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あの想いは伝えなくてよかった

彼を見ると「世のため人のため」という言葉が自然に脳裏に浮かんでくる。
その肩書きからいって相当な重責を背負った難しい仕事であろうことは容易に想像がつくが、その難しい仕事に対して、彼が本当に「これは何とかしなければ」と思って心血を注いでいるのがよくわかる。


彼の頭脳は常に明晰で舌鋒は鋭く、理路は整然としていて、周りを説得し信頼を得る力が溢れ出ているような人だ。
それでいて威圧的な所や周囲との間の壁などは全く感じさせず、ちょっとするとすぐに冗談を言って周りを笑わせている。
彼は私より32歳年上だったが、ちっとも親しくない私が初めて話しかけた時も、にこやかに応じて一瞬の後には旧知の仲のように思えるような会話を始めてくれた。


そして、‥‥こんなことを言うのが本当に申し訳ないというか、本当に恥知らずというか、彼に対する正当な評価じゃない気がしてとてもとても気が引けるのだが、外見も、ものすごくものすごく素敵なのだ。


彼は黙っていると怜悧で冷たそうに見えるが、みんなで喋っている時はとても優しい表情になる。
私の好きな真面目眼鏡をかけていて、スーツもシャツもネクタイも、安くはないのだろうがごくごく一般的なものを身につけていて、とても私の好きな感じだ。
初めて彼を見た時、はっきり言って私は「どストライクの人が現れた」という驚きで、真後ろに倒れそうになった。
掛け値なしの理想の人が目の前に現れた、と思った。


しかし彼には当然奥さんもいたし、成人しているとはいえ子供も3人もいた。
そして、そんなことよりも何よりも、こんなまともな人がまともな仕事に心血を注いでいるというのに、そんな目で彼を見るということ自体がとんでもない事だと、私は思った。
「彼だけは絶対にダメだ」と思った。
「絶対にダメだ」というのは、自分の恋しい想いなんぞを彼に伝えるようなことは絶対にしてはいけないという意味だ。


私は相手のことを好きになると、どうしても進みたくなってしまう性分だ。
もし相手が先に想いを伝えてきてくれれば幸せだが、しばらく待っていても何も起こらない場合は自分から行動を起こしてしまいがちだ。
自分と相手の関係上、決して進んではいけない場合でも。
相手に奥さんがいる場合でも。
ひどい時は相手に奥さんがいる上に、自分にも彼がいる場合でも。
(その是非については、当然非であることは重々承知しているので、それに対する批判は甘んじて受けつつ、一旦横に置かせて頂く。)


自分の気持ちのまま行動を起こすとどうなるか。
そのあと長続きするかどうかは別として、想いを告げた時は瞬間的には盛り上がることが多い。
自分よりずいぶん若い女が自分のことを好きであるという物珍しさもあるだろう。
性的な気持ちを満たしたいということもあるだろう。
或いは、ごく稀には実際に私のことを好いてくれている場合もあるだろう。
この「瞬間的にはまず盛り上がる」というのが曲者で、その歪んだ自信がついつい迂闊な私に行動を起こさせてしまうのだ。


だから当然、その彼に対しても行動を起こしてしまいたい欲求が強く湧いた。
彼がキスしてくれたら。
彼が抱いてくれたら。
彼の恋人になれたら。
甘い想像が次から次に湧いてきて、彼に想いを告げてしまいたくなる。


しかし同時に、頭の中でこれまでに無いパターンの強力なブレーキがかかった。
それは、彼に家庭があるからとか関係性が崩れるからとかではなく、
「そんなことをしたら彼自身が汚れてしまう」
と思ったのだ。
私が想いを告げた時に、もしもまかり間違って彼が一時の気の迷いを起こし、その場の流れでホテルにでも行ってしまったら?
たとえその一夜限りのことで終わったとしても、その後の彼の罪悪感を想像するだけで申し訳なくて震えるような気がしたし、私の中でも「あんなにまともで素敵な人だったのに、私なんかと気の迷いでセックスしてしまった人」という風に彼が見えてしまうのも絶対に嫌だと思った。
彼にとても抱いてほしいが、私のことを抱くような人であってほしくない、という強烈なジレンマがあったのだ。
私はその頃、なかなかに苦しい思いで日々を過ごしていた。


そんなある日のことだった。
ボランティアのような形で彼の仕事を手伝った時、他の人たちは別の作業をするためや終電に間に合うようにするため全員帰ってしまい、思いがけず彼と二人きりになってしまったのだ。
私はマンションまで歩いて帰れる距離だったので最後まで残って片付けをしていたのだが、彼と二人きりだと意識した瞬間、急に恋愛モードに入りそうになってしまった。
(どうしよう‥自分が危うい。キスしてほしいとか絶対言わないようにしなきゃ)
などと、自分を落ち着かせるように胸をさすりながら自らに言い聞かせていた。
「さて、このぐらいでもういいよ。遅くまでありがとう。送って行くよ」
「いいえ、いいえ、一人で大丈夫です」
「こんな時間に一人じゃ危ないよ。歩いて帰るんでしょう?」
「ええ‥でもずっと大通りだから大丈夫です」
「じゃあ僕も今日は〇〇駅から帰ることにする。それならいいでしょう」
ここから〇〇駅の途中に私のマンションがあるので、彼はそう言ったのだ。
普通だったらこのビルのすぐ前にある地下鉄の駅から帰る彼が、歩いて20分も先の〇〇駅から帰ることで私を送ってくれようとしていることが嬉しすぎて、彼と二人で歩けることが嬉しすぎて、私は思わず彼の提案に甘えることにしてしまった。


彼と二人で歩くのはもちろん初めてだった。
大通りとはいえ、深夜0時に近いので人通りはほとんど無い。客待ちのタクシーが長く道の両脇に連なっているばかりである。
(ああ、腕を組んで歩きたいな‥‥。恋人同士だったら絶対キスとかしちゃう雰囲気だろうな‥‥。あの角を右に曲がれば素敵なホテルもあるんだけどな‥‥)
私がそんなことを思いながらも、それをおくびにも出さないように大人しく彼の横を歩いていると、彼が突然立ち止まって私の顔を見た。
「こんなこと言うと驚かれると思うけど‥‥僕は、実はあなたが最初に声をかけて来てくれた時からずっと、あなたのことが好きだったんですよ」
「え‥‥」
「こんなこと言っちゃいけないのは勿論わかってるんだけど」
「 I さん‥‥!私も‥‥私もずっと I さんのことお慕いしてたんです。でも絶対に言っちゃいけないと思って‥‥」
と私が彼の目を見て言うと、彼は私に顔を近づけ、一瞬躊躇ったように止まった後、キスをしてきた。
私はもう嬉しさで息が止まりそうになった。


そして気づいた時には、さっき通り過ぎた角の先にある素敵なホテルの部屋にいた。
しかし私は、そんな自分の望んでいた通りの展開になってしまうと逆に「やっぱり彼とこんなことになるのはいけない」「まだ今なら引き返せる」「ここまでならまだ何事もなかったように次から振る舞えるから‥‥」と懸命に自分の心にブレーキをかけようとしていた。
しかしまた彼に優しくキスをされ、
「あなたと本当にキスできるとは思わなかった」
と言われて首すじにも唇をつけられた時に、もう全くブレーキが利かなくなり、
「あ‥‥んん‥っ‥!」
と、我慢していた声を上げてしまった。
そしてベッドで服を脱がされて裸になった私を見て、
「‥‥だめだ、すごく興奮しちゃうな」
と言う彼の呼吸が上がっているのがわかって、私ももう身体中が敏感になりすぎてしまい、彼の手が頬に触れただけでイッてしまいそうな気がした。
「あ‥‥もう‥感じ過ぎちゃう‥‥!」
と私が思わず言うと、彼は私の横に座ったまま私を見下ろしながら、その手で触れるか触れないかぐらいに私の頬から首すじ、胸からお腹、脇腹と、優しく愛おしむように滑らせるように撫でてくれる。
私は気持ちが良すぎて身体がびくんびくんと動いてしまうのが止まらない。
「あ‥‥っ!‥ん‥‥あ‥んんっ!‥もうだめ‥‥!」
彼の指先がクリトリスに達するのと同時にキスをされた瞬間、
「んんっ!!!‥ん‥‥んんんっ!!」
私はもう一瞬で、のけ反るようにしてイッてしまった。
それから彼に脚を開かれて、
「あなたのそんな姿を見せられたら堪らなくなるよ。‥ずっとあなたとこうしたいと思ってた」
と彼は苦しそうな表情で私の目を見ながら言って、固くなったものを挿れてきた。
その瞬間に信じられないほどの快感が襲ってきて、私はまたイッてしまった。
そして同時に、
(どうしよう‥‥!本当に彼とセックスしてしまった‥もう取り返しがつかない‥‥!)
と泣きたくなるほどの激しい動揺が襲ってきた。


‥‥‥‥というところで目が覚めた。
一瞬何がなんだか分からず混乱したが、程なく自分の部屋のベッドの上にいると気づいた。
汗びっしょりだった。
ああ、夢だった‥‥!!
夢でよかった‥‥!!
クリトリスに触れてみたら本当にイッてしまっていたのがわかった。
本当に気持ちが良かったのだ。


よく、夢に出てきた人が気になって現実でもその人を好きになってしまうという話を聞くが、私の場合は違った。
私は、この夢を見たことですっかり気持ちが落ち着いたのだ。
たぶん笑えるぐらい自分好みの都合のいい夢だったのが良かったのだろう。
夢の中で想いを叶えて現実には取り返しのつかないことをせずに済んだ、という最高の状態だな、と思った。
あの時の安堵感は今でも鮮明に思い出せるぐらいだ。
ああ、彼のことを汚さないで済んだ‥‥!と心から思えた。


もちろん、実際に彼に想いを打ち明けたところで断られる可能性の方が大きいのであり、彼を汚す事態に至るとは限らないということは重々わかっているが、それについてもこの際においては横に置かせて頂く。(置いといて、のポーズで)


それまで、ボランティア的なこととはいえ不純な動機が3割(‥いや4割‥)ぐらい混ざった状態で彼に会う機会を捉えていた私は、それ以降その機会を潔く手放すことにした。
自分の中の危なっかしい感情がせっかくおさまったのに、万が一またその想いが再燃でもしたら水の泡だと思ったのだ。
これからは、遠くからたまにお手伝いできることをすることにしよう、と思えるようになったのだ。


こんな経緯があったから、今でもわたしは、彼と、彼のする仕事に堂々と声援を送ることができている。
そして彼という人は、相変わらずずっと素敵な人のままだなと思えている。


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