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節分風味のチョコレート

 日本人とは忙しいものだ。
 ついこの前、節分で豆を撒き、恵方巻を頬張っていたばかりなのに、世の中は既にバレンタインの気配に満ちている。毎年こうして、和から洋への急な方向転換が行なわれているのだ。考えてみれば、日本ほど外国の行事を生活に取り入れている民族は無いような気がする。

 私もバレンタインチョコを贈った経験はあるが、詳細な記憶は残っていない。一世一代の決意をもってチョコを渡したことがないからだろう。唯一、断片的に覚えているのは、結婚前、夫に作った手作りチョコのことだけだ。

 夫は結婚前、粗食に凝っていた。
 その頃、私は夫から「粗食のすすめ」という本を手渡され、
「結婚したら、こういう料理が食べたい」
 そんなことを言われていた。もう23年も前のことである。厨房に入らない男性が今よりずっと多かった時代の話だ。若かりし頃の私は、素直に「わかりました」と言い、他の本も買い足し、粗食というものを研究していた。

 粗食は、きちんと実践しようとすると、本当に大変なものだ。基本的なたんぱく質は、魚や豆腐などの豆類から摂る。肉はできるだけ食べないし、化学調味料なんてもってのほかだ。夫から借りてきた本を母に見せたら、
「おぉ…これを毎日やるのは大変だわ」
 そう言って震えあがっていた。
 当時夫も、粗食を取り入れる大変さを知らなかったのだろう。もちろん、全ての食事を粗食にしてほしい、とは言われなかったが、私は、「できれば、こうしてほしい」という夫の願望を無視できる人間ではなかった。

 そこで困ったのは、バレンタインである。
「あなたは粗食主義なんだから、チョコはいらないでしょう?」
 と言うのも味気ない。せっかく恋人のいるバレンタインデーを迎えることができるのだから、手作りチョコを贈ってみたい。でも、夫の希望する粗食のイメージは崩したくなかった。そうして私は、あることを思いついた。

 アーモンドやピーナッツの代わりに、節分の炒り大豆を使うのはどうか。

 夫も豆は好きだ。味はどうなるかわからないが、とにかく夫の希望する粗食から外れないようにするには、大豆を使うのが一番いいと思ったのだ。私はチョコを湯煎し、節分が過ぎて半額になっていた豆をくぐらせて、冷やし固めたものを、夫に持って行った。

 アーモンドチョコならぬ、大豆チョコ。

 どう手渡したか、どんなラッピングをしたのか。それらはすべて脳内の記憶から消去されてしまっているが、二人でその大豆チョコを食べたことは憶えている。
 口に入れ、噛んだ瞬間、

 節分の味がする…。

 そう思った。口の中を駆け抜けていく、いり大豆の風味。チョコレートは後から甘さだけを背負って追いかけてくる。大豆とチョコレートが、ただひたすら鬼ごっこをしているのだ。大豆とカカオ豆。同じ豆でありながら、彼らが手を取り合うことない。
 結局、チョコレートは大豆を捕まえらえないまま、私は大豆チョコを食べ終えてしまった。柿の種すら受け入れたチョコレートが、大豆のいり豆を、その濃厚な風味で包み込むことができなかったのだ。
 いり大豆の風味は想像以上に強く、チョコレートが完全に負けていた。何か、もう少し工夫をすれば美味しくなったのかもしれないが、料理経験の浅かった私は、そこまで手が回らなかった。

 夫に、
「ねぇ、結婚前のバレンタインのこと憶えてる?」
 と聞いたら、
「え?」
 と微かな動揺を見せた。おそらく憶えていないのだろう。私ですら、奥で埃をかぶっていた記憶を取り出したのだから、仕方がない。
「あの頃、あなたが粗食、粗食ってうるさかったからさ。大豆のいり豆の入ったチョコを作ったんだよね。憶えてない?」
 と再度聞くと、
「お…憶えてない」
 と言って、小動物のように小刻みに震えていた。どうやら憶えていないことを怒られると思っているらしい。
「別に憶えてなくても怒らないよ」
 と言って笑ったら、夫はホッと胸を撫で下ろしていた。

 結婚前は、こんな料理を作ってほしいと、亭主関白風味で「粗食のすすめ」を押し貸ししてきた夫が、今では妻に怒られるのを恐れている。おかしい。私はずっと控えな妻でいたはずなのに、一体どうしたことだろう。

 誰しも結婚前には、結婚生活に理想を抱いていて、その理想を相手に叶えてほしいと思ってしまうものだ。しかし生活していくうちに、喧嘩したり、話し合ったりしながら、徐々に理想は現実と擦り合わさっていく。
 我が家も、健康に気を使ったメニューを取り入れてはいるが、粗食中心の生活はしていない。ジャンクなものも食べるし、お酒も飲んでいる。

 こうして擦り合わさった23年の過程で、今、私の中に残っているのは、
「こういうものを食べたい」
 という夫の希望をできるだけ叶えたい。そんな思いなのかもしれない。

 

 



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