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去年の8月5日の話

1回忌なので、祖父とのお別れの話を書いてみる。
人の死をコンテンツ化するような後ろめたさはあるけれど、私なりの追悼の意を表すことが本懐である。ついでに、祖父が以前私に伝記を書いてくれなんて頼んできたことがあったので、祖父自身の話もしようと思う。

2020年8月5日午前2時半、祖父が亡くなった。享年はおよそ90歳。
私と70歳差かなにかだったと思う。これからその差は一方的に縮まっていくことになる。


祖父がもうすぐ亡くなりそうだという話を、以前書いた。そちらを読んでくれた方もいるかと思う。危篤になる前に祖父に会えたのは6月頭の満月の日のことで、奇しくも最期のお別れとして私が会ったのは8月3日の満月の夜だった。

2020年6月に祖父はまだ自宅にいたのだが、肺炎が悪化し入院することになった。祖母曰く、入院当初のレントゲンにはまだ白いところの残っていた肺が、死ぬ間際には真っ黒になっていたそうだ。

コロナウイルスの影響で、病院に入ってしまえば滅多に面会ができなくなる。祖父も肺炎を患っていたので、PCR検査を受けたらしい。結果は陰性だったが、あの弱った体に検査器具を入れられる祖父を想像すると辛かった。面会は感染症対策のために繰り返し謝絶されていた。祖父がこのまま二度と誰にも会うこともなく病床で一人息絶えて、もしかしたら仏様を一目見ることすら叶わないかもしれないと思った。そうなったら祖母は「入院させる」という判断をしたことで自分をどんなに責めるだろうかと心配であった。コロナウイルスの悲しさがこんなところまで浸食していたことを知ってやるせなさがこみ上げ、恨みがましい気持ちにすらなった。

そんなことがあり、2ヶ月も会うまでに時間が空いてしまった。けれど8月3日になって、おそらくお迎えが近いと判断されたのであろう、病院の方がようやく面会を許してくれた。
祖母と母の姉・弟にあたる叔父叔母(長女次女長男の三兄弟である)は昼過ぎに会ってきたようであったが、私と母は18時すぎから会いに行った。

2ヶ月ぶりに見た祖父は、ずいぶん小さくなっていた。以前見たときでさえ、いや、物心ついた時から祖父は縮み続けているのだが、まだここまで小さくなれたのかと思った。薄っぺらくなってベッドの中に沈み込んでいた。布団の中で手は拘束されて、末端がパンパンに浮腫んでいた。触れると水が溜まっているのが分かり、ひどく冷たくて水風船のようであった。こんな様子でもまだ立ち上がろうとしたらしく、そのとき転んだ傷の内出血が顔の右上部に広がっていて痛々しかった。

もう意識が途切れ途切れのようで、私たちが来たよと声をかけると、わかったのか目を開いてうんうんと頷いた。何か喋ろうとしていたようだけど、「もう喋れない」と伝えるように首を横に振っていた。祖父はもう入れ歯も外し、濃いめの酸素を吸入していた。口の中が乾いて痛そうだったけれど、湿らせるために呼吸器を外すのももう、あまり良くないのだろう。

祖父は声をかけると目を開けて反応してくれるが、あっという間に意識が微睡に引き摺り込まれているらしかった。祖父は寝る時も目を開けたままのことが多いので、寝ているのか起きているのかわからなかったけれど、意識がある様子の時はきちんと焦点の合った目でキョロキョロ何かを見たり私たちの顔をじっと見たりしていた。本当に私たちのことを見ているのかはわからなかったけれど、何か良い夢や花畑なんかを見ているなら幸いだと思った。

母が「こんなに年老いているけど、まだ髪の毛は黒い毛の方が多いのが不思議やな」と言っていた。確かに、白髪になりきるよりも先に体が老いるなんて、なんだか変だなと思った。自分の体を見下ろすとまだまだ若くて健康な体があって、隣には母の更年期の体があって、目の前には祖父の体が、人間の終着点として横たわっている。それも変だった。自分がまだ若いということを、こんな機会に痛烈に感じた。

祖父の体は、空気の擦れる音を立てながら上下し、息を吸い込んでいた。感覚は深くて、だけれど取り込む空気の量が少なくて浅い、奇妙な呼吸だった。

息を吐き切って、次の息を吸うまでに一瞬の間があるのだ。
その、呼吸が止まる一瞬が堪らなかった。

息をする度、それが最後の呼吸になるかもしれなかった。もう次は吸わないのではないか、このまま止まってしまうのではないかと、祖父が息を止める一瞬が来るたびに巡った。“永遠のように感じられる一瞬“の意味を、静かな病室の中で知った。

祖父が亡くなるということを実感して、その瞬間悲しみが押し寄せた。
祖父の額に手を当てて、「ありがとうね、おやすみ」と伝えた。マスクは本当は外してはいけなかったけれど、最後に見る孫や娘の顔がマスクのせいで半分だなんて最低だろうと思ったので、少しずらして笑えるようにした。最手を握ったら、意識もないようなのに祖父が意外と強い力でぎゅっと握り返してくれてびっくりした。母は「お父さん、今までありがとうございました」と言いながら涙ぐんでいた。母は結構ドライなところがあるから泣かないかと思っていたので少し意外だった。

名残惜しかったが、いつかは止まってしまう呼吸が、本当に止まってしまうまでこの部屋の中で待ち続けることは耐えられないと思った。だから祖父がまた微睡に落ちていったのを確認してから病室を離れて、それが最期のお別れだった。

ここで祖父の人生の話をしておこうと思う。高校2、3年生の夏に聞いた気がする。ケータイに、簡単なメモが残っていた。祖父に書けと言われたまま書く。特に裏を取ったりはしていない。

祖父は静岡で生まれた。
祖父には一つ上の兄がいて、彼は一平?という天ぷら屋さんの養子になったそうで、苗字が違う。祖父より少し前の年に亡くなった。
妹もいたが、小学6年生の時に身体障害が原因で夭逝したという。
父の近蔵は、満州の奉天のホテルの料理長だったらしい。時代を感じる。けれどこの人はまぁあまり真面目に働かないところがあったので、死別か離婚かしたらしい。
母の名前はせきといい、老いてからは杖をついているためにうちでは「とんとんばーば」と呼ばれていて、この人も90過ぎまで生きていた。わずかに覚えているけれど、私が5歳ほどの時に亡くなったのでほとんど記憶はない。

戦時だったので、祖父は意気揚々と陸軍と海軍の入隊試験を両方受けたらしいが、どちらも不合格であったらしい。そして静岡第一中学校に通うことになったが途中で満州の大連へ渡ったそうだ。そして、満州医科大学に合格したらしいが(これがどのくらいすごいのかはよくわからないが自慢げに言っていた)入学前に戦争が終わり、大学も閉鎖?かなにかになって引き上げることになったらしい。満洲で出会った友人が原田さんと仲間さんで、晩年まで交友があったそうだ。
こんな人の名前まで、書いておけと言われたのでメモに残っている。

そして、京都府立第2中学校で秋から春までという短い間を過ごし、祖父は九州大学へ行った。この頃の旧帝大なのだから、えらい。しかし大変な苦学生だったようで、生活費稼ぎでアルバイト漬けの日々だったそうだ。駅前で食パンを売り、建設系の力仕事もしたらしい。食パンのバイトは、パンの耳がもらえて良かったと言っていた。寝る場所がない日なんかもあったらしく、同郷の先輩のお世話になったり、郵便局や駅のホームの椅子で段ボールをかぶって寝ることもあったそうだ。両親が仕送りをする余裕などがなかったらしく、自分で生活費と学費を稼ぐ日々だったらしい。

祖父がこの日々のことを「灰色」と形容していた。
楽しい大学生活ではなかったのだろうが、勉学への志の高い人であった。
どこまでの階級だったかよく知らないが、祖父は書道の達人であって、師範格も持っていた。昔は教室なども開いていたそうだ。私は残念ながらあまり上達することがなかったけれど、小学生の時などは毎週教えてもらったりした時期もあった。その時に、少し書いては別の半紙にまた練習をする私を見て、祖父は「満洲にいた時は、紙がもったいなかったから、一枚の半紙が真っ黒になるまで使っていた」と言っていた。
墨を吸いきった半紙なんてとても書きにくいのだが、そういう時代にあって祖父の志を感じられる話で、聞いたのなんて10年以上も前なのによく覚えている。

3年で大学を卒業したあと、東京のキヨスクで働いたそうだ。この頃のキヨスクがどれだけの職業だったのかわからないが、当時の九州大を卒業してキヨスク?とは思った。というか、キヨスクってその時からあったんだな。調べてみたら、キヨスクは「清く」「気安く」の意味から名付けられたらしい。祖父の名前は潔(きよし)だったから、なにか縁があったのかもしれないな。

しかし色々あって京都の母のもとに戻ったらしい。そして教員試験を受けて採用され、淡路島の由良というところで、一年だけという約束で数学教師になったそうだ。その時、知り合いづてに祖母とお見合いをし、結婚した。祖母はその当時の女性としては、特に淡路では珍しく高等学校に通っていて背も高く、「頭がいい女性って聞いて紹介されたけれどなぁ」と祖父は言っていた。確かに祖母はかなり大雑把であるが、朗らかで記憶力もかなり良い。もう80なのに、昔のことは私や母よりよく覚えていることがある。

そして二人で宝塚の逆瀬川のあたりに下宿をしたらしい。家賃が安く、管理人の人がご飯も用意してくれたらしい。しかし毎食焼魚が出て、その食べ過ぎで祖父は病気にもなったそうだ。そして、しばらく子どもができなかったが、2、3年して立て続けに叔母、母、叔父が生まれたそうである。ここまでが祖父に聞いた話だ。

私の記憶の祖父は、昔はかなり厳しかった。けれど母曰く、それでも柔らかくなっていた方らしい。祖父がまだ70代の時は、毎日ラジオ体操と乾布摩擦をして、ボケ防止のトレーニング本実践に勤しみ、畑を耕し庭をいじり、習字をしていた。規則正しさを絵に描いたような人で、私たち孫にも、ペットの犬にも厳しかった。行儀が悪いと怒られた記憶もある。食事は必ず家族全員が席についてからでないと、食べることは許さなかった。習字の時に、いやいやと言っていると叱られた。けれど、書き順や筆の押さえ方、はらい方、止め方なんかを教えるために手を持って、力の入れ方を教えてくれた。祖父が一緒に書いてくれるとやはり綺麗になったけれど、自分でやるとてんでダメで、私は面白くないので飽きてしまった。習字をきちんとやっておけば良かったと思い始めたのは、結局最近になってのことだ。けれどその時にはもう祖父は筆を持つ手が震えるようになっていた。
「ここで筆をこの方向に動かし、このバランスで、この力加減で」という完璧なイメージが祖父の頭の中にはあっただろうが、それがなかなかうまく出力されずに、何度も書き損じては新しい半紙に写経していた晩年の姿が思い出される。

祖父が亡くなる日の深夜2時15分。叔母から電話がかかってきた。
少し前からその日が最期だと思うと病院の人から伝えられていたから、普段は早寝の母は起きていた。母は急いで着替えて出掛けていった。
私も看取りにいくかと聞かれたが、行かなかった。
きちんとするべき挨拶はできたと思っていたし、孫である私が行ってしまうと母と叔母叔父はきっと娘と息子の顔ができなくなるかもしれないと思ったからだ。
そのまま、2時30分頃に祖父は息を引き取ったらしい。

聞いた話だが、口が少し開いた祖父の亡骸に祖母が一生懸命入れ歯を入れてあげようとしたりと色々あったらしいが、とにかくすぐには火葬場が空いていないということでしばらく祖母の家に置いておくことになった。
ずっと祖父が寝ていた部屋の冷房を極限まで下げて、ドライアイスなんかもめいいっぱい詰めてとにかく冷やしていたら、祖父の耳には氷柱が下がっていたそうで、祖母はそんなことも笑い話にしていた。

数日後にお葬式をした。
感染症拡大下だから、ということで葬儀は家族だけの内々のものだった。
祖父の最後の顔はなんだか妙に水分が抜けて蝋人形のようになっていて、ツヤツヤしていた。そんな祖父の周りに書道の筆を一本、祖父が愛用していた毛糸の帽子を一つ、そしていっぱいの花を置いて、火葬した。
これまでほとんど涙を流していなかった祖母は少しだけ泣いていたけれど、悲しい葬儀ではなかった。火葬の後はみんなで中華を食べにいくことになっていたし。

最後の最後、祖父の人生のオチは、お坊さんが持ってきてくださった戒名の字がお世辞にも上手とは言えなかったことだ。祖父が見たらきっとたくさん朱色を入れるね、と言いながらみんなで笑って中華を食べに行った。入道雲の高い夏のことであった。

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ハナ
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