散歩ができない
散歩が趣味、という人がいる。
いいなぁ、と思うと同時に、私も散歩したい!と思う。散歩をすれば健康にもいいし、精神面においても良い。きっと散歩をすれば気持ちのもやもやも、自分が気づかないところで解消されていくような気がする。
しかしである。
私は散歩ができないのだ。ただ歩けばいいだけじゃないか。そう思われるかもしれないが、私の場合、ただ歩くということが非常にもったいない気がしてしまうのだ。
元々、恐ろしいまでの出不精である。散歩に行くために、部屋着から外着に着替えるのが既に億劫だ。面倒だと思いながら着替え、さぁ出掛けようと思っても、
せっかく外に出るんだから、何か買い物しておこう。
ということになってしまう。
野菜室がガラガラになって、ようやくて買い物に出かけることを考えるほどのダメ人間なので、出掛けようとしたときが、買い出しのチャンスになってしまうのだ。私は基本、家でやりたいことが多い人間なので、どうしてもそうなってしまう。
その一方で、買い物に出て少し歩いたりすると、帰宅後、物を書く作業などが、やたら捗るときがあるのだ。以前、安売り求めてスーパーを3件回った後、体は疲れているのに、書き作業は好調だったことがあった。ひょっとして、買い物で歩いたから調子が良かったのではないか。そんなことをと思ってしまった。
将棋の棋士でも散歩をする人は多いと聞く。やはり脳みそをよりよく動かすには、散歩は効果的ということではないか。
よし! 散歩しよう!
そう思っては見るものの、出掛けようとして、やはり頭をもたげるのは、
「そういえば、そろそろポン酢がないなぁ。納豆も買っとかないと…」
そうなると、手ぶらで出かけられない。買い物カートかエコバックを持ち、何を買うか、少し先の夕飯メニューなども考えながら歩く羽目になる。純粋な、思考をクリアにするような散歩ができない。
なら、財布を持たないで散歩すればいい。
そう思ったのだが、埼玉に越してきてからというもの、路地で野菜が売られている光景を目にすることが多く、財布を持たないと、せっかくの新鮮野菜を買い逃す可能性があるのだ。ブロッコリー、ホウレンソウが100円で買えなかったという後悔を抱えながら散歩するのはつらい。
以前、漫画版のサザエさんで、こんな話を読んだことがある。
真冬に家族全員がこたつに入っている。昔の住まいは、今の住宅ほど気密性が高くないので、こたつから出るだけで寒い。しかし、こたつでミカンやお茶などを口にしていれば、当然生理現象というものに襲われる。これ以上は我慢できぬと、サザエさんが立ち上がると、
「ついでにあれ持ってきて」
と家族全員から、立ち上がったついでの用事を頼まれてしまうのだ。サザエさんのイラっとした表情が実に印象的だった。
私はいわば、そんなことを自分自身にしてしまっているのだ。
散歩に行くなら買い物もしよう、買い物に行くならATMにも寄ろう。せっかく出掛けるなら、ポストにも寄って、はがきを出しておこう。はがきを出すなら、今、書いておかなくちゃ。
散歩に、いつの間にかたくさんの「ついで」がついてくる。
散歩がしたい。でも「ついで」というものが私の心をせっつくのである。しかし、この「ついで」を見なかったことにすると、生活が回らない気がしてしまう。
趣味は散歩、散歩が日課と言い切れる人がうらやましい。「ついで」という余分を意識せずに散歩ができるから、その人の心身は健康でいられるのではないか、そんなふうにすら思う。
しかし、よくよく考えてみると、私は純粋に散歩がしたいのではない。散歩をしたら、いろいろ調子が良くなるのではないか、という「効果」を期待して、散歩をしたいと思っているのだ。私は、散歩そのものにも「ついで」を求めている。
困った性分である。
一度本気で散歩してみたら、世界が変わるかもしれない。余分を抱えないすっきりした自分と出会えるかもしれない!
そう思い、よし!出掛けよう!と立ち上がった瞬間、
そろそろゴマ油が無くなりそうだ。
という現実が頭をもたげるという無限ループに陥っている。
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