画家の心 美の追求 第83回「長谷川等伯 松林図屏風 右隻 文禄2~4年(1593~95年頃」
長谷川等伯(はせがわとうはく)が描いた国宝、松林図屏風(しょうりんずびょうぶ)はわたしたちにとってとても大切な日本の宝だ。
この絵を図版や写真で見ただけなら白黒で空間だらけの退屈な絵にしか見えない。ところが実物を見ると誰もがこの絵の前から動けなくなる程の静寂という名の迫力がある。
ひやりとした空気感、霊を感じるという人もいる。
松と松の間に大きく広がった空間に薄墨でなぞられた松影がわずかに見え隠れしている。その効果なのだろうか、絵の中に吸い込まれるような無限の広がりを感じる。
この屏風は右隻(うせき)、左隻(させき)ともに1.6メートル×3.6メートルもあるとても大きなもので、もしこの屏風に囲まれたなら、早朝の山深い松林の中にぽつんとひとり佇んでいると錯覚するだろう。
それ程に鬼気迫るものがある。では長谷川等伯という画家はいつどのようにしてこの絵を描く技術を得、その境地に至ったのだろうか。
等伯は1539年、戦国時代真っただ中の現在の石川県七尾市に生まれ、幼いころ染物屋の長谷川宗清(むねきよ)の養子となる。宗清は雪舟(せっしゅう)の弟子の等春(とうしゅん)の門人として仏画を描いていた。等伯も養父や養祖父の指導を受け、出発は仏画を習い描いていた。
このころに描かれた仏画が石川、富山を中心に10数点残っており、その出来栄えは卓越していた。
1571年等伯33歳のころ、養父母が亡くなると京に上り、狩野派の金碧障壁画(こんぺきしょうへきが)を学んだり、堺の千利休や日通(にっつう)らと交流を持ち、中国(宋や元)絵画を学ぶ。特に水墨画家の牧谿(もっけい)を好み模写し、このころに独自の画法を確立したという。
1586年、時は織田信長や豊臣秀吉が活躍した安土桃山時代となり、48歳になった等伯は秀吉が造営した聚楽第の襖絵(ふすまえ)を狩野永徳とともに制作している。このとき等伯は秀吉から狩野派の頭首である永徳と同等の画力があると認められたことになる。狩野派から疎(うと)まれるほど等伯は勢いのある画家に成長していた。
その後、利休の口添えもあり、秀吉や他の有力大名から大きな仕事を受けるようになる。1591年には秀吉から知行200石を授かり、世に認められた大画家となる。
ところがその年利休が秀吉から切腹を命じられ、さらに2年後、画才に恵まれた跡継ぎと目された長男の久蔵(きゅうぞう、26歳)に先立たれるという不運が重なる。
自分の後ろ盾になっていた利休の死。さらには次の長谷川派を継ぐと目されていた最愛の息子久蔵の死。等伯は身も心もズタズタになっていたはず。こんな失意の時に描かれたのがこの「松林図屏風」という大作だ。
こんなどん底の中で本当にこの絵を等伯が描いたのだろうか。等伯ではないとしたらいったい誰なのだ。しかしこの絵は等伯が描いた本物、真作であると鑑定されている。
この矛盾を解くためには、ひょっとしてだが、今生に強い想いを残して死んだ久蔵の魂が等伯に乗り移り、父の手を借りて描いたのではないか。
そう考えると屛風の世界に吸い込まれるような、まるで霊に吸い寄せられるような冷やりとした空気感、そんなことができるのは死んだ久蔵だからこそではなかったのか。
そんなことを彷彿とさせる逸話が残っている。それは久蔵の画力はすでに父、等伯をしのぐと囁(ささや)かれ、それを等伯は目を細めて聞いていたのではないだろうか。
「松林図屛風」を描き終えた等伯は画家としての出世街道を真一文字に登り続ける。大寺院の障壁画を描いた功績により、1604年法橋(ほうきょう)に、1605年法眼(ほうがん)に叙せられる。そして、本法寺に多くの寄進を行い、大壇越(だいだんえつ)になり、単なる町絵師でではなく、町衆(まちしゅう)として京都の有力者のひとりになる。
出世街道まっしぐらの等伯であったが、世は京大阪から徳川家康のいる江戸へと権力構造も経済も移っていく。そして家康に請われて次男の宗宅(そうたく)を伴い江戸に向かうが、到着すると病を得、そのまま帰らぬ人となった。享年71歳の人生だった。
その後の長谷川派だが徐々に勢力をなくし、やがて消えてなくなった。その一方で等伯が強く意識した狩野派は江戸末期まで続き、その画法は現代日本絵画にも引き継がれ生かされている。