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【小説】あなたの人生に幸多からん事を 四歳六か月


「何? 結局、お母さんが行くの?」 
 玄関で靴を履いている美和子に、居間から出てきた娘の弥生が言った。 
 大学から東京に出た弥生は、そのまま就職して都内で一人暮らしをしている。 
 週末、高校の同級生の結婚式があるというので、久しぶりに帰郷していた。 
「仕方ないじゃない。あんたに頼めないでしょ?」 
 美和子が靴紐を結びながらそう言うと、「うーん、お父さんの指定ルート、私、わからないからなぁ」と弥生が返す。 
 その弥生を、美和子の足元に寝そべるマロンが、興味なさそうに目だけ動かして見ている。 
 マロンは、今年で十一歳になる茶色の雑種犬だ。 
 弥生の兄の清治が中学生の時にいずこかで拾ってきて、そのまま飼うことになった。 
 清治が「俺が面倒見る」と言ったが、ご他聞に漏れず、数ヶ月後には美和子がマロンの面倒すべてをみることになった。 
 その清治も今は仕事で九州にいて、盆暮れにしか帰ってこない。 
 小さかったマロンだが、成長とともにぐんぐん大きくなり、柴犬よりも少し大きいくらいのサイズまで成長した。 
 少し毛の長い丸々とした体躯が愛らしくおとなしい性格で、散歩中に力にまかせて引っ張ることもなく淡々と歩く、手のかからない犬だ。 
 長い間美和子がやってきたその散歩も、昨年、夫の清二が定年を迎えてからは、清二がやるようになった。 
 最初は面倒くさそうだった清二も、少しずつ散歩を楽しむようになり、今は毎朝マロンといっしょに出かけていくようになっていた。 
 靴を履いた美和子が立ち上がると、「まだ早い! 五十分に、セントメリーの正門だぞ! まだ早い!」と、奥の座敷から清二の大声が響いた。 
 思わず、美和子と弥生が目をあわせる。 
「そこまで言うなら、自分で行けって」 
 弥生が言うと、「仕方ないわよ、ぎっくり腰だもの。無理無理」と美和子は笑う。 
「何? なんでお父さん、そんなに時間とかルートにこだわるの? どうでもいいじゃん、そんなの」 
 そう言った弥生に、美和子が「待ってる子がいるのよ」と言った。 
「待ってる子?」 
「そう、マロンのこと、待ってる子がいるの」 
 ね、マロン? と美和子が言うと、マロンがひょんと首をあげた。 
「セントメリーって、あれだよね。孤児院……そこの子?」 
「そう。いった君っていう子なの」 
 
 ある日、朝の散歩から帰ってきた清二は、珍しく無口だった。 
 何かあったの? と尋ねた美和子に、清二が新聞を広げながら、「セントメリー、わかるだろ? あそこの子がさ、待ってたんだよ、マロンのこと」と言ってから少し間をあけて、「毎朝待ってたんだ」と、ぼそりと言った。 
 セントメリーは、家から少し離れた所にある児童養護施設だが、清二が散歩にいく早朝の時間、門は閉じられている。 
 そこに毎朝、両手で門の柵の棒を握り締めて立っている小さな男の子がいることに気がついたのは、冬の寒い朝だった。 
 男の子は、小さな口から白い息を吐きながら、じっとマロンのことを見ていた。 
 そのまま通り過ぎた清二は、その男の子が、次の日も、次の日も、そのまた次の日も、同じようにそこに立って、マロンをみている事に気づいた。 
 そして、霜がおりて凍るように寒い朝、マロンを伴ってその男の子に近づいた。 
「犬、好きかい?」 
 男の子は両手で門の棒を握り締めたまま、こくんとうなずいた。 
 ダウンは着ているが、その手は素で、寒さの中、鉄の門柱を握り締めていたためか、赤くなっている。 
 見れば、少し鼻水も出てきているようで、男の子はぴすぴすと子犬のように鼻を鳴らしていた。 
「寒いだろう?」 
 再び清二が尋ねると、男の子は少し間をおいてから、首を横に振った。 
 その目はずっとマロンに注がれている。 
「触っても大丈夫だよ。大人しいから」 
 そう言われても、男の子は真っ赤になった両手を門柱から離さず、白い息を吐きながらマロンを見るだけだった。 
 少しして、男の子はずずっと鼻をすすった。 
「歳はいくつだい?」 
 そう言いながら清二が腰をかがめて、男の子と同じくらいの高さになると、男の子は清二の顔の前に、小さな指を四本出した。 
「そうか、四歳かい」 
 こくんと、男の子はうなずいて、また鼻をすすった。 
 骨太でずんぐりとした子供だ。ぱっちりとした小さな目が印象的で、丸い顔にそのふたつの瞳がきらきらと輝いている。 
「名前はなんていうんだい?」 
 男の子はしばらくの間、白い息を吐きながら清二の顔を見つめた。 
 口の重い子供なんだろう。 
 そう思って、清二は男の子が口を開くのを静かに待った。 
「……」 
 掠れた小さな声で、男の子が何かを言った。 
「ん?」と清二が聞き返すと、男の子はまた音をたてて鼻をすすってから、もう一度口開き、小さな声で「いった」と言った。 
「いった君かい?」 
 男の子はうなずく。 
「そうかい、いった君かい」 
 清二はそう言うと、マロンをいったに近づけた。 
 マロンは鼻をいったのダウンに近づけると、ふんふん音をたてながら匂いをかぐ。 
 それでもいったは、門柱から手を離さなかった。 
「なでてごらん」 
 視線をマロンに向けたまま、いったは動かない。 
「大丈夫だよ。いった君がなでたら、喜ぶよ」 
 その言葉に、一瞬清二の顔を見たいったは、小さな手を門柱から離し、ゆっくりとマロンに手を伸ばした。 
 マロンはその赤い小さな手の匂いを少しだけかぐと、そのままぺろぺろと舐めだす。 
 その瞬間、いったがぱぁっと笑顔を浮かべた。 
 それは、春の日差しが差し込んだかのように、暖かく、無邪気で、子供らしい笑顔だった。 
 それを見た瞬間、清二は内からこみあげてくるものを押さえきれず、唇を噛みしめた。
 もっと早く声をかけてやればよかった。 
 そう思った。 
 尻尾を振りながら自分の手を舐めるマロンを、いったは声もたてずに笑ってみている。 
「いった君、毎日、マロン見てただろう?」 
 その言葉に、いったの笑顔は消え、一瞬怯えたような表情を浮かべた。 
 清二はその顔をのぞきこむようにしてみて、精一杯笑ってみせた。 
「おじさん、毎朝、マロンの散歩してるんだ。明日から毎日ここに寄るから、マロン、なでてやって」 
 その言葉に、いったは白い小さな歯を見せながら、笑顔で大きくうなずいた。 
 
「なんでそういう、出来もしない約束、子供とするかな。毎日って、台風の日とかだってあるじゃん」 
 弥生の言葉に、「だからお父さん、どんな日もマロン連れて、散歩いったわよ」と美和子が返す。 
 雨の日も風の日も、体調が悪くても、清二はマロンを連れて、決まった時間にでかけた。 
 台風直撃の朝、さすがに美和子も止めたが、「いった君がいたらどうするんだ」と無理やり出かけようとした清二に、「こんな日に四歳の子供を外に出すようなこと、あそこの先生たちがするわけないでしょ!」と怒鳴り、結局、セントメリーに電話をいれることで落ち着いた。 
 電話に出たのは年配の女性で、美和子に何度も何度も礼を言った。 
「表に出るといって聞かないので、私たちも困っていたところでした。普段は口数の少ない、ほとんど自己主張しない静かな子ですが、最近は、毎朝わんちゃんのことを私たちに報告しにくるようになっていました」 
 ぎっくり腰になった瞬間、清二は激痛でひっくり返りながら、「散歩は絶対にいくぞ」と叫んだが、布団から一歩も動けないのではどうしようもない。 
 時計を見て、美和子はマロンの首に縄をつけ、「さぁ、時間よ」と言うと、マロンはのそりと立ち上がった。 
  
 公園を抜けると、大きな木が並ぶ道路に出る。 その先に、セントメリー養護園の大きな門がある。 
 門が見えたところで、いつももっそりとしてるマロンが、いきなりぴんと尻尾をたて、目線を門の方に向けて立ち止まった。 
 そのマロンを見て、「いった君いる?」と言うと、マロンは目を門に向けたまま、わん! と一声吠えた。 
 決してマメではない夫の清二が、何があろうともマロンを見せようと毎朝決まった時間に会っていた子供。 
 暑い日も寒い日も、雨の日も風の日も、門にしがみつくようにしてマロンを待つ四歳の子供。 
「お父さんじゃなくて、いった君、大丈夫かしらねぇ。びっくりしないかしら」 
 思わずマロンに言ってみたが、マロンの目は、門のほうに向いたままだ。 マロンにひっぱられるようにして門に近づくと、美和子の目に、門の隙間から小さな白い手が両手、外にぴょんと出ているのが見えた。 
 それは、小さな小さな、マロンを待つ手だった。 

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