですが、学校のテストや部活でやっていた野球に関しては、結果的にそこそこの成績を残せていたと思います。
そんな私も当時の将来の夢といえばプロ野球選手になることだったのですが、足が遅かった私に対し「足が速くならないとプロになれない」と元高校球児の父親が指導したこともあって、小学校4年〜5年生の1年間に毎日欠かさずダッシュを繰り返したところ、小学校5年生のスポーツテストでは前年はクラスの平均以下だった50m走のスピードが、なんとクラス1位になるまで成長しました。
この成功体験から「やればできる」というポジティブな気持ちと自信が生まれました。

挫折を味わった中学時代

「初めて挫折を味わったのはいつですか?」と問われると、真っ先に答えとして浮かぶのが中学時代の野球部で経験したことです。
上述の通り、小学校で野球を始めて以来、僕の夢というものはプロ野球選手になることで、当時描いていた人生設計というものも、それを実現させるためのものでした。
それぐらい熱望し、根拠のない自信すら生まれるくらい夢中だった野球人生も、中学校の野球部ではケガを繰り返してしまい、練習に参加できないというもどかしい時間が長くなります。
そして、その間に周りのチームメイトにどんどん置いていかれる劣等感と向き合いきれずに、とうとう夢を諦めることを選びます。
自らの選択とはいえ、「夢を諦めた」というレッテルを自らに貼って生きることになるので、ほどなくして「このままじゃダサいぞ」という焦りから、何か熱中できるものはないかと、新しいことを始めようとします。

新たな道を見出す高校時代

そのうちの1つが音楽で、当時流行っていたJ-POPのCDを片っ端から聴くだけにとどまらず、家にあった父親のアコースティックギターを少し触るようになったりと、今まで野球ばかりして持て余していた思春期の好奇心が音楽に吸い寄せられていくのを感じました。(原体験の多くに父親の影響が大きいですね。笑)
幸い、同じ中学校に似たような経験をしている同級生がいて、その仲間でバンド「SilberStyle」を結成することになります。
今思うとどこにでもいるような平凡な高校生バンドだったのですが、当時はどこか自分たちが特別な存在のように感じたものだったし、その感覚だけで何でもできるような気がして、ライブハウスの門を叩いたり、オリジナル曲を作ったり、インターネットを通じて自分たちの作品を発信したりと、たくさんのゼロイチを経験することができたのも、今振り返ると大きな財産だと思います。
「プロ野球選手になれなかった自分」が、とにかくあの頃は必死に「何者か」になろうとしていたのだと思います。

自慢のオリジナル曲たちを名古屋のライブハウスで披露していた高校生バンド時代の私

全てをぶつけた大学受験

そんなバンドも、メンバーが人生の岐路に至った高校3年の夏で解散することとなり、それなりの進学校に通いながらも今までバンド活動を口実に目を背け続けてきた私も、いよいよ卒業後の進路と否応なく向き合うことに。
それまでの私の学業というと、学年で320人中318人目あたりを推移するほど絶望的な成績で、高3の夏から勉強を始めても手遅れだろうという周囲の見解は否めない状況でしたが、中学時代に野球人生を諦めたこと、一方でバンドの道では少し手応えを得ていたことから、「今の自分なら困難も乗り越えれるのでは?」と大学受験に対してもポジティブな気持ちが生まれて、一念発起で進路志望届けに「慶應義塾大学」と書いて提出します。
もちろん、その後臨んだ全ての模試で「E判定」を受け続け、両親も記念受験となることを覚悟していたかと思いますが、「ここで諦めたらプロ野球選手になれなかった自分のままだ」という気持ちで、過去の自分に打ち勝つべく勉強を続けたところ、奇跡的に現役受験で第一志望の合格を手にすることができました。
なかなか成果が伴わない期間を我慢し続けて、予備校の先生が言い続けてきた「現役生はE判定が続いても最後の最後に大きな成長曲線を描く」という言葉だけを信じて取り組み続けたことも、「長期戦において目先の成果に一喜一憂せず辛抱し続ける大切さ」を学ぶ良い経験になりました。

掲示された合格発表に自分の番号を見つけた時は歓喜よりも安堵が先行したのを覚えています

生きていく道を決めた20〜29歳

やっぱり音楽はやめられなかった

大学ではひょんなきっかけでアカペラサークルに加入し、2年生の時には代表まで務めるほど実はサークル活動に没頭していました。
100人以上在籍する組織を率いる経験というのは、今思うとなかなか貴重なもので、その難しさすらも楽しむこともできていたのですが、いかんせん高校時代にバンド経験があって少し音楽的に尖っていた自分としては「本当に自分がやりたい音楽はこれなのか」という葛藤を抱えながら活動していました。
そんな中、バンドを解散した後に名古屋で就職していたバンドメンバーから「お盆休みにレコーディングをしようと思うんだけどお前も来る?」と誘われ、気がつけばSilberStyleを再結成。

気がつけばレーベルから全国リリース

初めは思い出作りにCDを作るだけのつもりだったのですが、「CDを作ったからにはライブもするでしょ」ということでしれっとライブ活動も再開し、そのライブも初めは1本だけのつもりだったのが、次第に月に数本のスケジュールや全国の行脚をこなすように。
そんな活動を数年続けていくと、ありがたいことに全国にお客さんやバンド仲間も増え、バンドの存在がレーベルや事務所などの関係者の目にも止まるようになりました。
かくして2013年10月、SilberStyleは1stミニアルバムをリリースして全国デビューすることになるのです。

ちなみに当初まだ大学生だった私は、名古屋のメンバーとバンドをやるために毎週末に東京から深夜バスで移動したり、卒業後はバンドに合流するために一度名古屋で就職もしつつ、レーベル所属が決まってすぐに退職したりと、着実に身も心もバンドに捧げるルートへと人生が変わっていきました。

「売れたい」という強烈なインセンティブが原動力に

バンドをやっていて良かったなと思うのは、人間としての最低限の礼儀が身についたこと。
私がいた界隈ではわりと体育会系だったというか、縦社会の文化がしっかりとしていて、もしかしたらそれは時代遅れな側面もあったかもしれませんが、「売れたい(出世したい)」という気持ちが不思議にも本来なら理不尽に感じるところを麻痺させてくれたおかげで、半ば強制的に(もしかしたら必要以上に)目上の人への礼儀が身についたものでした。
環境が環境ならばパワハラとも取れるので、なかなか他の現場で再現することは難しいかもしれないですが、だからこそ他では得られない経験だったと思います。
また、全国ツアーを含む年間何十本のライブ活動や日々の練習のためのスタジオ代など襲い続ける出費で生活は当然かなり貧しかったです。
ただ、貧しかったからこそ「与えられた時間をどう過ごすか?」「音楽でどうやってお金を生み出すか」などと思考が研ぎ澄まされたところもあったと思うし、ギリギリの生活の中で見出す充実感こそ生きた心地がしたものでした。貧乏でもそれなりに幸せだった。

 バンドマンの打ち上げの日々はくだらない時間に見えながらも学ぶことが多かった

感性を磨くことに貪欲だった

特に曲作りにはかなりこだわっていたので、より独創的な表現を追求するために感性を磨き続けることが必要だと思い、例えば映画なんかは当時年間150本以上は観たりしていました。
音楽以外で得た教養やアイデアを音楽に昇華する、というプロセスを繰り返していくうちに抽象と具体を行き来する思考やアナロジー思考が養われたと思います。

チームビルディングの難しさ

それでもやっぱり当時のバンド活動を振り返ると、成功よりも失敗の方が圧倒的に多かった。満足していることよりも後悔しているのことの方が多い。
その1つが、チームビルディング。
バンドのリーダーという立場だった私は、メンバーに対して心理的安全性を脅かすコミュニケーションを繰り返してしまい、その結果としてメンバーの脱退が相次ぐという経験もしました。
ちなみに、私のメンバーに対する振る舞いが良くないと気がつき始めたのはかなり後期で、何人かの親しい先輩のフィードバックのおかげで向き合う機会が得られました。この時に厳しい意見をくれる人が周りにいたのは本当に幸せなことだったと思います。

挑戦者として出直す30〜34歳

コロナを機にバンド活動を休止

20代前半に全国デビューし、それなりにお客さんも増えて順風満帆だと思われたバンド人生も、思うようにいかないことの方が増えてきて悩んでいた頃に世界は新型コロナウィルスに襲われ、私たちもライブ活動の休止を余儀なくされます。
ただ、あのままバンドを継続していても何も変わらないままダラダラとした時間が過ぎていくだけだったと思うので、否応なく現場から離れる機会が生まれたというのは幸運なことだったと思います。

大人としての時間を取り戻す作業

コロナでバンド活動が出来なくなってから、不思議にも気持ちの切り替えは早かった。(もしかしたらこういうタイミングをどこかで望んでいたのかもしれないですね)
それからというもの、バンドに夢中であっという間に過ぎた20代という時間を取り戻すかのように、バンド以外でずっとやりたかったことに挑戦するようになりました。
好きだった世界遺産の検定で1級を取得してみたり、ビジネス書を読み漁ってみたり、コロナが少し落ち着いてからは海外旅行にも行くようになったり。
そしてバンド以外の人生にもワクワク出来ている自分に気づくことになります。結婚したのもこの頃でした。

10年ぶりに行ったアメリカも、バンドを続けていたらいつまでもきっかけがなかったかもしれない。コロナ禍を機に価値観のアップデートが一気に進んだ

フリーランスとして本気を出してみる

最後に自分のキャリアについて触れておくと、バンド活動の中でCDやグッズ制作のために興味本位で始めたデザイン制作の延長で、バンドのWeb制作もするようになったのがエンジニアとしてのスタートでした。(高校時代はホームページビルダーを使ってWebサイトをよく使ったものでした)
そして、ありがたいことにそれらの制作物がそれなりの評判を得て、周りのバンド仲間からも制作依頼をいただけるようになり、初めは無償で対応していたのですが、とうとう抱えきれないほどの数になったところでマネタイズを検討するようになったビジネスとしてのきっかけです。
また、案件をこなすことで少しずつ自分ができることに自信を得てからは、クラウドソーシングに活動の場を据えるようになり、バンド以外の方からもお仕事をもらえる機会が増えて、気がつけばバンドやアルバイトの収入よりエンジニア・デザイナーとしての収入が上回るようになったところで、フリーランスとしての活動を生業とするようになりました。
とはいえ、当時まだバンドの活動と並行していたこともあり、気持ち的にはまだバンド最優先の生活で、あくまでもフリーランスとしての仕事は「時間に融通が利いてバイトよりも収入のある仕事」くらいの感覚でした。
それが先述の通りコロナによってバンド活動が休止することで、「よし、いっちょフリーランスの仕事も本気出してみるか」とアクセルを踏んでみたところ、個人のスキル的にも事業の売り上げ的にも大きな成長を迎えることができたのです。

フリーランスとしてのポートフォリオサイト

GiverLinkとの出会い

そんなフリーランスとして活動していた時にクライアントとして出会ったのが、現在私が在籍する株式会社GiverLinkの代表である早坂でした。
当時まだ会社ではなく、サラリーマンだった早坂が副業として新規サービスを個人で立ち上げようとしていた頃で、まさにそのサービスというのが「介護のコミミ」で、お互いフリーランスとしてこのプロダクトを半年かけて作っていくことになります。
そして2019年に介護のコミミをリリースした後、早坂は仙台にGiverLinkを立ち上げ、シードラウンドの資金調達のタイミングで私を執行役員CTOとして招いていただき、かくして2021年にGiverLinkにジョインして今に至ります。

シード期に一緒にジョインしたメンバーと。フリーランスとして黙々と自宅で作ったプロダクトに、多くの人が関わってくれるようになったことにはとても感動したものでした

35歳になった今想うこと

この投稿を書きながら、私自身も初めてこれまでの生涯を通史として振り返ることができたのですが、これまでの35年間の歩みの中で、今の価値観や人格形成に大きな影響を与え、かつ今後も大事にしたい学びは以下の3つであることに気がつきました。

  • 夢中になれるものを見つけてこそ、そこにたくさんの学びが生まれる

  • 他人と違うことを個性として愛し、それを最大の武器にするべき

  • 思い通りにいかないことの中にも学びを見出すべきで、思い通りにいかないからこそ人生は面白い

次回このボリュームで振り返るのは70歳になった時ですかね。笑
それまでにまたたくさんの学びとアップデートがあると想うとワクワクしますね。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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