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バスケットボールがくれたもの〜自分が好きでいられる自分

小学4年生のころからバスケットボールを習っていた。中高と部活を続け、大学では迷わずバスケのサークルに入った。

わたしは青春時代の全てを、バスケとともに過ごした。

しかし、「わたしがバスケにもらったものってなんだろう」と考えたとき、これといったものが何も浮かんでこなかった。

どうしてこんなに思い入れがあるバスケのことなのに、何一つとして浮かんでこないのだろう。

そう考えているうちに、気が付いた。
わたしがバスケにもらったものは、全てだったからだ。
全てというのは、いまわたしがこうしていられるための全て、ということだ。
当たり前にここにあったから、アイディアとして浮かんでこなかった。

では、いまわたしがこうしていられる、ということはどういうことなのか。
それは、わたしがわたしを好きでいられる状態だということだと思う。

バスケと関わるなかで、どうしてそう言えるようになったのか。
思い出に残っている出来事やその時に考えていたことを振り返ってみたいと思う。

小学生時代①〜バスケを始めたきっかけと本気になった瞬間

わたしがバスケを始めたきっかけは、漫画のスラムダンクを読んだことだ。
父が買った1〜3巻だけが、なぜかいつもリビングにあって、何気なく手に取った。
次の瞬間には夢中になって読み進めていた。

それがきっかけで、昼休みに体育館に行き、バスケットボールで遊ぶようになった。

そして気づいたときには父へ、「バスケのスポーツ少年団に入りたい」と直談判していた。
小学4年生の夏だった。

父は、バスケを始めることを快諾してくれ、代わりにひとつだけ条件を提示した。
自分でやると決めたのだから、途中で辞めずに最後まで続けること。

週4回、3時間の練習は想像以上にきつかった。
走り込みにつぐ走り込み・フットワークから始まり、ボールに触れるのは練習が始まって1時間後。
いつもどうやったらサボれるかばっかり考えていた。
それでも、少しずつ自分が上達していくのがわかって、チームメイトと仲良くなっていって、先輩たちのかっこよさに気づいて、あまりサボろうとは思わなくなっていった。

きつかったけれど「辞めたい」とは思わなかった。父との約束がずっと生きていたからだと思う。

5年生になったわたしは、初めて腐った
常に地区大会で上位入賞していた2つ上の偉大な先輩たちが抜け、主力とまでは行かないまでも、わたしも戦力の一部になっていた。
練習の最後のほうの、ゲーム形式の練習にもたくさん参加できるようになった。

そのゲーム形式の練習のときに、同い年の別なチームメイトにばかりパスが行く、というのが腐った原因だった。

その同い年のチームメイトはすごく運動神経もよかったし、わたしよりバスケを始めたのが先だったから、客観的にみれば当然のことだったのかもしれない。
でも、わたしは納得できなかった。
なぜなら、その同い年の子はよく練習を欠席していたからだ。

わたしのほうが絶対練習してる。がんばってる。なのにどうして。おもしろくない。

今なら、その子なりにちゃんと理由があって休んでいたのもわかる。
しかし、小学生のわたしにそれを悟るのは難しかった。

ある日の練習の帰り。
迎えにきてくれた父は、わたしの様子がおかしいことにすぐに気づいた。
どうしたんだ、と言われて、上に書いたようなことを泣きながら父に話した。

そうしたら父は、なぜか少し怒った口調で言った。
「そんなの、努力したやつには絶対に誰も敵わないんだよ」
だから、諦めるな、腐るな、頑張れ。
いちばん身近なひとが、ただただ真っ直ぐにくれたエールだったから、わたしに刺さった。
その言葉は、それから先もずっと、わたしの心の真ん中にあり続けていた。

誰がなんと言おうと、誰が諦めても、わたしだけは諦めない。

バスケットボールに本気になった瞬間だった。

小学生時代②〜バスケを本当に好きになった瞬間

6年生のとき。
わたしは当時bjリーグに所属していた、仙台89ERSの試合を見に行った。ある機会があって、チケットをもらえたのだ。
初めて生でみる、プロの試合だった。

会場は仙台市体育館(現カメイアリーナ仙台)。
スポ少の大会だったら、県大会レベルで使うような大きな体育館の真ん中にコートが一面だけあって、たくさんの観客がそこを取り囲んでいる。
ほとんどのひとが、チームカラーの黄色を身につけていた。
選手の名前を読み上げるMCの声や、大音量のBGM、ポップコーンとパンフレットのインクのにおい。
非日常の空間にわたしは一気にひきこまれた。

その日、仙台89ERSは勝利を飾った。
わたしは、試合をする選手たちをみて、楽しそうだと強く思った。
こんなに楽しそうにバスケをするひとたちがいるんだ、と感動した。
もちろんそれは、選手のみなさんが1ミリも手を抜かずに全力で戦っていたからだ。
その姿が、その時のわたしには楽しそうに見えたのだ。

バスケはきついもの。
どこかでそう思っていたわたしには、たくさんの観客のなかでもてる力を存分に発揮する選手たちが、すごくすごく輝いてみえた。

そこから、わたしは仙台89ERSのブースターとなった。多い時は月に1度、高速道路で片道2時間をかけて試合を見に連れて行ってもらった。
黄色いバスパンやTシャツを練習着に選んだ日は、無敵だった。
シューズの紐も黄色に変えた。

わたしも、あんな風になりたい。
常に頭の中にはあの日の選手たちの姿があった。

バスケって、こんなにわくわくするんだ。

わたしが本当にバスケを好きになった瞬間だった。

中学生時代〜大挫折からの暗黒時代とそこから救ってくれた先生

中学校にあがると、それまで違うチームで習っていた生徒たちが同じチームになった。
わたしの代では、3つのチームから生徒が集まった。
ひとつは全国大会で3位に入賞したチーム。
もつひとつのチームも、県大会に出場した経験がある強豪だ。
他方、わたしのチームはといえば、ひとつ上の先輩たちが卒団したあと、メンバーを集めることにさえ苦労して、公式戦に出られるだけでも万々歳というような状態だった。

わたしはそこで、人生で最初にして最大の挫折を味わった。
1年生の4月からレギュラーメンバーに選ばれて、3年生よりも活躍するような同級生がたくさんいた。
敵うはずがない。わたしは脇役だ。
どこかでずっとそう思っていた。

稀に試合に出してもらえても、わたしの目標は点を入れたりアシストを決めたりすることではなく、周りの足を引っ張らないことだった。

当時の顧問ともそりが合わなくて、本当にそのころは暗黒時代だった。
腐りに腐って、もう自分でも手もつけられない状態だった。

「いまは、バスケ好きじゃないかな」
思わずチームメイトに、そう漏らした。

そんな状況でも、ひとつだけ絶対に譲らなかった部分がある。
それは、練習で手を抜かないこと。
努力したやつには誰も敵わない。
どんなに腐っていても、父のその言葉だけは心の中から捨てられなかったのだ。

その信念を持ち続けていたからだろうか。
大地獄に救いの手が差し伸べられた。
2年生の途中で顧問が変わったのだ。

新しい先生は、練習のときから生徒ひとりひとりをきちんと見て、生徒たちと同じ目標を共有しようといつも語りかけてくれた。
そして、一生懸命にやるということを何よりも大切にする先生だった。

わたしが練習試合や公式戦でミスをしてベンチに戻ってきてへこんでいると、
「はぎは誰よりも真面目に、練習に取組んでるだろう。はぎに足りないのは自信なんだよ。練習でできることを試合でできるにはどうすればいいんだろうって考えなきゃ。やってみなきゃ、できるようにならないだろ」
そう言ってくれた。
言葉を変えて、何度も何度も言ってくれた。

弱いわたしは、先生にそう言われると、いつも涙が止まらなくなった。
先生の期待に応えたいけれど、そうできない自分がすごくすごく情けなかった。

だけど、その先生に教わるようになって、わたしはまたバスケが楽しいと思えるようになっていった。
バスケが好きだと思えるようになっていった。

同級生たちには、絶対に技術では勝てない。
差がありすぎる。
だけど、それでも自分にできることって何?
わたしが絶対に誰にも負けないものって何だ?

わたしは考えた。
そして、ひとつの答えに行きついた。

バスケが大好きだという気持ちだけは、誰にも負けないんじゃないだろうか。

弱いやつの言うことだと思われるかもしれない。
負け犬の遠吠えだと言われるかもしれない。

それでもそれは、父の「努力したやつには敵わない」という言葉と並んで、わたしのことを支え続けた信念であることに間違いなかった。

高校生時代〜暗黒時代ふたたび

高校に入学しても、バスケ部に入らないという選択肢は、わたしのなかにはなかった。
しかしそれは、中学校の前半部分を凌ぐほどの大暗黒時代の始まりだった。

その最大の原因は、わたしが顧問を大っ嫌いだったこと。たぶん、先生の方も気が合わないなと思っていただろうと思う。
最後の最後まで、どうしても歩み寄ることはできなかった。
先生を見返してやれるほどの実力もなく、試合の9割9分をベンチから眺めていた。

それでも毎朝、始業開始1時間前に登校し、シュート練習を続けていた。報われなかったけれど、諦めなかった。

そんななか唯一救いだったのは、同級生の部員たちと仲が良かったことだ。
マネージャーを含めた同級生7人は、みんな愉快で心根が優しくて、気が合った。
いまでも、当時のメンバーは気軽に飲みに誘ったり、他愛もない用事で長電話をしたりできる、貴重な存在だ。

この出会いがあったから、わたしはきっとバスケを嫌いにならなかった。

大学時代〜体育館=わたしの居場所

大学に入学してすぐに、バスケのサークルに入った。
バスケ部もあったけれど、その時のわたしは部活というものに、全く前向きな気持ちを持てなかった。
だけど、バスケをしないという選択肢だけはなかった。

部活という形とは切り離して、思いっきりバスケができる。
その環境があることは、とてもありがたかった。

サークルに参加しているとき、わたしはそれまでの人生でいちばん、わたしらしくいられたと思う。
それは、先輩たちや同期が、そのままのわたしをちゃんと受け入れてくれたからだ。

サークルにいる人たちはみんな、バスケが大好きだった。
大学からバスケを始めたという先輩も多かったけれど、みんな独学でバスケを練習したとは思えないほど上手だった。
みんなバスケが大好きだったから、バスケが大好きなわたしのことを認めてくれた。
練習着を着て、バスケットシューズを履いて、ボールを持っていれば、わたしはいつもの100倍堂々としていられた。

誰かと比べるのではなく、ただ自分がもっと上手くなりたいからやる。
そうでなくても、ただここにいるのが楽しいから来る。
サークル内のそういう雰囲気も大好きだった。

サークルをする体育館は、わたしにとってホームだった。

それまで「バスケが好き」というところで完結していのが、大学時代にバスケを通して出会ったすべのひとたちのおかげで、
「バスケをしている自分なら好き」というところへ、気持ちが拡大していった。

人と人との繋がりをつくり、誰かの居場所をつくる。
スポーツにはそういう役割もあるのだな、と学んだ4年間でもあった。

終わりに

それなりに長い間バスケをしていて、わたしは成功体験というものを片手で数えられるくらいしかしていない。それに、どれもこれも客観的にみれば取るに足らない些細な出来事だ。

苦しいことや辛いことの方がもちろん多かったし、自分に自信がもてないでいた期間のほうが圧倒的に長かった。

悩んで苦しんでもがいて、壁にぶち当たるたびに立ち止まって考えて。
それでもやっぱりバスケが好きなんだ、どうするんだと自問自答して。

気がつけば、バスケに関わっている自分が、いちばん輝く自分になっていた。
バスケをしている自分がいちばん好きだと思えるようになっていた。

自分が好きだと思える自分の姿があるということ。
人間として生きていくうえで、それより大切なことはないのではないかと思う。

バスケットボールがわたしにくれたもの。
それはわたしがわたしでいるための全てだ。

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