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彼の噛みあと 第3話

園子は部屋に帰って来てシャワーを浴びたが、自分がすごく濡れてしまっているのがわかり、顔が赤くなった。その後ベッドに入ったが、さっき自分に起こったことを思い返すと胸が甘くしめつけられて眠れない。
初めて会った人とあんなことをしてしまったなんて‥‥。


彼は一体どういう人なのだろう?
化粧室に立つふりをして私のことを待っていたり、メールアドレスを書いた紙を事前に用意して渡して来たり、その日の内にメールで突然誘ってきたり‥。
しかもそのメールは、急ぎの用事だからだろう、開かなくてもすぐに読めるように件名の欄に用件を書いてあったし、待ち合わせ場所の指定だってずいぶん簡潔にまとめられていた。
なんだかあまりに手際が良すぎて、不安になってしまう。現実じゃないみたいだ。


そして、いくら園子が自分に好意を持っているということがわかっていたとしても、あんな最初から抱きしめて背中にキスして来たりするなんて‥‥。
やっぱり相当こういうことに慣れている人なのだろう、と思った。
そう思うと、やっぱり少し怖い気がする。
銀縁の眼鏡を掛けた顔は知的な印象だが、少し冷たそうにも見える。


でも‥‥。
「来たね」と言って微笑んだ顔は優しそうに見えた。
誘い方も、強引だけどロマンティックには違いなかった。
それに、彼の声も喋り方も一つ一つの言葉も、すべて園子のツボをついて来る感じなのだ。
たとえば、
「なぜ僕を見てたの」
という言い方がまず好きだった。そんなことを正面から聞いて来ることも素敵だったし、「なんで」じゃなくて「なぜ」なのも園子の好みだった。
最後に園子の頭を撫でてくれたのも嬉しかった。
園子は、自分の好きな年上の男性から頭を撫でられたり、軽くポンポンと叩かれるのが好きなのだ。
考え出すと彼の全部が好みな気がして来る。
園子は背中へのキスと、その後の唇へのキスを思い出した。
あの時───本当は心の中でもっと先のことまで望んでしまっていた。
「んんっ‥‥もっと」
という言葉が喉まで出掛かっていたのだ。
園子はシャワーを浴びたばかりなのに、また濡れてきてしまうのがわかった。


翌朝目が覚めると、祖母はまだ眠っていた。時計を見ると7時だ。
園子も、昨夜のことが身体を熱くしていたし、慣れない船の揺れもあって寝不足気味ではあったが、祖母が起きる前にシャワーを浴びようと思ってベッドから出た。


ドライヤーで髪を乾かした後、そのままバスルームの手前のドレッシングルームでメイクをしても良かったのだが、海を見ながらの方が気持ちが良いと思い、窓辺のテーブルでメイクをしていると祖母が目を覚ました。
「あら園子もう起きてたの?早いわね。私まだ眠いぐらいだわ」
「おはよう、おばあちゃま。何だか早く目が覚めちゃったからもうシャワーも浴びちゃったの」
「そう。じゃあ私も支度するから朝食に行きましょう」


朝食は、昨夜よりカジュアルなレストランに行った。
園子は広い店内を見回したが、彼の姿は無かった。
典型的なイギリス式の朝食を食べている途中で、iPhoneのリマインダー音が鳴った。
「あ、ピルを飲む時間だわ」
「ちゃんと飲み続けてるのね。偉い偉い」
園子は毎日、低用量ピルを飲んでいた。そして、それはこの祖母の教えによるものだった。
年の割に進歩的な考えを持っている祖母は、女医だったこともあり、園子が高校生になった頃に、ピルを飲むように諭してきた。

「女は絶対に望まぬ妊娠をしないよう、自分の身体は自分で守らなければいけない。男性側が避妊を積極的にしてくれると思ってはいけない」

というのが祖母に教えられたことだ。
当時、園子はまだセックスを経験していなかったが、祖母の言うことは確かにその通りだと思い、それ以来今日までずっと飲み続けている。
実際、その後初めてセックスをした相手は、機会さえ許せば何も付けずに中でイこうとして来た。
園子は相手にピルを飲んでいることを結局伝えなかったが、そんなことがある度に、祖母の言うことは本当だったなと思っていた。
また、園子が会社に勤めていた5年間に、親しかった同僚が3人も望まぬ妊娠をして、中絶や流産を経験するのを見た。しかも相手の男性の内2人は社内の人間だったが、彼女達の妊娠が判明するや否や知らんふりを決め込み、彼女達との接触を断った。
彼女達はみな1人で解決せざるを得ず、気持ちが不安定になり、仕事中に急に涙を流したりした。
そこは派手なイメージのある大きな会社で、数千人の社員が働いていたが、この分では同じような目に遭っている人が全体で何人いるかしれないと思った。


「おばあちゃまの言う通りピル飲んでて良かったと思ってるわ」
「セックスの最中に、相手にコンドームを着けて欲しいって言うことがどれだけ難しいか、私も知ってるからね。でも、日本ではまだまだ広まっているとは言えないわね」
「そうね。私がピルを飲んでるって知ると『セックス好きな女』みたいなこと言ってからかってくる人もいるもの」
「やれやれ。困ったものね」


園子は、こんな風に男性に対してしっかりした考えを持つ一方、既婚者に対して恋をしてしまうような、決して褒められない一面があり、そのことは園子自身十分自覚していた。
しかし自分より20も30も年上の男性にしか興味を持てない以上、既婚の確率は自然上がってしまう。これまでも、いけないことだとは知りつつ、気づくと関係が深まり、悲しい気持ちになる恋をしてきた───。


そのあとも、散歩がてら祖母と船内のあちらこちらを見て回ったが、彼に会うことは無かった。
というよりも、あまりに船が大きく、あまりに大勢の人がいるので、この、まるで一つの街のような中で偶然彼に出会うことは難しそうだということがわかった。


その後、昼食をとった店でも、ショッピングをしている最中も、夜に行ったブッフェレストランでも、どこにも彼の姿は無かった。
園子は、今日も彼からメールが来るかもしれないと期待していたが、昨夜待ち合わせをした時間を過ぎても連絡は無かった。
園子はだんだん淋しくなってきた。







 

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