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迷子になった時のために

また、なんだか、手放してはいけないような違和感があった。

私がまた、同じ道で迷子になってしまわないように今日も残しておく。



私は、確実に、優しい人ではないのに、人のことでボロボロ泣けた。

ずーーっと前に、親友に「あなたのいいところは、人のことでも自分のことのように一喜一憂できるところだよね」と言われことを思い出したりした。
正直、え?まじ?私そんなタイプ?と思ったけど私史史上、最も何もかもうまくいかなかった絶望期のことだから、永遠に忘れられない。


私の好きな人が、怒られてるのを見るのとつらいのと同じだと思う。

つらかった、出会ってからのこの1年半はなんだったんだって思った。

私が思うってことは、みんなも思うのではないかと思って怖かった。


つらいってなんだ。
つらいね〜なんて一緒に言って良いんだろうか。
私だったら、もしかしたら何日もあとに「あの時のことを考えてたんだけど」って言われる瞬間が好きだったり、救われたりするかもしれない。
でも、相手は私ではないのだ。
何が誠意なのか、すごく考えさせられた。
私の大事にしていたこの1年半は、一緒に過ごした人たちにとって、捨て去りたい1年半になってしまうのかもしれない。
そんな悲しいことあってたまるか、という強い気持ちと、諦めの気持ちと。結局自分がかわいい。

みんなそれぞれ事情を抱えていて、目標にしているところも違う、大学院ってそういう場所だ。
ただどうしても、誰かのいらない時間になってしまうことが怖い。
結局私は私のための涙だったのか、と。

好きな人たちには、報われてほしい。
失敗しないように綺麗な道を歩いてほしいというわけではないけれど、生きやすい世界であって欲しい。
それが私の原動力の一つでもあるのだった。
と、留学先で書いたノートを思い出した。

***
いったい「挫折」には価値があるのか

そんな話を今週は指導教授たちとした。

「挫折」なんでしなくても良い。
自分の人生に「挫折」なんてそんな大それたこと。
でも「挫折」して、遠回りしたお陰で、得たものが大きかったし、だからこそ自分にしかできないことがある、と。
この話が私は好きだし、こういう話をするために私はここにいるんだと思った。
一見すると、遠回りに見える道も、ある意味近道なのかもしれない。
何度もそう声をかけてくれたセンパイたちを思い出したり。
私の中にある、小さくて大きな「挫折」は、一生後悔とやるせなさと共にあり離れることがない。けれど、だからこそ、出会った人たちと出会った違和感とが確実に今の私を構成していて、今いる場所にも満足している。家族の道具になっていても、親しい友達がいなくても、今が一番楽しいのだから、遠回りも悪くないのだな。結果論だけど。


いつか、無駄だと思わなくなるよ、なんて、簡単に言えないけれど、思わなくなるような時間のお手伝いができるし、keep on your sideでありたい。

全てにおいて「分かるよ」が出来ないし、安心する話も出来ない。一番の話したい相手でもない。何もない。ポジディブもネガティブも言えないけれど、ただ黙って居たいと思う。

「相手の気持ちを本気で考える」を放棄してきたツケが来ている。

でも、今できるのは居ることだけだよって言ってくれる人もいるんだから、捨てられない。捨てたくない。


いつでも味方でいられる準備と私のための準備を。

肯定されたくてたまらない と思いながらギリギリ生きています。