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足尾銅山鉱毒事件をたどって

先日、渡良瀬川流域(栃木県、群馬県)を訪問。

現地のガイドの下、足尾銅山の鉱毒に苦しむ住民のために奔走した田中正造に縁ある地を巡りながら、足尾銅山を訪れた。

水質汚染や大気汚染など、公害の存在自体は認識していたけれど、公害をいまいち自分ごとにできずにいた。
それが、今回の訪問で公害が一気に身近な存在になった。

水がきれいであること、
土がきれいであること、
空気がきれいであること。
それがどれほど大切なことなのか。

一度汚染されてしまったら、元に戻すことはとても難しい。
公害は私たちの生活基盤を破壊してしまう。
そんな恐ろしさを感じた。
だからこそ、汚染が起こる前にとめなくてはいけない。そう痛感した2日間だった。

伝えていくことの難しさ

移動中、外に目を向けると子供服のチェーン店が大通り沿いにちらほらあった。また、ランチに訪れた食堂には幼児向けの玩具が用意されていた。以前もこの地域にきたことがある人がいうには、ほかの店にも、子どもが遊べるような玩具があったという。小さな子どもが多いことが伺える。昔から住んでいる家族もいれば、仕事の都合で(自動車部品などの工場が多い)移り住んだ人も多そうだ。
けれど、この20-30年の間に移り住んだ人のほとんどは、自分の住む場所が公害の被災地であり、その鉱毒が今も地下に存在するということを知らない。
一部の区域は、官民による土の入れ替え(土地改良)が行われたものの、土が入れ替わったところには、皮肉なことに、住宅ではなく工場などが立ち並ぶ。

けれど、この土地に住む人々に「まだ公害は続いている」と、伝えるのはとても難しいことだと感じた。
もし、自分が家の下の土壌が汚染されていると言われたら、どんな気持ちがするだろう。
でもそう考えたとき、今は表立っていないだけで、自分が住んでいる場所も何かしらの問題を抱えているかもしれないと、ハッとした。

公害の再来ー気候変動による影響

足尾銅山自体は1973年に閉山したものの、今もまだ使用されている鉱滓(金属の精製過程に出てくる廃棄物。スラグ)の堆積場があると聞いて、現場を望める場所まで行ってみた。
いざ目の前にすると、堆積場の鉱滓は、堤防のすぐ際まできていた。あれが溢れたらどうなるのだろうと思う。実際、2019年の台風19号の際は一部放流し、その水には基準値以上の有害物質が検出されたそう。

気候変動は公害を悪化させてしまうと痛感すると同時に、公害は起こってしまったら、終わりはないのだと感じた。

鉱滓の堆積場。
鉱滓は堤防のすぐ際まで積もる。決壊したらどうなるだろう。


また、鉱山での労働者の健康被害もある。鉱山の運営会社は社員に対し、手厚い福利厚生を提供していたそうだが、労働中の事故や病気なども絶えなかったそうだ。さらに、第二次世界大戦中は、中国や朝鮮半島からの強制労働者もいたという。

慰霊碑の前には、真新しい千羽鶴が供えられていた。


今、日本ではほとんど金属採掘は行われていない。けれど、世界のどこかでは、今この瞬間も採掘が行われている。その現場では、きちんと環境対策、労働者の保護がなされているのか。そう考えずにはいられない。

うまく言葉にできないけれど、思うこと

太田市には、鉱毒根絶を祈念するモニュメントがあり、それに刻まれた祈念文は、次の言葉で締めくくられている。

公害を無くし日本が平和で豊かな国であれと祈る

祈念鉱毒悲歌根絶の碑
今回の訪問の中で一番心に残った言葉。


自分たちの使う水を、エネルギーを、身の回りのものを、有害にならない形で循環できる社会にしたい。
とはいえ、工業製品に溢れた中で暮らすことに慣れきってしまった私たちは、これ以上自然を汚さずに、これから生きていくことができるのだろうか。

不安にならずにはいられないけれど、それでも、安心して生きることができる基盤を守り、つくり、つないでいくことに、これからも関わっていきたいと思う。

《訪問場所》

〈1日目〉
- 佐野市郷土博物館 田中正造展示室
- 田中正造墓所(惣宗寺)
- 田中正造生家
- 谷中湖
- 太田市足尾鉱毒展示資料室
- 祈念鉱毒悲歌根絶の碑

〈2日目〉
- 足尾銅山
- 足尾朝鮮人強制連行犠牲者慰霊碑
- 中国人殉難烈士慰霊塔


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