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夫婦の取り箸

 以前、友達がこんな話をしていた。

「テレビをつけたとき、飲食店を紹介する番組をやってたんだけど、その店の厨房で、リポーターと料理人が楽しそうに話してたんだ。目の前に、煮込んだソースや料理とかが並んでるのに、そんなのお構いなしに手を叩いて笑ってるの見て、うわぁ、汚いなぁって思っちゃったんだよね」

 リポーターと料理人の口許にマスクはなかった。どうやらその番組は、再放送だったらしい。

「前はそんなこと気にしないでいられたのにね」

 コロナ前なら、そんな映像を見ても何も思わなかっただろうが、今見ると、胸のあたりがぞわぞわして落ち着かない。

 この三年で、衛生観念は大きく変わった。

 つい先日、早朝のコンビニでおにぎりを買った。
 バーコードが読み取れないらしく、店員さんがおにぎりのフィルムを、何度も指でこするように触っている。口には出さなかったが、
「そんなにベタベタ触らないで~」
 思わず、心の声が漏れそうになった。
 私は特に潔癖な方ではなく、悪く言えばズボラ、良く言えば大らかな方だと思う。コロナ前ならば、その程度のことで、眉を顰めたりはしなかっただろう。

 これまで気にならなかったことが、気になる。

 自分が気になることは、相手にも気にしてほしい。でも、人それぞれ気になることが違う。だからルールというものができる。

 その日のお昼は、久しぶりにラーメン屋に入った。
 店内は満席なのに、会話はほとんどなく、ただ麺を啜る音と、食器が触れる音だけが響いている。お店の壁には、

 黙食にご協力ください。

 と書かれたポスターが貼られている。黙食も、コロナ禍で新しくできたルールの一つだ。

 我が家にも、コロナになってから、新しくできたルールがある。

 それは取り箸だ。

 これまでは食事のとき、大皿にのったおかずを、ひょいひょい自分のお箸でつまみ、そのままご飯にワンバウンドさせ、口に運んでいた。行儀が悪いと叱られるかもしれないが、直箸じかばしで食事をしていたのだ。
 夫婦二人暮らしの気楽さに、格式ばった取り箸など必要ない。そんなものを使うなんて、他人行儀で寂しいとすら思っていた。

 でも今は、夫婦それぞれ専用の取り箸を使って食事をしている。

 夫婦の食卓に衝立ついたてがあるわけではないし、たいして黙食を心掛けているわけでもない。ハッキリ言って、無意味なのかもしれない。そう思いつつも、私たちはコロナ以降、おまじないのように取り箸を使い続けている。

 そうやって食事をしながら、ふと思う。

 この数年で作り上げられたルールや、それぞれの家庭で習慣化されたルールは、この先どうなっていくのだろう。コロナ前の状態に、ずるずると戻っていくのか。それとも、このまま何となく続けていくことになるのだろうか。

 私はコロナから三年近くが経った今でも、夫婦の食卓で《取り箸を使う》という、よそよそしさに慣れない。そんな慣れないことを三年も続けてきたのだから、やはりそれだけコロナが怖かったのだと思う。

 今、徐々にこれまでのルールが緩和されつつある。
 ルールで統一されてきたものが、また、個人の判断に委ねられるときがきたのだ。いろいろな価値観の中で、自分がどう振舞うか。自分と違う価値観の人と、どう接していくのか。
 ルールがあるとき以上に、人への気遣いが必要になる。

 しかし、この三年で浸透した衛生観念が急に変わるわけではない。柔軟な態度が必要だと思いつつも、一度、清潔に敏感になると、おしゃべりをしながら作られた料理や、他人がベタベタ触った食べ物を口に運ぶ気にはなれない。それなのに私は、夫婦の食卓では取り箸なんか使いたくないと思っている。

 自分の中にあるちょっとした矛盾。
 人に厳しく、自分に甘いような気がして落ち着かない。こんな私に、人への気遣いなどできるだろうか。

 そう思うと、取り箸のよそよそしさにうんざりしながらも、私は直箸に戻ることに、どこかためらいを感じてしまうのだ。






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