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ファロスの見える家         行かないで 1

【これまでの経緯】
 美咲は鳴けなくなった愛之助がワンと鳴いたと言った。美咲はこのファロスの見える家を出て行く約束を悲しんだ。だが、壮介も渚沙も愛之助の声を聞くことはなかった。壮介は美咲がこの家に居ることを認めた。


 最近の渚沙は夜明け前に庭に出て絵を描いている。地平線が赤らみ始め、橙色から藍色、そして天空の黒へと続く、その瞬間を絵にしている。そして、朝陽が顔を出しキラキラ輝き始めた。感動の瞬間だが、先程から渚沙の絵筆は止まったままだ。
 渚沙は目を閉じると心の内で呟いた。
――あたしはこれからどうすればいいの。
(これで完成なの? それともまた、放浪したくなった? 本当のあなたはどうしたいの?)
もうひとりの自分が問いかける。


――どこへも行きたくない。美咲ちゃんと愛之助と壮さんと一緒に暮らしたい。
(だったら、この絵はどうするの? また大きなバツを付ける? そうしたければそうしてもいいけど、それでいいの? 画家として、あなたはそれで満足?)
 ――それはできない。納得できるものがやっと描けたのだから。
(それだったら出て行くしかないじゃない)
 ――それは……、イヤ。


 渚沙は何時間もの間、自問自答していた。そして、答えが出ないまま、思いは堂々巡りするばかりだった。
「渚沙さーん、スイーツの時間ですよ」
 渚沙はハッとして、われに返った。壮介の優しい声だ。
フロアに戻ってくると、渚沙が座るいつものカウンターには既にスイーツが置かれている。薄茶色のコロコロとした玉のようなものが輪のようにつながり、淡い色の花柄のプレートに載せられている。


 キッチンから壮介が出てきた。手に植木鉢を持っている。白い花が咲いている。
「渚沙さん、これをカウンターのここに置いておきます」
 そこは渚沙の隣、カウンターの一番奥になる。甘い花の香りがかすかに漂ってくる。
「蘭の一種で、アングレカムと言うそうです。今朝、駅前の花屋さんから届きました」
――花屋から届いた。わざわざ注文し届けさせたというのだろうか。


渚沙は壮介の作った丸いスイーツに手を伸ばした。
「可愛らしいスイーツね。マカロンに似ているけど」
食感はアーモンドクッキーみたいな、コリコリ、サクサクしている。
「バーチ・ディ・ダーマといいます。イタリア語で貴婦人のキッスという意味だそうです。真ん中は貴婦人の赤い唇、甘酸っぱいイチゴチョコにしてみました」
「サクっとしてて、美味しい。それで、菓銘は」
「『行かないで』、です」


 えっ! 渚沙は思わず声が出た。次の瞬間、頬が緩みそうになった。
「壮さんに見てほしい絵があるの」
 渚沙は庭からキャンバスを持ってくると、今朝完成したばかりの絵を壮介に見せた。
「できたのですね……」
 壮介は渚沙の絵を見た。隅から隅までじっくりと見た。それは数分の間、いや、それ以上だったに違いない。そして、意を決すると、「渚沙さん」、と声をかけた。


「この絵で本当に満足しているのですか。これが渚沙さんの最高のものだと言えるのですか」
「これまでの中だと、いい出来だと思っている。だけど最高のものじゃない。傑作でもない。最高のものはこれから描きます。でも、やっとこれだと思えるものが描けたの」
「渚沙さんがそう思っているだけでしょう。ぼくが見るとこれまでの絵と同じ。ぼんやりとした、にじんだ雲のようなものが描かれているだけじゃないですか。こんなものじゃあ、ぼくは納得できませんよ」


「なによ、さっきから。絵を描いたこともない素人のあなたに、そこまで言われる覚えはないと思うけど」
 渚沙は壮介の言いように思わず腹が立ち、言葉を荒げた。壮介をにらみつけると、壮介は唇を噛んでいた。しばらくして、壮介は渚沙の横に置いた花を指さすと静かに話し始めた。
「この花の、アングレカムの花言葉を知っていますか」
「花言葉……?」
 渚沙は突然の問いかけに面食らった。そして、渚沙の横に置かれた白い蘭のような花をじっと見た。しかし、この花の花言葉なんて知るわけがない。ついさっきまで、花の名前すら知らなったというのに。


「『いつまでもあなたと一緒』、というそうです」
――あなたと一緒。あたしと居たいってこと。そういうことなの?
渚沙はカウンターの棚に置かれた南海子の写真を見た。
「『行かないで』とか、『いつまでもあなたと一緒』とか、いつもながら見え透いた言葉ばかり。白々しいったらないわ。でも、それが壮さんなのよね。壮さんの気持ちもわかるけど、でも、あたしが納得できる最高傑作が完成したらここを出て行くからね」
「それはわかっています。だから、渚沙さんが納得できる最高傑作を描いてください。そして、ぼくに本物の感動を与えてください」


渚沙は唇をかんだ。悔しい思いでいっぱいだった。そして、一つ条件があると言った。
「それまでの間、これまで以上に美味しいスイーツを食べさせること。でないと……」
「出て行くというのですか。それはないと思いますよ。これまでも、もし不味いスイーツなら、渚沙さんはさっさとここを出て行っていたでしょうからね。これからもずっと満足していただけると思います」
「妙に自信があるのね」
壮介は、ええ、とうなずき返した。


渚沙との奇妙な関係がいつまで続くかわからない。だが、いまは別れたくない。一緒に居たいと思う。渚沙と目が合うと、急におかしくなり、にこりと微笑むと、渚沙はふふふと笑った。
ちょうどその時、チリン、バタンと勢いよくドアが開き、美咲が息を切らして入って来た。病院から戻り、駅から走って来たのだろう。そして、バッグからスマホを取り出した。
「これを見てください」
スマホの画面を見ると、水彩画のような絵が描かれ、その上に詩のようなものが書かれている。誰かの俳画だろうか。


「この詩のタイトルを見て。『子犬のワルツ』とあるでしょう。下の絵を見て。これ、壮介さんが作ったスイーツじゃないですか」
「ええ、よく似ていますけど。でも誰がこの絵を」
 壮介はスマホの画面から顔を上げると、渚沙を見た。美咲も渚沙を見ている。
「これがどうしたというの」
 渚沙は訳がわからずに口を尖らせた。


「これが病院でうわさになっていて、というか、すごい人気になっているそうなんです。ここの『いいね』を見てください。五千を超えています。これってすごくないですか」
「……」
 渚沙は黙って美咲の話を聞いていた。
 美咲は、こんなのもあるんです、とスマホの画面を指でなぞりつつふたりに絵を見せた。


『雨上がり』でしょ。『女神の涙』、『夢見たもの』、……、『するりするする』。これってみんな壮介さんのスイーツの菓銘じゃないですか。それで看護師のみんなが食べたいって」
「確かに似てますけど、でも、作者は宇美さんになっています」
 渚沙はバツの悪そうな顔をしてぼそぼそと話し始めた。
「実は、それはあたしが適当に描いてSNSに投稿していたの。でも、そんなに受けてるなんて、ぜんぜん知らなかった」


「壮介さん。これからどうするんですか。この店にお客さんがいっぱい来ますよ」
「だからといってぼくにはどうすることもできません。たくさんのお客さんが来たらとても困ります。今までどおりが一番いいんだけど」
「わかってます。あたしは黙ってますけど……」
そうは言ったが、何処かの誰かがきっとここを見つけるに違いない。美咲はそう思っていた。

  『行かないで』
  どこへも行かないで
  行きたくない
  手と手が重なる
  唇が合わさる
  ぼくとあなた
  未来はひとつ
           宇美
                   つづく

【行かないで 2】予告
渚沙は、SNSに投稿していたスイーツの絵のことも気になっていたが、その日から自分の絵を描くことに没頭していた。そして、七日目の夜遅く、げっそりとやつれ、幽鬼のようになった渚沙が部屋か出てきた。

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