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ファロスの見える家          夢見たもの その2

【これまでの経緯】
 安雄はこれまでの運のなさを嘆き、お金に価値を求めていた。渚沙は才能より、お金より人を感動させるものを描きたいと訴えた。


 無言の白けた冷たい空気に包まれたとき、キッチンからバターと何かが焼ける香ばしく、ほんのりあま~い香りが漂ってきた。何かはわからないが心地いい匂いだ。
壮介はコリッタチーズのパンケーキを焼いている。焼きあがったパンケーキ二枚を互い違いに重ね、蜂蜜と真っ白な粉糖で化粧し、さらにホイップクリームとオレンジを添え、渋い顔をして黙りこくった男と女の前に差し出した。


 壮介はふたりに、どうぞ、と声をかけた。
 安雄は腹ペコなこともあり、すぐさまナイフで切り分け、一切れにホイップクリームを塗りつけると大きな口を開けてかぶりついた。柔らかくふわりとした食感と、クリーミーなチーズの優しい香り、その後に蜂蜜の甘みが口の中でじわっと広がる。
――ああ、この味、コリッタチーズとちゃうやろか。
イタリアで観光案内をしていた時、観光客をパンケーキの専門店に連れて行き、喜ばれたことを思い出した。


次に添えられたオレンジにフォークを伸ばす。甘くなった口にさっぱりとした酸味が爽やかだ。オレンジのリモネンとシトラールの香りが鼻孔を抜けていき、イタリアの青い空と乾いた風が吹き抜ける白壁の風景が目の前に広がった。チーズとスフレ生地、オレンジのクエン酸の酸味と蜂蜜の甘み、そして複雑に絡み合った香りのすべてが絶妙だ。決して豪華なスイーツではない。どちらかと言えば、母親が子供や家族のために作るおやつだ。そうなのだが、この店のスイーツは懐かしく、なぜだか心が安らぎ、清々しい気持ちにしてくれる。安雄はフォークに刺した一切れのパンケーキを見ながら思った。


――ほんまにうまいわ。この味は本場イタリアでもなかなか食べらへんのとちゃうやろか。それとも日本に帰ってきたワテが、腹ぺこやからそう思うんやろか。
 安雄は目の前の一切れを口の中へ運ぶ。咀嚼(そしゃく)していると目の前の景色がにじんでいく。
「おいしおます。ほんま、生きててよかったわ。うまいなぁ」
 安雄はしみじみ言った。安雄がこれまでどれほどの辛酸を舐めたのか、辛くて苦しい経験をしたのか、壮介にはわからない。壮介も数年前まで分野は違うが目の前の男と同じIT業界にいた。競争の激しい世界で、毎日が戦争だった。しかしそれはすでにはるか昔のこと。自分が作ったコリッタチーズのパンケーキで少しの間だけでも、彼の心が慰められるのなら、いまの壮介には一番うれしいことなのだ。


安雄は隣に座る渚沙を見た。渚沙も一心にパンケーキを口に運んでいる。
「うまいなあ、これ」
「ええ、ほんと、おいしい」
 ついさっきまで激論を交わしていたふたりだったが、壮介の作るスイーツを食べると、自然に顔がほころんでくる。
「これは何というケーキだすか」
 安雄はふと思い付いたように尋ねた。
「『夢見たもの』と名付けました」
「夢見たもの? ケーキらしない、けったいな名前やな」
安雄は当然、コリッタチーズのパンケーキだと返事が返ってくるものと思っていた。しかし、壮介は違うことを考えていた。夢を追いかけ、戦いにつかれた男と女がここに居る。ふたりのロマンはいまだ夢の途中。そういったことをイメージして、コリッタチーズとオレンジ、それと蜂蜜を使ったと話した。


「そういうことでっか。それがワテの心に沁(し)みるんだすなぁ……」
安雄は納得すると再びフォークを動かし始めた。
 渚沙は『夢見たもの』を口にしながら、「美咲ちゃんにも作ってあげて」、と注文した。
「はい、はい。わかってますよ」
壮介は背中を見せキッチンに入る。
――渚沙さんも、安雄さんも喜んでくれている。南海子ありがとう。
(そうみたいね。よかったわ)
壮介は『夢見たもの』を両手に持って現れた。
美咲は嬉しそうにほほ笑むと、コリッタチーズのパンケーキにナイフを入れた。
「蜂蜜の甘さとチーズの滑らかさ、それに優しい香りが素敵。美味しいぃ~」
「ところでマスターはさっきの話、お金とひとを感動させる、どない思います」


「う~ん、もちろんどちらも大切なんでしょうけどね。ぼくは、お金が一番と言わると、ちょっと違うかなあと。やはり感動して、喜んでもらいたいですね」
「壮さんもひとに感動を届けたいのよね」
 やっぱりそうだよね、と言うと、渚沙は勝ち誇ったようににんまりとした。
「ぼくはスイーツ作りの職人を目指しています。見た目は悪いですし、いまだに満足のいくものはできていません。道(みち)半(なか)ばです。ひょっとしたらぼくには一流のパテシエのような見た目にも素晴らしい、あか抜けしたスイーツを作る才能がないのかもしれません。でも、自分なりに考えて、食べてくれるひとへ想いを馳せる。その心で自分のスイーツを表現できないかと思っています」


 壮介の話を聞いている三人は、壮介のスイーツを食べながら小さくうなずいている。
「とにかく毎日スイーツを作り続ける。そういう意味では渚沙さんと同じです。でもぼくはたったひとりの、そのひとのために材料を吟味し、食べてくれるひとの体調や心のありようはどうだろうかと考え、想いを込めてスイーツを作ります。そのひとだけのスイーツです。だからひとり一品なんです」
 壮介は思わず熱く語ってしまい恥ずかしくなったが、それは今まで心の奥深くに秘めていた想いでもあった。
 う~ん、と安雄は唸った。


「ひとり一品か。それじゃあ、手間ばっかりかかって、さっぱり儲かりまへんな」
 そう言うと、ははは、と声を出して笑った。
「ええ、まったく儲かりまへんわ」
 壮介はにわか関西弁で応じ、ハハハと笑った。
 渚沙はふたりのやり取りを聞いていると、先程までのモヤモヤした気持ちもどこかへ吹き飛んで行くようだった。そして、安雄に問いかけた。
「安雄さんの夢見たものって、どういうものだったの」
「ワテの夢だすか……。なんやったんやろなぁ」
安雄は遠い過去に目を向けた。


「ゲーム会社を興したけど、それは儲かりそうやし、金持ちになれると聞いたからや。ただそれだけやったと思う。夢とは違う。そのあと、世界中を巡っていろんな事したけど、それも早いはなし、金儲けのためやった。インドでやったNPOの仕事も自分の夢をかなえるちゅうのとはちょっと違うような気がする。振り返ってみたら、どれもこれもその場に流されただけやったんとちゃうやろか」
 安雄はそう話しながら『夢見たもの』をひと欠片も残さずきれいに平らげた。
「夢は見なきゃダメよ。それもちゃんとした夢を。その夢に向かってガンバル。そうすればきっとその先にいいことが待っている。あたしはそう信じてる……」
 渚沙は青臭いことを、安雄にというよりも、自分に言い聞かせるように言った。


 安雄は渚沙をちらりと見ると、前に向き直り訊いた。
「確かにそうなんやけど、どんな夢を見たらええんや。しょうもない夢ばっかり追いかけてきて、今のワテがあるような気がする。こんな夢やったら見ん方がよかったんとちゃうやろか。何がええ夢なんか、教えてくれへんか」
 それは……、と言いかけた渚沙だったが、自分も同じようなものだと自覚していた。夢だと思っている夢が自分にとって素晴らしい、正しい夢なのか、別にあるとしたら本当の夢は何なのか、どのような絵を描きたいのか、どんな画家になりたいのか、絵に何を求め、何を伝えたいのか、何もかもが闇(やみ)の中、目の前は真っ暗でまったく先が見えなくなっていた。


だから、渚沙は安雄の「夢見たもの」を聞いてみたかったのだ。それを知って、それをヒントに自分の夢を、自分が本当に描きたいもの、それを知りたかったのかもしれない。
 静かな沈黙がフロアに満ちていた。愛之助は美咲の膝の上で背中を撫でられ、気持ちよさそうに目を閉じ、ファロスのひとたちの話を聞いている。時たま耳だけがピクピクと動く。
 しばらくの沈黙のあと、壮介の口が開いた。
「夢ですよねぇ。安雄さんは企業家として成功したい。渚沙さんは画家として納得できる絵を描きたい、それが夢なんですよね。それがかなわないからなんとかしたいと悩み迷っている。でも、夢なんかなくても生きていけますよ」


「仮によ。仮にそうだとしても、あたしは、もっともっとひとに感動を与えられる絵を描きたい。だから、それが夢よ。それが達成されなければ、画家としての価値がないわ」
渚沙は言い切った。そして、美咲ちゃんと声をかけた。
「美咲ちゃんの夢は何なの」
 美咲は急に話の矛先を自分に向けられビックリした。しばらく考えたが、
「夢ですよねぇ……、特にないです」
小さな声で言葉を濁し、下を向いてしまった。
「確かに理想や夢は必要かもしれません。でも、いつも夢が必要で、それがうまく行くとは限らないし、返ってそれが心の大きな負担になるかもしれません。そんな時は夢や希望をちょっと忘れ、ゆっくり休んでいいんですよ。人生の中にはそんな時間があってもいいと思うのです」
 壮介は今の自分だって大きな夢があってこの店をやってるわけではない。自分のスイーツを食べ、心が癒され、美味しいと言ってくれるひとがいるならば、それだけで充分だった。


「そういえば、ワテらの夢の話が出る前に、マスターはどうして『夢見たもの』なんていうスイーツを作ったんだすか」
 安雄は小首をかしげた。
「どうして、と言われても……」
壮介は言葉に詰まってしまった。キッチンで死んだ南海子のアドバイスを受けていたと話しても誰も信じてくれないだろう。
「た、大した根拠があるわけではないのです。安雄さんが店に入ってきたときの雰囲気というか、人生の戦いにひどく疲れているような、そんな気がして。それで甘くて切ない、そんな思いを込めて『夢見たもの』を作りました」


「ワテの姿を見て、蜂蜜の甘さとオレンジの甘酸っぱさでそれを表現した。これを食べて元気出さんかい、ということでっか」
「ええ、まあ、結果的にですけど、そういうことに……」
「なるほどねぇ。お客さんの顔や様子を見てねぇ……」
「もちろん注文をいただければそれをお作りするのですが、なければこちらで適当なものをお出しするようにしています。美味しいと喜んでいただけるとぼくも嬉しいですしね」


「マスターはまるでひとの心が読めるようですなあ。お客さんの心を元気にするスイーツを作る。それが夢、そういうことでっか」
「いやぁ、それが夢かどうか。ぼくの作ったスイーツでお客さまの心が少しでも癒されるなら本望です」
「客の心を癒す……か。薬やのうてスイーツで。それって……、なんかええなぁ」
 安雄は心の底からそう思った。


「美味しい食事は、体を育て、筋肉に活力を与え元気にします。スイーツは疲れたひとの心を癒し、心を元気にする力があると思います。ぼくはそういうスイーツを皆さんに提供したい、そう思っているだけです」
 渚沙は壮介が作るいろんなスイーツをいくつも食べてきた。今までこれという注文をしなかった。それでもこちらの意をくんだ、工夫されたスイーツが出てくる。それだけで温かい気持ちになれる。
 渚沙は、壮介の想いに気づくと鼻の奥がツンと疼(うず)いた。


 安雄は腕を組み黙り込んだままだ。
――ワテはこれまで自分の心の赴(おもむ)くままに、その場その場でやってきた。壮さんのように深く他所(よそ)のひとのことを考えたこともない。先ずは自分が最優先で、儲けて金持ちになることが一番やった。それだけでは何かが足らなんだんやなあ。せやからあかんかったんかも知れんなあ。そんなことも気ぃ付かんと、ほんまにあほやなあ、ワテは。


 やがて安雄は腕をほどくと顔を上げ、そしてゆっくりと立ち上がった。
「なんぼ考えてもようわからんわ。今日はこの辺にして、明日また考えるわ。みなさん、ほんまにおおきに。生きとったら、また、寄せてもらいます。ええですか……」
「ええ、もちろんです。お待ちしています」
 安雄は、生きてたらなんて、冗談とも本気ともつかない言葉を残し、幾分赤みのさした顔で出て行った。
 そのうしろ姿を、愛之助はくりくりした目で見送っていた。


   『夢見たもの』
  ある時はホイップクリームのように
  ある時はマシュマロのように
  ある時はお餅のように
  また、ある時はかき氷のように
  そして、ある時はブランデーのように
  それが、人生なのだろう
                 宇美
                       つづく

【誕生と永遠】予告
 美咲はどこで何をしているのか、ようとしてわからず、渚沙は、自分は何が描いたのか迷の中に漂ったままだった。そんなとき、年齢は四十過ぎの専業主婦といった感じ女が、雨宿りに入ってきた。

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