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人情、という言葉を聞いて、思い浮かべるものはなんだろう。 webで検索してみると、実に簡単に、 人にそなわる自然な、心の動き。情・思いやり。 そんな意味が出てきた。 だが、人情というものは、実際の意味よりも重たく、人を束縛するような不自由さを感じさせる。どことなく湿り気があって、そこに陶酔しきってしまうのは、自分の冷静さを失うようで恐ろしい。 江戸物などの時代小説を読んでいると、現代では些末に扱われがちな、《人情》《忠誠》《辛抱》《貞操》というものを描いて
なぜこうも、いろいろなことを願ってしまうのだろう。 ああなりたい、こうなりたい、と、願望を抱いては、それをどうにかして叶えたいと思う。だが、自分の願いと向き合うことは、簡単なようでいて実は難しい。 願いを現実化させたいと思うことは、精神的や痛みや負担が伴う気がする。 例えば、お金が欲しいと願うことは、《自分にはお金が無い》と認めることになるし、痩せたいと願うことは、《自分が太っている》と認めることになる。そこにあるのは《今の自分は欠けている》という不足の概念だ。
たまたま見たドラマの、たまたま聞いたセリフが、妙に頭に残ることがある。 そのドラマの主人公である主婦は、目の前にいる夫にこう言った。 「私は毎日、マイナスをゼロに戻してるの」 足の踏み場が確保されたフローリング。衣装ケースに畳んでしまわれている洋服や下着。温かいご飯。いつの間にか沸いているお風呂。 快適な生活を送るためにある行動の前後には、必ず家事がついて回る。 妻の悲痛な叫びを、夫がどう受け止めたか、その後のドラマの展開は憶えていない。 だが、家事をす
この物語が、あのとき私のそばにあったら、どれほど救われただろう。 ため息とともに吐き出された思いを胸に、私は先ほどまで読んでいた本の表紙を、じっと見つめた。 穏やかな水面のような瞳でこちらを見るナース。 物語を読み終えた今、この表紙のやさしい色合いが、なおさら心に沁みてくる。 長期療養型病棟で看護師として働く、卯月咲笑には、患者の思い残したものが、《視えて》しまうという不思議な力がある。 意識不明の患者のベッドの脇に女の子の姿が視えたり、にらみつけるような表情