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「視線をください」本編

 朝だ。
 その日、俺の寝覚めは最悪だった。目を開けた途端、昨日の出来事が頭の中でじわじわとリプレイされていく。学校を休みたい。でも、俺がフラれて落ち込んでいると、一宮咲いちのみやさきに思われるのは嫌だった。

 「早く食べないと遅刻するわよ!」
 ダイニングキッチンで母親が朝食の支度をしている。
「ごめん、飯はいいわ」
 俺が言うと、
「じゃあ、ラップに包んであげるから学校で食べなさい」
 そう言って、朝食のサンドイッチを包んでくれた。そのとき、母親の視線が遠くを見ていたのが気になったが、朝の慌ただしさのせいだろうと、俺はサンドイッチをカバンにつめて家を出た。

 だが、その違和感は、気のせいではなかったらしい。
「乾君、おはよう」
「なぁ、悟、昨日配信された動画見た?」
 クラスメイトが俺に話しかけてくる。
 でも、誰一人として俺と目を合わせてくれない。その視線は、一様に俺の頭の上に向けられている。俺が戸惑っていると、隣の席の富田が、
「おーい、どうした? 具合でも悪いのか?」
 心配そうに、俺の頭の上を覗き込んでいる。
「…富田、ちゃんとこっち見てくれよ」
 俺が言うと、富田は眉間に皺を寄せ、
「あ? 見てるじゃねーか」
 そう言って、グイッと体を寄せ、俺の頭の上に顔を近づけた。どうやら冗談ではないらしい。俺はそれ以上、何も言えなくなった。

 何かがおかしい。

 「ちょっと腹が…」とごまかし、俺はトイレに駆け込んだ。壁に貼り付けられている鏡に目をやると、そこには俺であって俺ではない姿が映っていた。
「何だよこれ…」
 小さかった俺の身長が、頭一つ分、でかくなっている。朝、ろくに鏡も見ずに出てきたせいか、異変に全く気づかなかった。鏡に近づいたり、遠ざかったりしてみたが、鏡の中の自分と目が合わない。

 頭が混乱した。
 教室に戻って授業を受けても、何一つ頭に入ってこない。どう考えても、こうなった原因は、昨日、一宮咲にフラれたせいだ。彼女が高嶺の花だとはわかっていた。でもまさか、
「乾君のこと、カッコいいとは思ってるのよ。だけど私、横に並んで、彼氏を見上げながら話しがしたいの。ごめんね」
 こうハッキリ理由を突きつけられるとは思わなかった。

 そう、俺はそこそこ顔はいいのだ。性格だって悪くない。自分で言うのもなんだが、それなりに気の利く方だと思う。もちろんレディーファーストも心掛けている。でも何故かモテたことがなかった。背が低いせいかもしれないと、薄々気づいてはいたが、おめでたいことに、俺にはそれを補えるだけの愛嬌があると思い込んでいた。しかし咲の一言で、それが過信だということが明らかになってしまった。
 ショックだった。
 俺は帰り道にある神社に寄って、なけなしの小遣いを賽銭箱に投げた。

「神様、どうか俺の背を伸ばしてください。できれば20センチ、いや、15センチでもいい。どうか神様、お願いします! お願いします!」

 俺の願いは、神様に届いた。
 眠っている間に背が伸びたらしいが、脚に痛みや違和感はない。もしかしたら急激な身長の変化に、俺の意識がまだ追いついていないのかもしれない。だから、こんなおかしなことが起こったのだ。せっかく背が伸びたのに、悔しいことに、俺の意識は未だチビのままらしい。
 それでも俺は、高くなった身長に自分の意識が追いついてくれるのを信じて、誰とも目が合わない生活に耐えた。

 だが、この肉体と意識のズレはなかなか解消されなかった。
「悟は背が高くていいよなぁ」
「将来、モデルになれば?」
 クラスメイトからそんな言葉を掛けられても、自分が褒められた気がしない。誰と話をしても、目が合わないと話した気がしないものだ。皆が俺ではなく、俺の背後霊と話をしているように思えて仕方がなかった。

 ある日の放課後、俺は一宮咲に呼び出された。
「何で私、乾君の告白断っちゃったんだろう…背も高くてカッコいいし、優しいのに…。」
 そう言って、一宮咲は潤んだ瞳で俺の頭の上を見つめている。その姿が何だか少し、間抜けに見えた。
「ねぇ、乾君、まだ私のこと好き?」
 ここで好きだと言えば、咲と付き合うことができる。でも、視線を交わせない状態で付き合ったとして、キスとか、うまくできるだろうか。そう思うと恐ろしくて、俺は咲の告白を受け入れることができなかった。

 俺は病んだ。
 俺の目を見てくれる人と話がしたい。そんな思いを募らせるあまり、誰とも口が利けなくなっていった。昼休みになると、一人になれる場所を探して飯を食った。これまで愛想よくやってきたせいか、俺の変化を気にかけてくれるヤツもいたが、俺は、誰かに話しかけられるのが怖かった。真冬で人の出入りがない非常階段なら、寒いけど落ち着いて過ごせるかもしれない。そう思った俺は、廊下の奥にある無機質なドアを開けた。

 そこには先客がいた。
 肩より長い黒髪が、風になびいている。見たことのない女の子。おそらく下級生だろう。その子が振り返ったとき、目が合った。
「あ、ごめん」
 俺は思わず謝る。

「ああぁぁぁー! 目が合ったぁぁぁぁぁ!」

 俺は、全校舎に響き渡るような声を上げた。
「ヤバいヤバいヤバい。マジかマジかマジかっ!」
 テンパって、機関銃のように言葉が飛び出す。彼女はそんな俺に目を丸くして驚いていたが、やがてその視線は、優しく穏やかなものへと変わっていった。温かい視線を向けられたのが久しぶりだったせいか、俺の感情のブレーキは馬鹿になった。
「おかしなことばっか言ってごめん! でも俺、マジでおかしいんだよ」
 気づけば俺は、初めて会った女の子に、これまでの経緯いきさつを半泣きで話していた。彼女は黙って、俺の話に耳を傾けている。普通じゃない話を、ひるむことなく聞いてくれた彼女は、それだけで女神だった。
「俺、二年B組の乾悟っいぬいさとるていいます」
 ひと通り話し終えた後、遅ればせながら自己紹介する俺を見て、彼女は初めて、ふふっと笑った。目元のほくろが色っぽい。
「明日の昼休みもここで会えないかな?」
 俺が言うと、女神はコクンと頷いた。

 一年A組の牧冬花まきふゆか
 これほどの美少女が一年生にいたとは知らなかった。
 それから俺と牧は、非常階段の踊り場で話をするようになった。牧は口数の少ない控えめな子だったが、俺が訊けば、自分のことを話してくれた。一月生まれで、好きな食べ物はカスタードクリーム。好きな花は蝋梅ろうばい。妹と二人で見た、雪化粧した蝋梅の美しさが忘れられないと言っていた。調べてみると蝋梅は、その言葉の響きからは想像もつかないような、楚々とした可愛らしい花だった。

 放課後、俺はダッシュで一年A組の教室に向かっていた。その日、俺の好きな漫画を牧に貸すつもりでいたのだが、昼休みに会うとき、うっかり教室に置いてきてしまった。一分でも長く牧と話がしたかった俺は、教室に取りに戻らず、帰りに手渡すことにしたのだ。
「あの…牧さん、まだいるかな?」
 教室のドア付近にいた女の子に訊くと、
「牧ちゃーん」
 教室の奥に向かって声をかけてくれた。
「はい」
 呼ばれてやってきたのは、知らない女の子だった。
「えっ? 他にも同じ名字の子っていたりする?」
「いいえ、私だけです」
 その子の視線は、俺の頭の上に向けられている。
「俺の知ってる牧さんは、目元にほくろがあるんだけど…」
 そのとき、彼女の顔が青ざめた。
「いつ、どこで会ったんですか!」
 気圧されそうになりながらも、俺が非常階段の踊り場で会っていることを話すと、彼女は勢いよく教室から飛び出した。ただならぬ雰囲気に、俺は彼女の後を追いかけた。廊下を突っ切り、非常階段のドアノブに手をかけると、
「お姉ちゃん!」
 彼女は切羽詰まった声を上げ、ドアを開けた。しかし、そこに牧の姿はなかった。

 牧春花まきはるかの姉、冬花がこの世を去ったのは、三年前のことだった。
「もともと病弱でした。それでも何とか受験して、この高校に入学したんです。ほとんど通えずに亡くなりましたけど…」
 愕然としたが、納得はできた。肉体と意識のズレを抱えた俺と、あんなふうに目を合わせることができたのは、牧自身が、肉体を離れた、意識そのもののような存在だったからなのだ。
「両親の目は、いつも病弱な姉を追いかけていて、私はその視線の外にいました。だから姉が死んだとき、悲しかったけど少しホッとしたんです。これでやっと、両親の視線が私に向くって」
 春花の目に涙がにじむ。
「でも、両親は私の中に姉を探すようになりました。この高校に入学したのも、姉が残した制服を着るためなんです。でも姉は病気のせいで痩せてたから、姉の制服は私には少しサイズが小さくて…。でも、無理して着ました。知ってますか? キツいスカートも、仰向けになって穿くと、何とかチャックが締まるんですよ…」
 春花はそう言って自虐的に笑った。俺はその話を黙って聞いた。牧冬花が俺の話を黙って聞いてくれたように。
「最近つくづく思うんです。私の中に姉はいない。私は私なんだって。でも私の中にいる私がそうやって叫べば叫ぶほど、そのままの自分でいることが怖くて堪らないんです。だって私は、姉が死んでホッとするような酷い人間だから…」
 そう言うと、春花は顔を覆って泣いてしまった。
「でも、牧が死んだとき、ホッとしただけじゃなくて、悲しいとも思ったんだよね? だったらそれも本当の気持ちだよ。両方の気持ちがあってもいいじゃん。牧のことが本当に嫌だったら、俺の話を聞いて、教室を飛び出したりしないと思うよ」
 俺が言うと、春花が顔を上げる。
「前に、牧が言ってたよ。妹と二人で見た蝋梅が忘れられないって」
 春花は、記憶を辿るように遠くを見た。
「…あの日、朝から雪が降っていて…体に障るので、外に出してもらえなかった姉を、私がこっそり連れ出したんです。途中で可愛い花が咲いてる木を見つけて、帰って姉と調べてみたら、蝋梅っていう花で…」
 そこまで話すと春花はまた、顔を覆って泣いた。

 その日の帰り道、俺はまたあの神社に行った。
「私は私」
 そう言っていた春花の言葉が耳に残った。
 これまでの俺は、高くなった身長に自分の意識を合わせることばかり考えていた。でも、背が高くても低くても俺は俺。どんなスペックであろうと、それを認めて生きるしかない。春花の話を聞きながら、俺はそのことにようやく気づいたのだ。
 そうして俺は、また、なけなしの小遣いを賽銭箱に投げた。


 「早く食べないと遅刻するわよ!」
 ダイニングキッチンで母親が朝食の支度をしている。
「今日はちゃんと家で食べていきなさいよ」
 そう言って母親は、俺の目を見て、サンドイッチがのった皿を手渡す。
「今日は積もりそうね」
「え?」
「外見てないの? 雪降ってるのよ」
 窓に目をやると、向かいの家の屋根がうっすらと雪化粧をしている。窓に映る俺の姿は、背の低い元の俺に戻っていた。

 雪化粧をした蝋梅が見たい。
 俺も、牧が好きだった蝋梅を見てみたい。
 どこで見られるのか春花に訊こうと、俺は学校に着いてすぐ、一年A組の教室に行った。近くにいた女の子に、
「牧さん、もう来てるかな?」
 そう尋ねると、その子は俺の目を見て言った。

「うちのクラスにそんな子はいませんけど…」

 冬花と春花。二人はどこへ行ってしまったのだろう。一緒に話をした記憶だけが俺の中に留まり、それ以外は跡形もなく消えてしまったようだった。呆然としながら一日を過ごし、気がつけば俺の足は、またあの神社へと向かっていた。境内を見回すと、一本の木が小さな花をつけている。カスタードクリームのような色、ロウソクみたいな艶の花びら。
 蝋梅が咲いていたのだ。
 病弱な姉を気遣いながら、そんな妹に感謝しながら、二人の姉妹は、雪化粧された蝋梅を見つめていたのだろう。微笑ましい光景を想像していたそのとき、俺はふと思った。

 昨日、この神社に蝋梅なんて咲いていただろうか。

 一日前の記憶は既に曖昧で、手繰ろうとしてもぷつぷつと、記憶の細い糸は途切れていく。
 俺は思う。
 もしかしたら、あの二人がどこかへ行ってしまったのではなく、どこかへ行っていたのは、俺の方なのかもしれないと。

 

 

 

 

 
 

  


 

 

 
 

 
 

 



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