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まだ死んでないけど

ちょっと真面目(?)なエッセイ、備忘録

六月四日の夜のことである。母方の祖父が数時間目を覚さないのだと祖母から連絡があり、いよいよ危篤かと母妹共々覚悟した。元々祖父は自分はもうすぐ死ぬのだと何年も前から主張しており、いわゆる終活はとうの昔に終えている。私が留学に行く前も今生の別れだと手を握ってお礼の挨拶は済ませた。

この関連で一等面白いのは、祖父が「もう今月いっぱいの命だ」と常のように言ったところ、祖母が「そんなこと言ったって、もう今月もあと三日で終わるけど」と返し、「そうか、じゃあ、来月いっぱいだ」と命の契約期間をケータイみたいにあっさり更新してしまった話である。

こんなのだから親戚の中では祖父の「死ぬ死ぬ詐欺」だなんて不謹慎な呼び方をしていて、面白がる傍ら本気で覚悟もしているのである。
だが昼寝から目が覚めないことは初めてで、この晩は峠かと思われた。結局意識は戻ったが三十八度の熱が出ており、今すぐ押しかけるのは迷惑だが明日は会いに行こうと話がまとまった。

六月五日。祖父母の家は車で三十分ほどのところにあり、自転車でいけないこともないが多少不便な距離である。それでも随分近くに暮らしているほうであることには間違いない。
到着すると、家の前の畑で祖母が胡瓜にじょうろで水をあげながら「いらっしゃいませ」と出迎えてくれた。随分呑気なものだと少し安心しながら、「三人です」と言って家に上がった。
玄関をあがった向かいにある、ガラス戸が庭に大きく面した部屋のベッドで祖父は体を小さく丸めるように寝ていた。部屋の時計はケータイの電波時計より5分遅れていた。瞼は完全に閉じてはいなくて、呼吸音が聞こえるので生きているのだと分かった。老人の水分が抜けた肌はやけにツルツルしていて、むしろ健康にさえ見えた。

しばらくすると祖父が目を覚ましたので、アイスコーヒーを片手にベッドの周りで皆で話をした。以前祖父が脳の手術をした際に、ふわふわ夢を見ていて、妖怪がやってきただの曽祖母が立っているだの言っていたので、今回もまた夢を見たのかと母が聞いた。いろんな顔が出てくるそうだ。私たち孫の顔、母や叔母の顔、曽祖父母、昨年亡くなった祖父の兄。だけれどトラブルがあって数年顔を合わせていない親戚や祖父がまた子どもの時に亡くなった妹などは、「顔を見せてくれない」らしい。人々が訪れる夢は懐かしいという気持ちとは少し違うのだという。自分の体が自分のものではないようで、曖昧だとも言っていた。

祖父はなんやかんや朝も昼もご飯を食べたらしいが、晩ご飯にお腹が空いていないと言うだけで祖母が「それでもなんか食べたほうがいい」というのだ。そもそも母が止めなければ祖母は夕飯にローストビーフを作るつもりだったらしい。祖父が肉を食べたがっているし、元気がつくからと。起き抜けに生肉なんてかえって毒に決まっているのだが、これも気の抜ける話である。祖父も祖父で、寿司が食べたいとまだ言う。しかしこの日はやはり空腹ではなくて、食べなくていいと何度も言っていたのに、祖母が林檎の擦り下ろしを持ってきた。それもいらないと言うのにスプーンで口に無理やり運び、祖父もそうなると大人しく口を開けるのである。咀嚼して、大仰に「冷たくて甘いなぁ」というのがおかしかった。

母がおもむろに、「人間は枯れるように死ぬのが一番楽で良いらしい」と言った。食べるものや飲むものを受け取らず、生命のエネルギーを少しずつ枯らすように静かに。お腹が空かないのがその死に向けての準備であるならば。なんとなく先ほど畑で水をやっていた祖母の姿が思い出された。

庭に面した部屋には縁側があり、それを覆うように毎年朝顔のツルが伸ばされている。根元の方にいくつか白い朝顔が咲いており、夕顔でもないのにこんな時間に咲くのだと祖父が言った。庭にはヤブ蚊が沢山おり、なぜかこの家のヤブ蚊の痒さは強力なのである。私はくるぶしを刺されて、キンカンをぬった。

そろそろお暇しようかということになって、祖父と握手とハイタッチをした。祖父は皮膚が弱くなっていて、あまり力を入れると皮が剥けてしまう。最近は転んでよく怪我をしている。だが手を握る力は意外とまだ強かった。ありがとう、また来るからお元気でと言って帰った。

もう七時を過ぎていたのだが、外はまだ薄く青紫がかった程度の暗さであった。空には薄雲がかかっており、ぼやけた月が大きく赤っぽかった。そういえばストロベリームーンの夜である。祖母が足元をさして、「この黄色い花が月見草っていって、夜にしか咲かへんねん」と教えてくれた。月見草というものを見たのは初めてであった気がする。

帰り道、フロントガラスの右側に月が見えていた。そういえば祖父は昔中学校の教師で、頭は禿げていて薄く髪が残る程度だったのだが、その時に生徒につけられたあだ名が朧月であったそうだ。昭和の風雅なあだ名である。センスが良い。そんな締めくくりであった。

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