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ファロスの見える家 夢見たもの その1

【これまでの経緯】
 美咲は加奈の子供が白血病でM市中央病院に入院していると知る。それを聞き美咲の心は乱れた。美咲は心に深い傷を負っていた。


 水仙が咲き、梅が咲き、咲き誇っていた桜も多くの花びらを散らしてしまった。今では誰も見向きもしなくなった桜花が一輪二輪と青々とした葉陰にその最後の姿を残している。


 陽(ひ)が傾き始めると海と灯台が見える庭に、季節外れの冷たい風がビューっと吹き抜けた。愛之助と遊んでいた美咲が体を震わせ、掃き出し窓からフロアに戻ってきた。愛之助も美咲の後を、力強く尻尾を振りながら敷居をぴょんと飛び越え入ってくる。
「急に寒くなってきたわ。夜は冷えるのかしら」
 渚沙もキャンバスと絵具箱を抱え戻ってくると、寒いー、と震えている。
壮介は今日も一日キッチンにこもりスイーツ作りに勤(いそ)しんでいたが、なかなか思うようにはできない。スイーツ作りの道のりは遥かに遠い。渚沙の声に、額に浮かんだ汗をひと拭いし、ふたつのスイーツを持ってキッチンから出てきた。


壮介が作る不揃いのスイーツを渚沙と美咲、そして愛之助が、ある時は目を細め満足そうにふむふむと、またある時は鑑定人のように眉間に深いしわを作り試食している。
その結果は、いつも美味しいと言ってくれるのだが、ただそれだけで、どう美味しいのか、それを知りたいのだが、いまだにそれ以上の言葉は聞けない。

 今日も客は来なかった。日も暮れ、寒くなってきたことだし、壮介は早めに店じまいにしようと思った。
「美咲ちゃん、表に【CLOSE】の掛札を出して、ドアに鍵をかけてくれる」
 言われた美咲がドアに手をかけようとしたとき、ふわ~っと扉が開いた。いつもならドアベルがチリリンと鳴るのだが、ドアベルはゆらゆらと揺れているだけだった。よれよれのザックを担ぎ、幽霊のような痩せこけた男が立っていた。


 美咲は、キャッと叫びそうになるのを手で塞ぐと、異様な風体の客に一歩二歩と後ずさりをした。
 男は後ろ手でドアのノブを放すと弱々しい声で、
「なんか、食わして、もらわらへんやろか」
 それだけを言葉にするのがやっとだったのか、言い終えると同時に手前のスツールに倒れこむようにしてへたり込んだ。


この辺りでは聞かれないイントネーション。関西のひとだろうか。
「いらっしゃいませ。あいにくここはスイーツの店なのですが、それでよろしければ」
「スイーツの店、でっか……」
 間違えたとでも思ったのだろうか、男は両腕を支えにして重い体をスツールから剥がすようにして立ち上がり、出て行こうとする。
「お待ちください。温かい飲み物をお持ちします」
 壮介は冷えきって、今にも固まりそうな男の背中に言葉をかけた。
「はぁ~、おおきに」
男は弱々しく返事を返すと、最後の力を使いはたしたかのようにもう一度スツールに倒れこんだ。
壮介はすぐにキッチンに入る。


(壮介さん。あのひとにはあれしかないわね)
 南海子の声だ。
――うん、そうだね。
 壮介はお薄茶碗にお米と紅麹で作った甘酒に、純米酒と生姜の搾り汁を多めに加え、痩せこけた男の前に出した。
 男は肉厚のお薄茶碗を両手で抱え込むと、茶碗の縁に唇をつけ、ほわほわと湯気が上げる甘酒を口に含む。優しい甘さと生姜の辛みが口中に広がる。純米酒が喉元から腹の底までグワっと広がり全身を温めていく。麹の香り、お酒の柔らかさが男の体も心も優しく解きほぐしていく。


男はお薄茶碗に入った甘酒をごくごくと勢いよく飲み干した。はーっと溜息とも吐息ともつかない太い息を吐くと虚ろな目をした。
「うまかったぁ~」
 男は心の底から「うまい」と言った。その声に渚沙と美咲はゴクリと喉を鳴らした。
「もう一杯いかがですか」
 壮介は男に問いかけた。
「そうでっか。そしたら、もう一杯いただきます」
「壮さん、あたしにも入れてよ。お酒と生姜の香りがたまんないよ」
 渚沙が注文すると、美咲もあたしも欲しいと訴えた。
 壮介は、男には純米酒と生姜汁をやや多めにしたものを、渚沙にはたっぷりの純米酒に生姜汁を少し加えたものを、美咲には少量のお酒と生姜汁を少し加えた甘酒をそれぞれのお薄茶碗に入れた。


「ほんとー、美味しー。甘酒って、こんなに美味しかったんですね」
 美咲は目を白黒させている。
「甘酒は『飲む点滴』と呼ばれ、ブドウ糖にビタミンB群、三十種類以上の酵素類が含まれています。それにアミノ酸がたっぷりに入っていますから、健康にいいし、お肌に艶と張りをもたらしてくれるそうですよ」
「へぇ~、甘酒ってすごいんだ。じゃあ、毎日飲もうかなぁ」
渚沙はいつも戸外で絵を描くためか、カサついた頬に手をやった。
男は二杯目の甘酒も瞬く間に飲み干すと、やっと一息ついたのか顔に精気が戻ってきた。そして、ぽつりと驚くようなことを口走った。
「ワテ、逃げてきたんだす」


その言葉に渚沙と美咲は、えっと同時に声を発し、壮介の顔は強張った。
――まさか、ヤクザに追われてる? それとも警察か?
男はどこを見るともなしに、遠い記憶を思い起こすように話し始めた。
「日本でやることなすこと、みんなうまいこといかなんだ。それで日本を出て、世界中で商売したんやけど、どれもこれも思うようにはならなんだ。インドではとうとう行き倒れになってしもうて、何日か前にやっとのことで日本に戻って来たんだす。ワテはそんな過去から逃げてきたんだす」
 ――逃げてきたのは過去からか。


 壮介は、ほっと息をついた。そして、男は続けた。
「行き倒れになっているところを、ほんま、たまたまやってんけど、NPOをやってるインドの仲間に助けられたんや。もしそうやなかったら、ワテは確実に死んでた。なんとか元気になって、日本に帰って来たんやけど、どこにも行く当てがない。何日もフラフラと、そしたらここにたどり着いたんや」
「じゃあ、お仕事は?」
 壮介は尋ねた。
「ご覧の通りだす。なーんにもしてまへん。せやけど、これまでは色んなことやりましたで」
渚沙は自分も放浪していたときのことを思い出し、この男に興味がわいてきた。


「いったいどんな仕事をしてたの、話して聞かせてよ」
 男はうつむいていた顔をゆっくり持ち上げると、落ちくぼんだ目を渚沙に向けた。
「ワテは織部(おりべ)安雄(やすお)といいます。もう遠い昔になるけど、学生の時に友人に誘われて、面白半分にゲームソフトの開発コンペに参加したんや」
安雄は目を細めると、自分の過去をぼそぼそと語り始めた。

日本中の新進気鋭が集うコンクールで、安雄はまさかのまさか、いきなり優勝し、優勝賞金の五百万円を易々と手に入れた。このとき、安雄は審査委員長から、「君にはゲーム作りの才能がある。これからはバーチャルゲームの時代だ」、と言われ、賞金の五百万円を元手に友人と一緒に、小さなソフト会社、オリベ企画を立ち上げた。最初の年に開発した宝探しのゲームソフトが予想をはるかに超える大ヒットとなり、その年の売り上げは軽く二億円を超え、安雄はゲーム界に突如として降臨した天才ともてはやされた。

ワイにはゲームの天分がある。ゲーム作りなんてちょろいもんや、大金持ちになったるで、と意を固くした。ところがこれを境に、ヒットするゲームはなく、赤字が三年続き、オリベ企画はあっけなく倒産に追い込まれた。その後、安雄は世界中を放浪することになる。いろんな国でいろんなことをした。ニューヨークではスマホの販売店を、トルコではパン屋、イタリアでは観光案内業を、金持ち老人の多いシンガポールでは介護の仕事を立ち上げたが、いずれの国でも安雄は受け入れられなかった。そんなこんなで日本から持ち出した金も底をつき始めていた。そんな時、介護をしていた関係で困ったひとを助けるために国際NPOに参加し、インドの不幸なひとたちを助けようと試みたが、現実はそんな生やしいものではなく、習慣や環境の違いも大きく、結局気持ちが空回りしてしまい、帰国のために残しておいたなけなしの金まで使い果たし、物乞(ものご)いをするはめになった。ところが、その物乞いすら相手にされず、やつれ果(は)て、倒れていたところを幸いにも仲間だった裕福なインド人に助けられ病院に担ぎ込まれた。まさしく死の淵からの生還で、万に一つの幸運だった。


安雄はベッドの上で目を覚ましたものの、生きる術(すべ)も気力もすっかりなくし、生ける屍(しかばね)と化していた。
「何をやってもうまいこといかへん。いまではなけなしの金すらもすっからかんや。ゲームの才能も金持ちになれる素質もあらへんのに、ほんまにワテは何をやってるんや。それにちょっとしかない運も、ゲーム開発ですべて使い果たしてしもたんだすなぁ。それにもっと早(はよ)う、気ぃ付いてたら、こんなに損せんでもよかったのになぁ……」


 渚沙は目の前の虚空を睨みつけ、安雄の話を黙って聞いていた。眉間に深い皺を刻むと、
「損だ、得だって、お金ってなんなのよ。お金がなきゃ、いけないの。あなたのようにゲーム作りで運よくお金を儲け、あいつは秀才だ、鬼才だともてはやされ、挙句には天才だなんて、むやみやたらと担ぎ上げられる。そして、ヒット商品を出せなくなって、無一文になれば廃人のように見向きもされない。そんなのイヤじゃない。あなたはそれでいいの」
 渚沙は安雄の話しになんだか無性に腹が立ち、自分でも抑えられないほどイライラしていた。


「確かにそうかもしれへんけど……、やっぱり金が」
「お金なんて関係ないわよ。金、かね、カネ。そんなものがいくらあっても本当の絵が描けるわけじゃない」
「そやけど、お金がなかったら、絵、描くための筆も絵具も買われへんやないですか。絵具がなかったら、あんたのいう本当の絵も描かれへんのとちゃいますか」
「そっ、それは……」
 渚沙は言葉に窮した。


「それみい。お金がなかったらなんにもでけへんやないか。やっぱり、お金が一番大事やないか」
「あるわよ。それは……、それは、美よ。美しいと感じる心よ。ヒトに感動を届けることができれば、こんな幸せなことはないわ。あたしはそれを信じて毎日絵を描いている。そうしていれば、必ず、きっと……」
「きっと? きっとどないなるちゅうねん。仮にそれができたって、売れへんかったら貧乏絵描きのままや」
 安雄の辛らつな言葉は、渚沙を少なからず打ちのめした。


「それに……。ここに敬虔(けいけん)なクリスチャンがいたとしたら、その人はお金よりキリストさんが大切やというやろ。その隣に同じように敬虔なイスラム教徒がいたら、その人は金よりマホメッドさんが大切やというやろな。せやけど、このふたりはどうなった。大切な神さんを守るために大昔からケンカばっかりしてるやないか。それとは違(ちご)うて、お金はみんなに平等や。嘘つかへん。それが証拠に、違う神さんを信じててもお金のありがたみはみな同じや。神さんの違いに関係ない」
 せやからお金は神さんより上や、と安雄は言い放つ。


 みなは安雄の屁理屈に黙ってしまった。
しばらくして、壮介が話し始めた。
「確かにお金は大切ですよね。どんなに敬虔なクリスチャンでも、博識のある人でもお金がないと生きてはいけません。あのピカソですら画材を買うお金がなかったら、あのゲルニカも描けなかったでしょう。でも、お金が一番大切だと言い切れるでしょうか」
「そうよ。あたしは自分の絵で、ひとに感動してもらいたいと思っている。それは独りよがりかもしれないけれど、お金儲けのためだけに絵を描くのはイヤ。自分の想いを込めて表現できたものが、ひとの心を少しでも動かすことができたなら、どれだけ素晴らしいか」


「それやったらワテかて、ゲーム作りにどれだけ心血を注いだか。どうしたら面白いゲームになるかと思うて必死になって考えた。せやけど、できたもんは受けなんだ。売れへんかったらおしまい。夜も寝んと一生懸命に考えたアイデアも、なんもかんもすべてパーや。仲間や従業員のひとたちにも給料払えんし、ええ思いもさしてやられへんかった。結局、なんの役にも立たなんだ」
 安雄は言い終えるとがっくりと肩を落とした。
渚沙も鬱々(うつうつ)としたどうにもならない現状を打ち明けたが、話せば話すほど虚(むな)しくなるばかりだった。言い争いに疲れ果てたふたりは顔を背け黙ってしまった。
                        つづく

【夢見たもの その2】予告
壮介はコリッタチーズケーキを二人に供し、これに「夢見たもの」と菓銘を付ける。そして、安雄と渚沙、そして壮介の夢は何なのか、三人はぽつぽつと話しはじめた。

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