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高2で知った、死の瞬間から火葬までの全て

これは、2021/02/28に亡くなった私の母について、その日、その場、その時に思ったことを全て書き記したものです。母は末期癌でした。自宅で急死した場合の救急隊の対応から、警察の事情聴取、喪主側から見た葬式の裏話、そして火葬して骨を拾うまでの全てがリアルタイムで記してあります。

これより下にある文は全てその場でその時思ったことを書き込んだものです。書き手の未熟さにより多少不明瞭な部分は御座いますでしょうが、そこはご容赦頂けると幸いです。

この話は前日談から存在します。まず最初は母が亡くなった当日、2/28に記した分です。括弧の中の言葉は、文章を保存した当時のファイル名をそのまま載せています。


2/28「母が死んだ日」

母が死んだ。母の年齢は59歳だった。娘の私は17歳、父は47だった。
今はこの感情を忘れないようにここに書き記しておこうと思う。先に言っておくが、私はこの母の死に対して何も後悔するつもりは無い。だって、後悔なんて一欠片でもしたら、私を心配して、誇って、自慢に思ってくれた母に、失礼だから。


今母の遺体はCTに通している。検査が終わるまで30分ほどかかるらしい。
私は今病院の待合室でこの文を書いている。
母は若い人だった。私が小学校の頃、「おかあさんは25歳なんだよ」という嘘に騙されて、先生に言って回って逆に母を困らせたりなんかしていた。でも、その若すぎる年齢を言っても信じてもらえるくらい、母は若い人だった。見た目と言うより、生き方や言葉が若かった。メイクもあまりしなければオシャレにも無頓着だったが、自分の美意識に従った服を着て、よく冗談を言って周りの人を笑顔にするような、愉快な人だった。改めて言うが、私は約1ヶ月間母と会えなかったことも、あまり会話出来なかったことも、ろくに親孝行できなかった事も後悔はしてない。後悔するぐらいなら、その時間をこれからのために、自分の能力を上げるために使う。それが、母に報いる一番の方法だと思った。
昨日あの文章(※2/27の記録)を書いたのは、もしかしたら、なにか予感していたものがあったのかもしれない。1ヶ月ぶりに会った母は、手足が棒のように細くなっていて、もう到底自力では歩くことは出来なさそうだった。漠然と、ああ母はこのままベッドの上で最期を迎えるんだろうと、思ってしまった。


昼頃の母は意思疎通が取れた。私の話にも相槌を返してくれたし、はっきりと発音することは難しい様だったが、水が飲みたい、冷たい、痛いなんて意思表示はできていた。私はそれから5時間ほど母の近くに居た。ずっと、そばでタブレットで絵なんかを描きながら、じっと見られていても落ち着かないだろうと、居心地が悪くならないようわざとそっぽを向いたりなんかして、でも母が声を少しでも出したら直ぐに近くに行って要望を聞いたり、会話したりなんかして、ずっと母のそばにいた。その時は何故か、強くここを離れては行けないと思っていた。今思えばこれもある予感のひとつだったのかもしれない。この時の自分の判断に、拍手でも送ってやりたい。

母の、友人が来た、親戚が来た、姉が来た、母が来た。16時頃、祖母が来た頃にはもう母は呻くことしか出来なかった。私は、母がその状態から回復して、明日には元気になるのだろうとは思えなかった。 直感に近かったのかもしれない。会えなかった1ヶ月間、薄々感じていた嫌な予感、母の死という概念、信じたくなかったもののずっと近くに感じていたそれが、今日会った瞬間今までで一番近くに感じられた。

私は途中会話の流れで、母の目の前で父と母に向かって母の宝石を使った作品を私の卒業制作にしたいと語った。金属で形どった猫に母の扱っていた綺麗な宝石をつけるのだと、母の友人にも語った。私は、その時は母にそれを送るつもりで語っていた。しかしそれと同時に、母がその作品を作る頃にはもうこの世に居ないのかもしれないということも、じわりと感じていた。そのくらい、死が身近に感じられる空気だった。今日でなくとも、いずれ近いうちに、とは思ってしまった。信じたくなくてその考えからそっぽを向いても、結局その嫌な予感は私の頭の中から消えることは無かった。


祖母が来て少し経った。母が大きく目を見開いて動かなくなった。呼吸が小さくなった。脈を計っても、分からなくなった。測った時、動揺していて、自分の脈と区別がつかなくて、動いてる方に縋った。生きてると思いたかった。でもきっと母はそのとき既に


救急車を呼んだ。電話を繋いでいる間、母の友人が心臓マッサージをした。母の姉が手を掴んで必死に呼びかけていた。父方の祖母が心臓マッサージをした。父が心臓マッサージをした。
娘の私はただ母の手に縋って、歯を食いしばって、ぼろぼろと泣くことしか出来なかった。


何分経ったか、救急隊員が来た。4人くらいいただろうか。名前も知らない沢山の機材を出して、母に心臓マッサージをしていた。口にも何か空気を入れるような機械を当てているのが見えた。私はその間ベットの影から見える、マッサージにあわせて揺れ動く母の細く白い足を見ていた。


救急車が来た。結局、母の死の瞬間に立ち会ったのは私と母の友人だった。救急車には、親族と言うことで私と父が同行した。私は助手席に、父は救急隊によって心臓マッサージをされている母と共に、後ろに乗った。道中色々なことを聞かれた。1ヶ月会っていなかった私は、普段の母の様子なんて答えられなかった。なるべく冷静にいようと、涙を流しながらも、声だけは冷静に、できる限り質問に答えた。何時に息をしなくなったか、どのような姿だったか。

山道を走る救急車の中で色々なことを考えた。卒制の作品に使う石は、母の形見になってしまうのだろうか、学校に行ったら、なんと説明すれば良いのだろうか、泣いてお母さんが死んだと友達にすがればいいのだろうか。昨日電話で泣きついた友人にはなんと説明しようか、学校の先生になんと伝えようか。どうやっても考えることは全部母の死についてだった。母の死を認めたくない気持ちと、その先のことを考える気持ちが同時に存在していて恐ろしかった。

18:15。母の死亡が確認された。

私は母のコートを着て、母が直前まで身につけていたバスタオルを握りしめて、それを聞いた。痛ましげな顔をした医師が、「触れても大丈夫ですよ」と言うので、死んだ母に触れた。そっと撫でた頬はまだ温かかった。涙がまたボロりとマスクの中に落ちた。


CTの結果が出た。左の肺に、肺いっぱいに水が溜まっていた。写真を見た時には肺がないのかと思った。隙間が少しもないほど、上から下まで水でいっぱいだったらしい。それにより、心臓がもう片方に押しやられていた。おそらく死因はそれだろうとの事だった。その日会ってから、ずっと苦しそうに呻いていた理由が、今になってよくわかった。解剖は拒否した。

父が、母の閉じきらない瞼をそっと下げて、髪をかき撫で、ゆっくり腕を下ろした。大きく、押し出すように息を吐いて、涙を零していた姿をよく覚えている。父の「こんなことなら最期くらい髪を整えてやってればよかったなあ」なんて声を聞いて、さらに、私のマスクの中に涙が落ちた。


病院の廊下を歩いている時、父に「この後どうするの?」と聞いた。父は泣きそうな声で「色々だよ、葬式とか、いろいろ。」と答えた。止んだと思った涙がまた頬を伝ったのがわかった。心は受け入れられていないのに、体ばかりが先に母の死を受け入れている。枯れるほど流した涙は、マスクの中に溜まって、口の中に入ってきた。涙の味をこんなに長く味わったのは初めてだ。同時に、二度と味わいたくないと思った。こんな涙の味は。


母は、娘の私と、母親と、母の親友に見守られて逝った。もしかしたら、それまでギリギリ保っていた糸が切れてしまったのだろうか。今思うと、本当に虫の知らせがうるさかった。認めたくなかった私はそれを無視して、しかし、心のどこかで認めていた。母の死期が近いことは、何となく察していた。でも考えたくなかった。結局、母は死んだ。

悲しい、悲しい。お母さん死んじゃったよ。

最後にもう一度と触れた母の頬は、柔らかかったのに、先程までの温かさはなくて、冷たくて。いつしか触った、祖父の死んだ体と同じ温度がして。唇も肌も真っ白で、力なく半端に開いた目がどこにも合わなくて。嗚呼、

霊安室に来た。今これは霊安室の中の椅子に座って書いている。担任の先生と友人達には母が死んだ旨のメッセージを送った。この後、家に帰ったら母の黒い服を探ささなきゃいけない。私がそれを着て母を見送る。父は「これから休む暇はないぞ」と言っていたが、本当にそうなりそうだ。
霊安室で、お母さんの家族がみんな「頑張ったねえ、きつかったねえ、」と母に声をかけるのを見て、また涙がこぼれた。霊安室に行く途中に父がボソッと言った「こんなことになるならシチューの作り方、教えて貰っとけばよかったね」という言葉に、再び涙が落ちる。シチューの作り方は、母しか知らない。私は二度とあの味を味わえない。母の作るシチューは、私の一番の好物だった。


霊安室には仏壇みたいなものがあった。横からしか見れなかったが、御堂の様なものは空っぽに見えて、横に造花の花がいけてあって、音を鳴らすあのボウルみたいなのがあって(後で知ったが、これはお鈴というらしい)、電気で灯るロウソクと線香が立ってた。結構人工的な空間だったが、想像していたような、死体が沢山置いてあるような部屋ではなかった。中心に母が1人、横たわっているだけだ。部屋の、入った扉の反対には、大きな壁一面の扉があった。どこに繋がるのかは分からない。

この携帯を持ってくるために、霊安室を出てからもう一度入った時、頭上から見た母の頭が、骨まで透けたように骸骨の形に浮かんで見えて、少しドキッとした。

名前も知らない親戚の葬式は何度も行ったことはあるが、彼等の肉親はこんな気持ちであの場に立っていたのだろうか。死んで数日も経たないうちに。私なら耐えられない。蝋のように固くなった母の姿は、もう見たくない。けれど、これが最後に見る姿だと思うと、何も言えない。母はもう動かない。


親戚や母の知り合いが言う、「«母の名前»ちゃん、娘のあんたの自慢ばっかりしててね、嬉しそうにね、頭が良いんだよとか、絵が上手いんだよって」なんて言葉に、涙も嗚咽も止まらなかった。

母はずっと私のことを思って、私に一切何も知らせなかった。私がその1ヶ月はテストで忙しいからなんて気を使って、心配をかけないように、何一つ自分のことをメールに書かなかった。でも私はいつも送ってすぐ返事が来るメールが、二、三日おきになって、五日たっても何も来なくなった時から、薄々何かを感じ取ってはいた。結構、第六感ってものは馬鹿にならないものだ。霊安室で父が最初にこぼした「お前にはこんな経験させたくなかったんだがなあ」という声がやけに頭に残っている。

私は今、この文を書くことで平静を保とうとしている。やめてしまったら、このやりきれない気持ちをどこにやればいいのか分からない。私は最後までこの記録を取り続けようと思う。というか、記録と言うよりただの自分語りだ。こんな私情でぐちゃぐちゃの文は記録とは呼べない。泣きすぎてそろそろ頭が痛くなってきた。このまま頭が張り裂けてしまえば、いっその事楽なのに。

今から警察の事情聴取がある。軽くメモでもしておこうと思う。隣で親戚や父方の祖父母も聴取を受けているのが見える。
父と私の名前、仕事内容、電話番号、母の電話番号、死んだ時の状況、容態が変化したときの時間、その場に居た人間、家族構成、母の実家の電話番号、何時に誰がその場に来たか、いつ母が退院したか等、色々詳しいことを聞かれた。ほぼ父が答えてたけど、現場の状況はなどは最期をみていた私が答えた。そういえば目の前の警察の人はボイスレコーダーのようなものを持っていた。使っている様子はなかったが。

その後、飲み物を買うために暗い病院の廊下を歩いた。暗い病院は、いつもなら怖いと脅えても良さそうだったが、今ばっかりは何も思わない。何も怖くない。心の中が別のことでいっぱいいっぱいで、恐怖を感じるどころではなかった。水は熱くほてる目に当てた。冷たい。気分が悪くなる冷たさだ。昼から何も胃に入れていなかったが、水ももう飲む気にはならなかった。


二度目の霊安室。これから母の体を拭いて、死化粧をする。その場にいる全員がビニールのエプロンと青いビニール手袋をつけた。まず顔を拭いて、次に腕、足を拭く。横に倒して背中を左右から拭いた。その後、なにかを肛門に注入したのが見えた。体液漏れ防止だろうか。浴衣が左前になっていたり、帯を縦結びにしたり。浅くしか知らない知識でも、漠然と死を感じる儀式だった。

化粧は、顔にまずクリームを塗って、次にクリーム状と粉状のファンデーションを塗り、眉毛を書いて、頬紅を乗せる。最後に口紅を父と2人で塗った。私が下唇、父が上唇だ。上唇を塗ってる途中で、「なんか変」「ぬりすぎたか」なんてやり取りをしながら、最後には私が綺麗に整えた。父の「まさか僕が妻に化粧をすることになるなんてね。こんなの最初で最後ですよ」と言う言葉に、思わず止まっていた涙がまたこぼれ落ちた。


ところで、空っぽだと思っていた仏壇みたいなものは空っぽじゃなかった。何かはわからなかったけど、なにか入っていた。板のようなもの。そしてあの謎の大きな扉は棺を乗せた車が止まるところだということがわかった。そこから黒い服を着た人が入ってきて、化粧が終わるのを待ってから、扉を開いた。そこから、木の枠でできた白い棺を入れて、中を整えて、親族の男衆で母を抱えて中に寝かせた。中の布は光沢があってつやつやしていた。
化粧をしている時も、柔らかい皮膚に触れる度にまだ生きてるのではなんて幻想にすがった。棺に入れる時に手がぴくりと動いた気がして、思わず待って、と声をかけそうになった。そんなはずないのに。何か考えたらまた泣きそうで、無心でずっと体を拭き、化粧もした。

こうして文章に落とし込むことで、何とか理性を保とうとした。記憶は完全には残らないけれど、記録は残る。今感じたこと考えたこと全部をここに残したい。


今母の棺を乗せた車で葬儀場に向かっている。車内では父と葬儀場の人とで通夜と葬儀の打ち合わせがあってる。私はただこれを書きながら無言で助手席に揺られていた。

お母さんが死んでから、死体になってから、まるで違うものみたいで。そう思ってしまう自分が怖かった。さっきまで、数時間前まで生きてた、「お母さん」が「死体」になってしまった。血が通ってない、冷たい、でも皮膚は柔らかくて、生きてた頃の名残があって、薄く開いた閉じ切ってないまぶたから目が合うと、今にも起き上がってくるんじゃないかとさえ思えて。でも線香の香りが、木でできた白い棺が、色の抜けた肌が母の死を確かなものにする。母は死んだのだと、まざまざと突きつけてくる。怖くて仕方がない。母が死んだと信じられない。
胸が苦しくなる。水が喉を通らない。ご飯も食べれる気がしない。怖い。まるで白黒な世界においていかれたような気分だ。

葬儀は、母が元クリスチャンで(今は無宗教だが)、お経をあげたりだとかは望まないということで、偲ぶ会ということになり、献花をするという事に落ち着きそうだ。父からの又聞きだが、母いわく、「お坊さんにお経唱えられたところで成仏できる気がしない」だそうだ。いかにも、母らしい。

献花は白い花らしい。白い花とは、母はどう思うだろう。色とりどりに飾った方が喜んだ気もする。まあ、買ってきたりする時間なんてものは無いから仕方がない。

霊柩車の種類も選べるらしい。あのお宮みたいな屋根のついた車は今は一般的ではないらしい。白と黒、アルファードとクラウンで選べると聞いて、こっちの方がいいだろうということで、白のクラウンに決まった。

葬儀の話は私にはやはりよく分からない。けれど、この知識や経験がいつか役立つ日がくるのかと思うと、ゾッとする。正直二度と経験したくない類のものだ。

香典返しのカタログを今見てる。ぶっちゃけ色々ありすぎてよく分からない。最終的にお茶と金封のセットみたいなものになった。どうやら、葬儀の途中で思い出の写真をムービーにして流すらしい。それに伴って、10枚写真を選ぶことになった。選んでる途中で、色んなことを考えて何度も泣きそうになった。いつか行こうねと言っていた毎年恒例だったママ友同士でのあの旅行も、もう行けないのか。そうか。


今はただ、何も深く考えたくはない。涙もやっと枯れてきたと思ったのに、母の親戚に、友人に、母の思い出話をされただけで、自分の知らない母の話をされただけで、また涙が溢れ出してきてしまう。


死亡届は白と黒でできていた。死亡届の隣に死亡診断書が付いている。あまり知りたくなかった。こんなもの身内でもなければまじまじと見ることなんてないだろう。こんな紙切れで人が死んだことが証明されるなんて、なんだか不思議な気分だ。人間の心はこんなにも複雑なのに、書類はいつもシンプルで素直。憎々しいほどに。


水で濡らしたタオルが腫れた目と頭痛に効く。そろそろご飯を食べて眠ることにする。お母さんの隣に父と布団を敷いた。おやすみなさい



2/27 前日談「お母さんが、」

※これは先程の母が死んだ時の前日、たまたま記録していたものです。これを書いた当初はこのようにずっと記録をつける予定もなく、母が亡くなることもなにも知りませんでした。


下宿にいた私の元に、父から1本の電話がかかってきた。

「お前わかってると思うけど、お母さんが」

このセリフを聞いた時、私の頭には最悪の場合が思い浮かんでしまって、頭が真っ白になった。
どうやら、今すぐ危険だとかどうだとかではないらしい。命は。意識がはっきり保っていられるうちに会っておいた方がいいと続けられた言葉に、私はなんと返事をしただろうか。混乱した頭の中、ただ無言の時間が流れる。その間にも私の頭の中はぐるぐると色んな思考が渦巻いていて、それは明日の学校どうしようかだとか、課題が、だとかそんな場合じゃない、人って本当にこんな時何も考えられなくなるんだ、なんて色んなことを考えた。そしてそれらは全部涙として目からこぼれおちた。どうしよう、お母さん死んじゃうの。
今までうっすらと頭にあったものの受け入れたくない一心で何も思わないようにしていた母の死という概念がすぐそこに迫っているのを感じた。何も考えられず、とりあえず担任の先生に明日の日程を聞いて、出来るだけ早く帰るために、行事を休みたい旨の連絡をした。何も考えていなかったせいか、いつもよりやたら丁寧な言葉になっていた気がする。そしてその後、友人に今すぐ通話したいと伝えた。「ごめん、今からご飯なんだ」と返事が帰ってきて、ああそっか、なら落ち着いた時に連絡できるからちょうどいいか、なんて思っていたら、「でも大丈夫!」なんて言葉と共に電話がかかってきた。多分もう嗚咽で何を言っているかほとんどききとれなかっただろう。私はたどたどしく、お母さんが、お母さんがと繰り返した。しばらく経って、ある程度冷静になって、友人に事情を説明していると、担任の先生から電話がかかってきた。ごめんね、通話一旦切るねと断りを入れて、担任の電話の方に出た。まだ涙は止まっていなかったため、ある程度はっきり喋れるようになったとはいえ、嗚咽は止まらなかった。色々相談した結果、結局私は明日から4日間は学校を休むことになった。

先月、全く家に帰ることが出来なくて、私は1ヶ月合わなかった母のことを度々思い出していた。今になると、なにか感じていたのかもしれない。とりあえず父に学校を休むことになったことを伝える。この時には、もう嗚咽も涙も泊まっていたが、バレていたんだろうきっと。心配するななんて言っていたが、するだろう。突然そんな電話が来たこっちの身にもなって欲しい。ごはんを作っていた途中、大家さんと出会えたので、簡単に事情を説明して、明日から休むためご飯はいらない旨を説明した。

学校の友達に、なにか連絡があったら教えてとLINEを送る。ああ、明日提出の課題がそういえばあったな、まあいつか出せばいいだろう。だって、ぶっちゃけそれどころじゃないんだから。泣いてスッキリして、いくらか理性的な思考が戻ってきたとはいえ、全く冷静になれたとは言い難い。

とりあえず切り替えていつもの生活に戻ろうと、朝から書いていた小説の執筆を完成させて、サイトにあげた。コメントとタグが着くのが嬉しい。でもごめん、多分その続きを待機のタグにはしばらく答えられないかもしれない。嗚呼、全ての予定が狂った。色々計画して、卒業制作もやろうと思っていたのに、全くそれどころじゃない。でもこれで学校を優先できる子供なんているだろうか、いるはずがない。このメモだって明日に見て、こんなことを私は思ってたのか、なんて思うんだろう。とりあえず、メダルと、写真と、テストの点数もだ、色々話さないと、話したいことはいっぱいあるのに、ありすぎてまとめられない。
明日の10時に父方の祖父母が迎えに来る。荷物をまとめなくては。




3/1「母が死んだ次の日」

私は母の棺桶の隣で目を覚ました。

今日は色々準備することも多く、急いで家に帰りたかったので、おじさんが貸してくれた軽トラで父と自宅に帰る。そういえば救急車に乗ってきたため、家に帰るための足がなかったことをここで思い出した。車に揺られている時間がいつもより長く感じた。その間も、母と親しかった人に連絡しなきゃ、だとか、湯灌の後に着せる服を探さなければ、だとか色んなことを考えた。


一夜越しに帰ってきた我が家は、憎いほど何も変わってなくて、何もかもがそのままで、まだ母がいるような気さえして泣きそうになった。家の中はやけに静かで、いつもそんなにうるさい訳では無いのに、この静寂はいつもとどこか違うような気がして、自分の家なのにずっと落ち着かなかった。


アルバムを引っ張り出してきて、葬儀で流す写真を10枚選んだ。若い時から、父との出会い、家族写真、親族の写真。この頃になると、そろそろ感情にも整理がついてきて、もう母の死を受け入れつつあった。昨日一日中枯れ果てるほど泣いたおかげで、涙も落ち着いてきた。でもまだ、母の死を実感する度に胸が苦しくなる。こればっかりは堪えきれそうもなかった。

着せる服はできる限り普段着に近いものを選んだ。でも、その服でよく庭作業をしていたおかげで、袖は泥だらけ。本当はもっとオシャレな格好で送り出す方がいいのだろうかと、豪華な着物を着せたり、よそ行き用の格好をさせた姿を想像してみたが、そうすると普段の母の姿からは遠いように思えて、父と話し合い、それよりは馴染み深い普段通りの格好の方がいいだろうということになった。母は化粧っ気がない人で、よそに行くにしてもあまりオシャレな格好をする感じではなかったので、家族が見る母の姿はいつだってお気に入りの作業着を着て薔薇の世話をしている姿だった。

斎場に戻ってきた。母は変わらずそこにいた。そこで先に待っていた母の姉いわく、その時一時間ほど電波障害が起こり、携帯が全部圏外になって繋がらなくなったらしい。やっぱり、そういうことはあるんだろうか。
そういえば、白が丁度今なかったとかで結局霊柩車は黒のクラウンになったらしい。


今から目の前で湯灌が行われる。
どうやら湯灌の様子は親族も目の前でみれるらしい。

作業のために白い服を着た業者の女性二人が入ってきた。窓からホースが通され、下の管の所に繋がれた。
私は昨日見れていなかったが、母のお腹の上に大量にドライアイスがのせられていたらしく、業者の人が棺桶の中から四角い固まりをどんどん取りだしていく。

父も手伝って、母を黒く浅いバスタブの上に乗せた。棺桶の窓から以外で改めてまじまじと見た母の横顔は、あまりにも安らかで、眠っているようにしか見えなかった。
体の上にバスタオルがかけられ覆い隠される。湯灌が終わるまでに1時間ほどかかるらしい。
まず、最初にブラシのようなもので泡をくるくると顔全体に広げて、剃刀のようなもので丁寧に全体を剃っていた。その間パチンパチンと響く音は、多分爪を切っているのだろう。隣で祖母が一円玉を六枚集めて六文銭の話をしているのが聞こえた。火葬の時に中に入れるのだろうか。
今母は髪を洗っている。シャンプーをして、シャワーで丁寧に洗い流されている。

その後髪をタオルで覆い、顔を洗われていた。1度私達が化粧をしたせいだろうか、それともただ血が溜まっているだけだろうか。あの瞬間は真っ白だった母の血の気の失せた唇に色がついているように見えて、それがあまりにも自然な色合いで、本当に寝ているだけなんじゃないかと思えてきた。
多分今背中を流している。こちらからは肌が見えないようにされているため、1人が体を斜めに抱え、もう1人が背後でシャワーを流している。そのあと足を泡で指の1本1本まで念入りに洗われているのが見えた。終わったら、片方ずつ手をお湯で洗い流している。

ここで気がついたが、もしかしたらあの窓から通したホースはあの浅いバスタブに溜まった水を抜くためにあるんじゃないだろうか。いや、ただの予想だが。湯灌で洗わられたあとの母は、肌も綺麗になっていて、瑞々しくて、今にも動き出しそうだ。確かに、「湯灌すると顔も服も髪も大変綺麗になります」と言われていた理由がわかった。最期くらいは、このぐらい綺麗な姿で迎えるのがいいのかもしれない。

最後にお母さんの顔を拭かせてもらった。普段の化粧の様子や、髪型をどうするか等を聞かれた。母は本当に化粧っ気のない人だったので、ナチュラルめで、唇は薄いピンクくらい、ということだけ伝えた。近くで見た湯船の中にはお湯がなかったので、多分あのホースは先ほど予想した通りお湯を入れる用ではなく抜く用だったのだろう。
母に下着を身につけさせたあと、靴下を履かせ、ズボンをはかせているのが見える。最後に上着を着せて、普段通りの服に身を包んだ、すこし身奇麗になった母がいる。よりいっそう寝ているようにしか見えなくて、その母が棺桶に戻されていくのを思うと、なんだか不思議な感じがした。


業者の人が母の両手を組ませて紐で結んで固定しているのが見える。寝ているようにしか見えないのに、「死」を感じさせるその格好に、少し嫌な汗が流れた。いや、わかってはいるんだけども。


バスタブ越しに見た母は、顔に白い布が掛けられていた。まだ棺桶に入ってなくて、畳の上に寝せられている。含み綿を変える時だけ黒いボードを立ててやるそうだ。私はここで一度お手洗いに立ったんだが、戻ってきてみると本当に黒いボードが顔周りに立てられていた。思っていたのと少し違ったが。含み綿を変えてる途中、もう一人の人はドライアイスを四つほど取りだしているのが見えた。

母の遺影が運ばれてきた。家の庭の薔薇を背景にした華やかな写真だ。額に入ってるだけならただのいい写真だったのに、斜めに掛けられた灰色のリボンと黒の縁がアンバランスさを醸し出しているように思えた。


含み綿を交換し終わったらしい。黒いボードが外される。先程とは違い、しっかりと口を閉じた母の顔に化粧が施されていく。

化粧が終わったら、紙に印刷された六文銭と、先程祖母たちが出していた一円玉を袋のようなものに入れた。それらは組んだ手の下に潜り込ませた。先程切った爪なんかも中に入れるらしい。そのまま棺桶にみんなで持ち上げていれた。湯灌から死化粧を施すまで、約1時間40分ほどかかった。
その後お父さんが言っていたが、湯灌をする前は棒のように硬かった体が、湯灌を終えると柔らかく動くようになっていたらしい。

お通夜は、家族葬だったので1番近い人達が務めた方がいいだろうと、弔辞、お別れの言葉は私が務めた。明日は父が務める。
そのことが決まったのが本番の2時間前くらいだったため、私は急いで文面を考え、時間ギリギリまで紙に書いた。その内容をこれからこちらに書く。


「本日は皆様、母○○ためにお集まりいただきありがとうございます。
私は昨日、久々に下宿から家に帰り、約1ヶ月ぶりに母と再会しました。
母は、ずっと私の勉強の邪魔をしないようにと、私に病状を知らせることは一切しませんでした。
でも、いつもなら送ってすぐに返事が来るメールが、3日おきに、5日おきにとなっていくにつれて、私は私なりに覚悟をしていたつもりでした。
しかし、まさかこんなに早く別れの時が来てしまうなんて、思ってもいませんでした。
信じきれない気持ちでいっぱいです。でも、最期に会うことが出来て本当に良かった。
母は、いつも私の夢を応援してくれて、1度も否定する事はありませんでした。
高校受験の時も、大学の第一志望を言った時も、いつだって「お前なら行ける、頑張れ」と声をかけてくれて、その言葉にいつも励まされて来ました。
母の元に来てくれた方々が、口々にいつも娘のことを自慢していた、と言ってくださってるのを聞いて、胸がいっぱいになりました。
もし、私のことを自慢の娘だと思って貰えていたのなら、それほど嬉しいことはありません。
母の期待と応援に恥じないように、自慢に思って貰えるような娘であり続けれるようがんばっていきたいと思います。」

こんな感じのこと喋った。話してる途中、涙と嗚咽が止まらなかった。最後の言葉くらい母の前でカッコつけようとして喉に力を入れたが、口から出るのは情けない声だった。でも、つっかえることなく言いきる事は出来た。
そういえば、結局献花用の花は白じゃなくてピンクと赤のカーネーションになったらしい。華やかでこちらの方がいいと思った。

式自体は30分程で終わった。沢山の人が来てくれた。知ってる人も、知らない人も沢山いた。母の思い出話を横で聴きながら、母が大勢に愛されていたことを改めて実感してまた泣きそうになった。

その後ふと、思いついて母とのメッセージを開いた。最後の言葉は「よく頑張った」の文字だった。母がまだメールを打てている頃の日付が最後だった。それを確認した時、もう嗚咽が止まらなかった。


それから私は、私の誕生日から最期の日までのメッセージを、全部スクショしてアルバムに保存した。アルバムのタイトルは「最後の方。お母さんとのメッセージ」にした。些細な抵抗だが、最期とは言いたくなかった。


通夜が全部終わったあと、どんどん元同じ小学校、中学校、高校の同級生とその親のママ友の人たちがお参りに来てくれた。沢山話をした。沢山泣いた。


今日は昨日とは別の会場で母と一緒に眠る。昨日はなかった遺影の写真を見る度に、棺桶の中の母の姿を見たくなって、頻繁に近くを通った。本当に、今にも動き出しそうで、遺体を見れば見るほど逆に信じられなくなる。まだ生きてるように思えてくる。
母の顔の写真はどうしても撮る気にはなれなかった。撮りたくなかった。せめて、記録の中の母には生きて笑っていて欲しかった。
明日は葬儀だ。おやすみなさい

3/2 「葬儀の日。火葬まで」

起きた。棺桶で寝ている母の隣で迎える二度目の朝だ。昨日の反省を活かして布団を2枚引いてみたため体は痛くないが、全身の倦怠感がすごい。朝ごはんとして、昨日精進落としの時に食べた、母が好きだったというシュークリー厶の残りを食べる。遺影を見て、母の顔を見て、今日が火葬か、なんて思うと、じわじわと母が死んだという実感が湧いて来る。


朝集まって、親族一同で記念撮影をした。中心に私と父と祖母で、母の遺影を父が抱えて撮った。
先程まで雨模様だった空が、だんだん晴れてきているのが見える。
母は絵を描く人だったので、学生時代に描いた絵や大人になってから作った作品が入口の前に並べられた。私も今美術系の高校に通っているため、目が肥えている自信はあったが、近くでまじまじとみても、やはり母の絵は相変わらずとても上手かった。


今度は棺桶に入った母の前で、父と次に作る卒業制作について語った。母に聞かせるつもりでも話した。
母の好きだった天然石や猫、薔薇なんかの要素を使って、大きな立体を作ろう。母へ送る、この世にひとつしかない作品を作ろうと思った。普段の作品のように、大学進学に活かすだとか、キャリアになるだとかは今は考えられなかった。ただただ、母のことを想って作りたかった。

葬式が終わった。今日の弔辞、別れの言葉は父が言った。その間、私は思わず漏れ出そうになる嗚咽と体の震えを抑えるために歯を食いしばって堪えていた。涙でマスクの中に水溜りができた。

式も終わり、最後に、父と二人で霊柩車まで棺桶の前の方を歩いた。父が遺影を持っていった。乗り込んだ霊柩車の中は、みんなの息遣いが聞こえるほどに静かだった。

火葬場に着いた。今は火葬の待ち時間だ。

まず、部屋に案内され、線香を父と祖母と私で置いた後、母の遺体が重い扉の前まで運ばれる。
棺桶の蓋を頭の所だけ見えるように外し、最後の挨拶をした。蓋が閉められ、扉の内側へ。重い扉が閉まる。赤いボタンは父が押した。みんなで合掌をした後、その部屋を後にした。
終わるまで1時間50分かかるらしい。もうあの母の姿は二度と見ることは出来ない。この後、母は骨になる。骨壷に収まる大きさにまで小さくなる。
私は成長するにつれて、もう母の背も追い越してしまっていた。私よりほんの少しだけ小さかった母は、これから私の頭よりも小さな姿になって、一緒に我が家に帰る。葬式の間中、どこか他人の葬式を見ているような気分だった。でも花に囲まれる母の遺影を見て、嗚呼母の葬式かと。母は死んだのかと、まざまざと現実を突きつけられて、胸が苦しくなる。

火葬が終わった。収骨室の中に入った途端、燃えた後の匂いが一気に押し寄せてきた。例えるなら、餅を黒焦げになるまで焼いたような匂いに近いような気がした。その匂いは、帰りの車に乗ってる今も鼻の奥でくすぶり続けている。ほぼ自分と同じ大きさだった母の体があんなに小さな骨壷に入りきってしまうのを見て、なんだか不思議な気持ちになった。母が死んでからもう何日もたった気分だ。まだ2、3日しか経ってないのか。そうか。

車の中の助手席で抱き抱えた骨壷は、まだ熱を持っていて、箱越しでも温かかった。人の体温くらいの温かさだったから、まるであの時冷たかった母に温度が戻ってきたようにさえ思った。

久々に帰った気がする我が家は、自分の育った家であるはずなのにどこか居心地が悪くて、母がいた痕跡を見つける度に、悲しい気持ちが胸の奥底から湧き上がってきた。あの椅子でテレビを見ていた母の背中は、あのストールを巻いていた母の姿は、あの戸棚から服を取り出して着ていた母は、もう二度と見れない。もうこの家に母が生きた姿で生活することは無いのかと、嗚呼、もうないのか。そうか。 

外に出てみると、霧雨が降るなか大きな虹が出ているのが見えた。




これが私の記録した、母が亡くなる一日前から、火葬して家に帰るまでの全てです。
元はただ感情を整理するために書き始めたものだったので、言語化が難しい感情を無理矢理文字に起こした形になるので、読みづらい場所は多々あると思われます。 しかしその時に感じた想いが風化する前に、全てを書き留めたかったので、このような形になりました。これは本当にそのまま載せていて、個人情報に関わるところや誤字脱字の編集以外なにも手を入れていません。


こうして記録をとっていることを父に話した時、「それはとても貴重なもので、いろんな人の参考になるだろうから、多くの人の目につくようにした方がいい」と言われたので、こうしてnoteにあげることにしました。ちなみに父は私が書いた文章を読んでいません。恥ずかしいから読まないでくれとお願いしました。なので父は何かを書いてると言うことだけ知ってます。

noteを初めて扱うので、至らないところも多いと思いますが、理解をいただけると嬉しいです。

読んでいただきありがとうございました。


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