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ファロスの見える家         明日への約束

【これまでの経緯】
渚沙は自分が求める絵がやっと描けたと思い、壮介に見せたが、壮介は首を左右に振り、苦評だった。そんなとき、美咲が勤め先の病院から帰ってくると、渚沙がSNSに投稿していた絵が評判になっていると言った。


 その日から渚沙は庭ではなく、二階の青の部屋にこもり絵を描いている。壮介にここに居てほしいと言われたからか、それともSNSに投稿していた絵と詩が評判になり気をよくしたためか、それはわからないが、渚沙は猛烈に絵を描きたいという気持ちを抑えきれなかった。それは今までに感じたことのない衝動ともいえる感覚だった。とにかくその気持ちを画面にぶつけよう。それがどういう絵になるのか今はわからない。


渚沙は青の部屋にこもり続けた。食事は壮介と美咲が届け、壮介はスイーツに、「渚沙、ガンバレ」という想いを込めた。渚沙は黙ってそれらを受け取ると絵を描き続けた。
そして、七日目の夜遅く、カチャリと青の部屋のドアが開き、渚沙が出てきた。げっそりとやつれている。目が落ちくぼみ、まるでこの家に住み着いた幽鬼のようだった。


壮介は【CLOSE】の看板を片手に店を閉めようと階段の傍に来た時、渚沙が手すりに手をかけ、よろよろしながら降りてくるところだった。
壮介は今にも倒れてしまいそうな渚沙を抱きかかえた。
「渚沙さん。できたのですね」
 渚沙は残された最後の力を振り絞るようにして小さくうなずいた。
「とにかくここに座って」
 渚沙を抱きかかえたままいつのもスツールに案内した。渚沙はゆっくりとした動作で腰を下ろすと、壮介はすぐにキッチンに入った。

 しばらくして、柔らかな懐かしい匂いが届く。
 ――ああ、これは……。
「お待たせしました」
抹茶茶碗にトロリとした白い液体が入っている。思ったとおり、『青春』だった。ほわほわと湯気が立ち昇り、麹の匂いと甘酸っぱいカルピスの香りが入り混じっている。それと、リンゴだ。リンゴの切り身とすり下ろしたリンゴが入っている。
甘酒の優しい甘さと、カルピスの酸味がよく合っている。リンゴの香りとシャキシャキ感がなんとも心地よく、疲れた体を癒してくれる。
「おいし~」
 渚沙は『青春』を飲み干すと、ほ~っと息を吐いた。


「生きかえるわ~」
 甘酒は飲む点滴と言われるだけのことはある。渚沙の目に精気という火が灯った。
「絵が、完成した。見に来て」
 壮介は渚沙の青の部屋に入った。部屋の中は絵の具などが散乱していたが、きれいに整理されていた。普段大雑把な渚沙を見ているだけに、意外と言えば意外だった。


 絵は入口から影になっているクローゼットの前に立てかけられ、縦一.五メートル、横二メートルはある大作だった。壮介の目は絵の真ん中にあるファロスに釘付けになった。灯台の周りは暗い闇の色で塗られている。灯光台からは一条の光がはるか先を指し示している。そして灯台を中心にしてぐるぐると渦を巻くように徐々に明るくなり、その輪の中に人々が渦巻いている。


「このひとたちは、ひょっとして」
 壮介は振り向いた。
「ええ、そうよ。この店にやって来たひとたちよ。灯台の足元は暗い。その闇から人々は光の先へと旅立っていく。そこには希望に満ちた明るい未来がある」
「それを表現したのですか」
 ええ、と渚沙は首肯した。


 壮介はこの絵から目が離せなくなっている。絵の中に引き込まれ、絵の中のひとりになったような、そんな錯覚をきたすほど、この絵は力強いエネルギーを放っていた。こんな強烈な印象を受ける絵は今までに見たことがなかった。渚沙のこれまでに溜まりに溜まった情念の爆発だった。
「できましたね。傑作が」
 渚沙は黙ったままだった。そして、おもむろに口を開いた。
「ええ、そうね。これはあたしの代表作になると思う。でもこれは最高傑作じゃない。本当のあたしはもっとすごい絵が描ける」
 そう言い切った渚沙の横顔は、恐ろしいほど真剣そのものだった。


「だから、壮さん。あたしはここを出て行かない」
「そうですね。最高傑作でない以上、ここを出て行くことはできません。ぼくと美咲ちゃんと一緒に暮らすことになります。約束ですから」
 そう言い終えた壮介は、渚沙を引き寄せると強く抱きしめ、優しくキスをした。そして、もう一度唇を重ねた。
「これはぼくと、これからこの絵を見るお客さんからのお礼です」
 壮介は強く抱きしめていた腕をほどくと、にっこりとうなずいた。そして、この絵を階下のフロアに下ろした。カウンターからは正面の、入口からは右に見える壁に掛けた。フロア全体が静寂な美術館に入ったような、高貴な雰囲気を漂わせた。

 翌朝になって、階下に降りてきた美咲がこの絵を見つけると、ウッ、ウワォーとけたたましい叫び声を上げた。
 その声に驚いた壮介がかき混ぜ器を持ったままキッチンから飛び出してきた。
「どうしたの。美咲ちゃん、なんかあった」
「なん、なんですか、これ。びっくりしたぁ」
「ああ、これは昨日遅くに完成した渚沙さんの絵です。どうですか、いいでしょう」
 壮介は自分が描いたかのように誇らしく、胸を張った。


「確かにすごい絵ですね。なんというか、迫力がすごいです。この絵の中に吸い込まれそうで、怖いくらい」
「そうでしょう。ぼくも昨日見て目がくらくらしました。それだけこの絵に力があるってことですよ」
「それじゃあ、完成したのね。ついに傑作が描けたのね」
美咲は何度も念を押した。
「これは最高傑作じゃないそうです。最高傑作はこれから描くそうです。でも、この絵は渚沙さんの代表作になるだろうとは言っていました」


「と、いうことはどういうことになるんですか」
「渚沙さんは、ここにずっといます。そういうことです」
「それじゃあ、それじゃあ、渚沙さん、ここを出て行かないのね」
 壮介は、ええ、と笑顔で答えた。
「よかったぁ。渚沙さんがいなくなったら、あたしも出て行こうと思っていたから、よかったぁ」
 よかった、よかったと何度も繰り返し、美咲は病院へ出勤して行った。

 壮介はいつものように人気のないキッチンで、渚沙のためだけのスイーツを作っている。
 渚沙がベッドから起き出してきたのは午後もだいぶ遅くなってからだった。
「おはよう。疲れは取れましたか」
「う~ん、寝すぎたのかしら。なんだか体がだるいわ」
 渚沙は壁に掛けられた自分の絵を見た。
「おお、すげーじゃん」
そう呟くといつものスツールに腰を下ろした。


 そして、壮介は『明日への約束』をサーブした。
 渚沙はひと口、口に含むと、
「ウォー、おいひぃ~」
 オオカミの遠吠えのように叫んだ。
「これは何でできてるの」
「それは秘密です。企業秘密ということでお願いします」
 渚沙は『明日への約束』を食べ尽くした。そして、食べ終わると、ふふふっと笑う。壮介は、はははと笑った。ふたりの笑い声が渚沙の絵の中に吸い込まれていった。
 
 ちょうどそのとき、ひろ子が参加している合唱団のひとたちが集まり、スマホに映りだされたひとつの画面を食い入るようにして眺めていた。
「ねえ、ねえ。この『美声玉』って、ひろ子さんからもらったキンカンのことじゃないかしら」
「確かに、ひろ子さん、『美声玉』って呼んでいたわね」
この話はこのあとすぐにひろ子に伝えられ、「ファロスの見える店」のありかを白状させられたのはもちろんだが、SNS情報は合唱団だけではなく、あっという間に世間に広がった。みなが「ファロスの見える店」に興味を持ち、大勢のひとたちが押しかけて来るのはそれからしばらくしてからのこと。
このときの壮介と渚沙のふたりは、壮介の作ったスイーツを手に、いつものまったりとした穏やかな時間が流れているだけだった。 

              おわり

ここまでお付き合いをいただきありがとうございました。明日からは、「コラム」をお送りします。

第1回は、【不老不死】です。古くて新しいテーマですが、コロナ禍で再考するのも一興かと。お楽しみください。


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