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「私はなぜ私なのか」「なぜ他の時代ではなく、今この時代に生まれたのか」という問い-自我体験について-


はじめに


「私はなぜ私なのか」「なぜ他の時代ではなく、今この時代に生まれたのか」というようなことを考えたことはあるでしょうか。
このような考え(体験)は自我体験(I-am-me experience/ego experience)と心理学で名付けられ、研究がなされてきました。

このような考えを持ったことがある人はある程度いると思われる一方で、心理学の教科書や辞典にはまず書かれておらず、インターネットなどで言及されていることがあまりないように感じたので自我体験について今回noteに書くことにしました。
自我体験を体験したことがある方は「こういう研究がされていたんだ!」と思って読んでもらえれば嬉しいですし、自我体験にあまりピンとこない方は「こんなことを考える人もいるんだ。へえ。」と読んでいただければ幸いです。

(「この世界には自分しか心を持った存在はいないのではないか」「この世界は夢なんじゃないか」「自分が死ねば世界も消えてなくなるんじゃないか」というような問いを持つ独我論的体験も自我体験として統一的に理解できるという説(渡辺, 2009; 渡辺, 2012)もあり。独我論的体験は別のノートで詳しく書きます。)


そもそも自我体験とは何か?

まず自我体験の定義は、「なぜ私は私なのかという問いを中心に、それまでの自己の自明性が疑問視される体験、および、この困難な疑問に解決を与えようとする思索の試みであって、自己の独自性・唯一性の強い意識が伴うこともある」(渡辺・小松, 1999)とされています。

???
なんだか良くわからないですね。

この定義や冒頭に挙げた「私はなぜ私なのか」「なぜ他の時代ではなく、今この時代に生まれたのか」はやや漠然としていると思われますので、亀田(2009)が挙げている別の例(架空の具体例)を挙げてみます。

ケン君の自我体験「僕はどうして僕なんだろう?僕は僕じゃなくても、他の人でもよかったかもしれないのに、僕は双子のユウでもよかったのに、なぜ僕はケンなんだろう?うまく言えない感覚だけど、魂はなぜこの身体に入ったのかな」

ユウ君の自我体験「長い長い時間の中で、なぜこの時代のなぜこの日本という国に僕が存在するのだろう?そもそも存在とはなんだろう?自分に不満があるわけではないんだ。他の家に生まれたいとかそういうのではないんだ。どうして僕はこの時代に生まれたんだろう?謎だと思うけれど、このことは友達には聞けない」

つまり、このような私はどういう人間なんだろうといったアイデンティティの自分に対するwhatの水準の問いではなく、私の存在そのものがなんなんだろうという自分に対するwhyの水準の問いを自我体験と呼びます。

自我体験の研究史

自我体験的な体験を初めて記載したのは、ドイツの心理学者のシャルロッテ・ビューラーでした。ビューラーは、青年の心理という本の中でルイ・フォン・デリウスという青年の日記の中で、意識の芽生えた瞬間の記述を紹介しています(Buhler, 1921)。その後、ドイツ・アメリカの哲学者のシュピーゲルバーグが自我体験のアンケート調査を初めて行いました(Spiegelberg,1961)。しかし、その後しばらくは自我体験は注目されることはありませんでした。
それから長い年月が経ち、自我体験について体型的な検討がなされたのは、ここ日本でした。
以下、これまでの日本の研究で明らかになったことを紹介します。

自我体験の想起率

自我体験があったという人は、中学生を対象にした面接調査では63.3%であった(天谷, 2002)と報告されている一方で、大学生を対象にしたアンケート調査では、2割から4割程度であると報告されています(天谷, 2004; 渡辺・小松, 1999)。

自我体験を初めて経験するのはいつか

小学校低学年の時に初めて体験されたという報告が一番なされており小学校から中学校の間に広く初めて体験される一方で、高校以降は少ないと報告されています(渡辺・小松, 1999)。

どのような状況やきっかけで体験されるか

自我体験を体験する状況としては、1人でいる時が多い(渡辺・小松, 1999)。
自我体験の約半数はきっかけがない(天谷, 2004)。きっかけがあったものとしては、「死について考えて」「自分を観察して」「宇宙のことを考えて」「他人や生き物を観察して」「人間関係の葛藤」と多岐にわたっています(渡辺・小松, 1999)。

自我体験と精神的問題との関わり

自我体験は離人感を始めとする心理的問題と関わりがあることが指摘されてきた。
急激な自我体験は、自殺や離人体験に陥ったり、心理的危機に陥ったりすることがあることが指摘されています(西村, 1978)。
また、田畑(1985)は小学2年生で自我体験を経て、それが解決されないまま持ち越され、高校生になり登校拒否に至った事例を報告している。
加えて、自我体験にとらわれることが抑うつや自尊感情を低下させたり(天谷、2003),自我体験への親和性が離人感との親和性と関連があることが示されている(千秋・市原,2014)。
ただし、自我体験的な問いは精神病理の分脈でない分野における問いとして、かなりありふれていると予測されるため、ある程度の気分の落ち込みといったレベル以上の精神病理的なものは自我体験の「乗り越え失敗例」「とらわれすぎてしまった例」として捉えるべきとの指摘もあります(天谷, 2003)。
それを裏付けるように自我体験のポジティブな影響も見出されています。
天谷(2010)によれば、自我体験を経た意味としてとりあえず自信をなくしたという<自己拡散>や考えても仕方ないと思ったという<あきらめ>といったネガティブなものが見られたが、自分の内面を見つめ直したという<自己理解>や自分という人間が存在することを実感できたという<自己存在の実感>という自己の側面や自分の存在を考えることによって他人の存在についても考えが及び、人対人のかかわりについてぼんやりとした考えをもてたと思うという<自己・他者関係の理解>の社会・他者の側面、これっきりの人生なんだから精一杯生きようと思ったのでよかったと思うという他分野への思考生命・人生を考える側面などといった多くの側面においてポジティブな影響を報告している。

自我体験は他人に共有されるか

自我体験は他人に話すことが少ない。ある調査では、自我体験を体験した人の中で40%しか他の人に話されれていなかった(清水, 2008)。
自我体験の「なぜ私は私なのか」の問いは自分自身に問いかけるときのみ意味を持ち、対話の相手のある、役割行動としてのコミニケーションの文脈の中では本来の意味を喪失する(渡辺・小松, 1999)とされ、他者に共有されない問いであります。他人に「なぜ私は私なのか?」というように言われても、他人からすればあなたの両親があなたを産んだからあなたなのでしょうとしか言いようがないかもしれません。また、自我体験は余りにも日常性からかけ離れたもの、人に話しても理解されないような、ときに異常とすら受け止められかねない内容をもつ(伊藤,2006)とされています。①本質的に他者と共有できない②話しても異常だと思われかねない、自我体験のこのような点が、他人に共有されない理由でもあると思われます。

哲学における自我体験

自我体験的な問いに対して、論じている哲学者として日本では永井均、欧米ではトマス・ネーゲルがいます。また自我体験の問いは意識の超難問とも言われています。
一方で、三浦俊彦は自我体験を論理的に意味のない問いであるとしています。(私の脳が作り出すのは、必ず私なのであって、他人の脳が私を生み出すことは、あり得ない。よって自我体験の問いは意味がない。)

自我体験研究のまとめ

自我体験は全員が体験するわけではないが、そこまで極端にまれな体験でもない。
自我体験はネガティブな影響も与えうるが、ポジティブな影響も与えうる。

つまり、自我体験は心の成長に必要な皆が体験するものでもなく、完全にネガティブな体験でもポジティブな体験でもない、非常につかみどころのない現象であるということは言えそうです。

では改めて自我体験とは?

それでは、結局のところ自我体験とはなんなのでしょうか。渡辺(2011)は自我体験とは「自己が他の多数の自己の間の一つの自己として存在している客観的世界が成立したのち、内省的自己意識の発達にともない主観的世界が再発見され 、客観的世界(に属する自己)と主観的世界(に属する自己)との間に矛盾が生じることによって自己の自明性に裂け目が入ること」と述べています。

心理学的な自我体験研究の意義


自我体験という現象が存在するということ研究され世の中に広まることによって、自我体験を経た人がそのような考えを持つのは自分だけじゃなかったんだ(自分は異常ではなかったんだ)という安心感や安堵を得られたらいいと思っています。私自身、自我体験的な問いを他の人に投げかけた時に「そんなバカなことはない」と心理学の教員にすら言われたことが多々ありました。そのようなことを経験して孤独感や疎外感を感じる人が減ればいいと思っています。また、心の悩みに関わる精神科医や臨床心理士、公認心理師の方にも読んでもらって、自我体験が決して特殊な人が体験する異常な体験ではないということが伝わればいいなと思っています。(そのような意味もあってこのnoteも書いています。)

今後の自我体験研究

ここまで、これまでの自我体験研究を紹介しましたが、今後の自我体験研究としては3つの方向性があるのかなと今の私は考えています。

① 生涯発達的な視点
これまでの自我体験研究は、主に小学生から大学生までを対象とした研究がほとんどでした。青年期だけでなく、中年期や老年期において自我体験がどのように体験されるかについてはあまり研究されていません。

②国際比較
自我体験は、主に日本だけで研究されてきました。日本以外では自我体験はどのように体験されるかについてはあまり研究がされていません。
しかし近年、ヨーロッパでも自我体験を体験する人がいるという報告がされています(Kohnstamm, 2004)。

これらの二つは今後のインターネットを使った国際的な大規模調査によって明らかにできるのではないかと思っています。

③自我体験がどのような心理的メカニズムによって引き起こされるのか
自我体験自体がどのようにして起こるかについては、ほとんどわかっていません。渡辺(2011)は、メンタルトラベルが自我体験に関わるという魅力的な仮説を提案していますが、これは仮説に留まり、実証はされていません。
ただし、自我体験のメカニズムを検討するためには、自我体験が実際にどのような状況で起こるのかを捉えたり、自我体験を実験的に生じさせる試みが必要であると思われ、いまのところ方法論が確立されていない状況です。(自我体験を操作的に生じさせた試みについては渡辺(2014)を参照)


今後、意識がどのようにできているか解明されることにより、自我体験自体の問いは科学的な意味を無くすかもしれません。意識自体の研究は、近年どんどん行われています。
(その一例として、クオリア構造と情報構造の関係性 https://qualia-structure.labby.jp/
一方で、自我体験がどのような心理的影響を与えるかといった問いは心理学の研究テーマとして残るかもしれません。

シュレディンガー「わが世界観」

最後に、物理学者シュレディンガーの「わが世界観」から(やや長いですが)一節を引用して、このnoteを閉じたいと思います。

アルプスの山岳地帯における、とある道端のベンチに君が座っていると仮定しよう。(中略)
君が見ているものはすべてわれわれの通常のものの見方によれば─君が存在する以前から、少しの変化はあったものの、幾千年もの間ずっと変わることなくそこにあった。しばらくのちに─それはそう長い間ではない─君はもはや存在しなくなるであろう。それでもその林や岩や青空は、君がいなくなったのちも、幾千年も変わることなくそこに存在し続けるであろう。
かくも突然に無から君を呼び覚まし、君にはなんの関係もないこの光景を、ほんのしばらくの間君に楽しむようにさせたものは、いったいなんなのであろうか。考えてみれば、君の存在にかかわる状況はすべて、およそ岩の存在ほどにも古いものである。幾千年もの間 男たちは奮闘し、傷つき、子をもうけ、はぐくんできた。そして女たちは苦痛に耐えて子を産んできた。おそらく百年まえにも誰かがこの場所に座り、君と同様に敬虔な、そしてもの悲しい気持ちを心に秘めて、暮れなずむ万年雪の山頂を眺めていたことだろう。君と同様に彼もまた父から生まれ、母から産まれた。彼もまた君と同じ苦痛と束の間の喜びとを感じた。はたして彼は、君とは違う誰か他の者であったのぁろうか。彼は君自身、すなわち君の自我ではなかったのか。…はたしてこの「誰か他の者」とは、明瞭な科学的意味をもったものなのであろうか。…なぜ君の兄は君ではなく、君は遠縁のいとこのうちの一人ではないのか。もしアルプスの風景が客観的に同じものだとしたら、いったいなにが君にこの違い─君と誰か他の者との違い─をかたくなに見いだそうとさせているのであろうか。

引用文献

天谷祐子 (2002) 「私」への「なぜ」という問いについて:面接法による自我体験の報告から 発達心理学研究,13, 221–231.

天谷祐子 (2003) 「私」への「なぜ」という問い――自我体験――に関する概観と展望 名古屋大学大学院教育発達科学研究科紀要(心理発達科学),50, 29–48.

天谷祐子 (2004) 質問紙調査による「私」への「なぜ」という問い――自我体験――の検討 発達心理学研究,15, 356–365.

天谷祐子 (2010) 自我体験を経たことによる意味の内容に関する質的分析 東海学園大学研究紀要,15, 3-13.

伊藤良子(2006) 青年期のクライエントが振 り返る10歳のころ 臨床心理学,6(4),492-49

亀田研 (2009).  子どもの<自己>を育てる〔3〕子どもの自我体験―― 自分に目覚めるとき   児童心理, 13, 1268-1274.

Kohnstamm, D. (2004)Und plötzlich wurde mirk lar: Ich bin ich!: Die entdeckung des Selbstim Kindersalter. Aus dem Niederländischen
übersetzt von Matthias Wengeroth. Bern: Verlag Hans Huber. 渡辺恒夫・高石恭子(訳)(2016)子どもの自我体験 ヨーロッパ人における自伝的記憶 金子書房 pp246-263

千秋佳世・市原有希子(2014)自我体験の体験類型および離人感との関連に関する研究. 心理臨床学研究,32(1),72-84

清水亜紀子(2008)自我体験について「語り―聴く」体験をめぐる一考察 京都大学大学院教育学研究科紀要,54,464-477

Spiegelberg, H. (1961)On the “ I-am-me experience”in childhood and adolescence. Psychologia, 4, pp135-146.

田畑洋子 (1985).“お前は誰だ!”の答えを求めて ある登校拒否女子高生の自我体験 心理臨床学研究,2(2), 8–19.

西村洲衛男 (1978).思春期の心理—自我体験の考察— 中井久夫・山中康裕(編) 思春期の精神病理と治療 岩崎学術出版社 pp. 255–285.

Büler, Ch. (1921). Des Seelenben des Jugendlichen Stuttgart, Gustav Fischer Verlag(ビューラー,Ch. 原田 茂(訳)(1969).青年の精神生活 協同出版)

渡辺恒夫・小松栄一 (1999).自我体験:自己意識発達研究の新たなる地平 発達心理学研究,10, 11–22.

渡辺恒夫 (2011). パーソナリティの段階発達説—第二の誕生とは何か— 発達心理学研究, 22, 408-417.

渡辺恒夫(2014)  人間的世界経験のパラドックス構造-マッハ自画像の「実験」・自我体験・心理学の躓きの石, 情報コミュニケーション学研究, 14: 83-95



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