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「どんなことばも社会を纏ってしまってる」

友人に「ゲイいじり」「童貞いじり」をされた主人公・七森。その心情の描写に、こんな一節があった。

あいつらの、僕らのことばがどこまでも徹底的に個人的なものだったらよかった。嫌なことをいうやつから耳を塞いで、そいつの口を塞いでそれで終わりなら、まだこわさと向き合えた。でもそうじゃない。どんなことばも社会を纏(まと)ってしまってるどんなことばも、社会から発せられたものだ。そう考えるとどうしようもなくなって、七森はしゃがみこんでしまう。
ー大前粟生『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』87ページ

悲しい発言を目の当たりにすると、ひどく疲れる。それは言葉を発した本人を責めたって仕方がないという無力感、彼がそう発言するまでにいたる社会がしっかり存在することを知ってしまうからなんだと、はっとさせられた。

発言は社会をまとっている。原因は本人ではなくて、社会。そんなこと分かってるけど、じゃあこのミソジニー(女性嫌悪)をふっかけられたわたしの気持ちは、どうしたらよいのだろう。

このしんどさをぶつける先が分からなくて、こぶしをかかげてもやり場がなくて。だから私たちはしんどいとき、SNSに書くのだと思う。SNSには、その痛みを分かってくれる人たちがいて、一緒に怒ってくれる仲間がいる。あの場ではどうしようもなかった私の怒りや悲しみは、そこで初めてちゃんと存在したものとして扱われて、安心するんだと思う。

オフラインで友達にしんどさを話すだけだったら二人の間で完結していたかもしれない痛みが、SNSなら広がっていくこともある。#KuTooも、#MeTooもその代表だよね。

言葉を発した個人をいくら責めても仕方ないことなんて、とっくに分かってる。だってこれまで芸能人や政治家の差別発言がいくら燃えたって、依然としてわたしたちは女性蔑視に日々出くわしてるのだから。

フェミニズムが目指していることは、そんなな発言が自然とうまれない社会だと思う。「どんなことばも社会を纏ってしまってる」。だから、その社会を変えたくてわたしたちは動いてる。女性蔑視な発言が少しでも生まれないように、少しでも生きやすくなるように、社会を変えようとしているんだよ。

「本人をいくら責めても仕方ない」
ナイナイ岡村さんの発言をめぐりそんな言葉をよく目にするけれど、岡村さんの発言がまとった「社会」が悲しくて、生きづらくて、怒っている。岡村さんの人格を叩こうなんて、思ってない。
ただ、あの発言が生まれてしまう、その背後の社会を、もう、いい加減、変えたいんだよ。

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おしまい​

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