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ファロスの見える店          底知れぬ恨み その1

【これまでの経緯】
 左内は渚沙の絵を見、壮介と話をするうちに大学進学やめ、放浪の旅に出ると言い始めた。一方の渚沙は暗い闇に沈んだままだった。


 ケーキの表面にはビターの生チョコがかけられ、その上に黄色い練り切りの玉が載っている。黄色と茶色と土色。コントラストが素晴らしい。フィナンシェをつまみ、口の中に運ぶ。しっとりとした生地が口の中でとろりと溶けていく。カカオの香りが鼻の奥にふわりと届く。口の中のすべての物が蕩(とろ)けていくような、この魅惑的で艶めかしい感じがなんとも言えない。そして、その後をかすかにブランデーの芳香が追いかけてくる。


――あぁー、この口当たりの滑らかさと柔らかさ。赤ちゃんの唇みたい。そして、苦味と甘み。大人の味ね。これこそが壮介の作るスイーツだ。あたしの心の奥の闇を、壮介のフィナンシェがとろとろと溶かしていく……。
渚沙は口を開いた。


「美大を出たあと、いろんなことがあって、それで絵の修行をするためにアメリカに留学したの。そこで最先端の画法や技術を学んだ。そのあと、フランスにも行き、時間ができると美術館で有名な画家の絵を模写するようになって、腕を磨いた。アメリカやフランスの先生にも素晴らしいって褒めていただいて、天にも昇る気持ちだった」
「渚沙さんの前途は洋々と開けていた……」
 渚沙は、そうじゃない、と首を左右に強く振った。


「あたし、気が付いた時には、完璧な贋作者(がんさくしゃ)になっていた。自分の絵が描けない、模写しかできない画家になっていた。自分は何者なのか、何が描きたかったのかさえもわからなくなり、画板と絵具箱を持って飛び出したの」
「だから、画商からは渚沙さんの絵では売れない、と言われたわけですね」
 渚沙はそうなの、と肩を落とした。


「それからは行く当てもなく、夢遊病者のようにふらふらと放浪して、もう何年になるのかしら、気が付いたらこの家の前に立っていた。そして、壮さんの作るスイーツを食べて心が温かくなって、張り詰めていた気持ちが楽になったような気がして、ここだったらあたしの絵が描けるかもしれない、今がチャンスだ! って。次の日、期待半分、不安半分で画布に向かったけど、結果は同じだった。何も思い浮かばなかった。頭の中はぽっかりと穴が開いたまま、描けるなんて、とんでもない錯覚だった。でもそのあと、壮さんの作ったスイーツを食べると、また、ワクワクして自分の絵が描けるような気がして、キャンバスに向かったけど結果は同じ。次の日も、その次の日も同じことの繰り返し。今のあたしの答えがさっきの絵よ」


 渚沙は壮介の目をまっすぐに見つめていた。
「ぼくは、最初見たとき、これってどうなのと思いました。でも、いま渚沙さんの話を聞いてもう一度見ると、うまく言葉にできないけれど、渚沙さんのいまの気持ちが表現できていて、いいんじゃないかなって。色の重なりと広がり……。そう、もやもやとした気持ち、渾沌(こんとん)とした心かもしれません。それを表現しようとする渚沙さんの苦悩が伝わってきます。それに、そんな殻を破ろうとするエネルギーみたいなものを感じます。その混沌の先から何かが生まれ出ようとする胎動かもしれません。う~ん、そうじゃないか」
壮介は、やっぱりうまく言葉にできません、と謝った。


「壮さんはそんなふうに思ってくれるんだ。ありがとう。少し、勇気が出てきたよ。この庭から見える風景と壮さんのスイーツがあたしを変えてくれる。だから……、もう少しここにいさせて」
 壮介は渚沙を見つめ、黙ってうなずいた。

 グァー、グァー、グァー。
夕焼け空にしゃがれたカラスの鳴き声が不気味に響く。この辺りはめったにカラスの鳴き声を聞くことはなかったのだが。そんな不吉な鳴き声に、渚沙はキャンバスと絵具箱を抱え庭から戻ってきた。
「あーイヤだ。カラス、嫌いなんだ。気味悪いじゃない。何も起きなきゃいいんだけど」
「渚沙さんはそんな迷信みたいなことを信じているんですか」
 壮介はにやにやしながらグラスを磨いている。


「そうじゃないけど、真っ黒な体と、太い嘴(くちばし)、ひとをひととも思わない、あの目つきがイヤなのよ。それにさっきのカラスの鳴き声聞いた、カーじゃないよ。グァーって、気持ち悪いじゃない」
 渚沙は両手で体を抱きしめると、ああ、いやだ、と身震いした。
「要するにカラスのすべてが嫌いってことですよね」
「そう言う、壮さんはどうなのよ」
「ぼくもぜんぜん好きじゃないです」
「なによ、それ。あたしと一緒じゃない」
渚沙は頬をプッと膨らませた。


その時、ドアベルがチリーン、チリーンと仏壇の前に置かれたリンのような音を響かせ、ドアがスーッと開くと、冷たい風が忍び込んできた。そこに青白い顔をした森崎陶子が立っていた。
渚沙は、きゃっ、と悲鳴が出そうになった。
「いらっしゃいませ」
壮介が応じた。
陶子は真ん中のスツールに腰を下ろしたが、魂が抜け落ち、顔に精気というものが感じられない。陶子の眼窩(がんか)は暗い闇を穿(うが)ったように落ちくぼんでいる。


壮介は薫り高いほうじ茶を肉厚の湯飲み茶碗に淹れ、陶子と渚沙の前にそっと置いた。
渚沙は陶器のお茶碗を手にするとふーっと息をかけ、ずずっと啜ったが、隣に座っている陶子の視線は定まらず、魂が抜けたようにぼーっとしたままだ。
壮介はそんな陶子に話しかけようともせず、時間だけが静かに流れていく。
陶子は、うな垂れるように肩を落とし座っていたが、突然大きな息をはーっと吐くと、誰かに話しかけるわけでもなく、ぽつぽつと独り言のように語り始めた。


「母が死んだわ。ひとが死ぬなんてあっけないものね。さっき病院に呼ばれて駆け付けたんだけど、間に合わなかった。すでに母は死んでいた。最後にお母さんにありがとうって、言おうと思っていたのに、ドラマのようにはいかないものね」
「それは残念でしたね。お母さんが亡くなられて、ご愁傷さまです。ご冥福をお祈りします」
「これから寂しくなるわね。気を落とさないようにね」
 壮介も渚沙も殊勝な心持ちで慰めた。
                           つづく

【底知れぬ恨み その2】予告
森崎陶子の母が死んだ。陶子は大きなショックを受けていたが、その怒りの矛先は夫へ、そして母へと向いていた。その原因は…。

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