見出し画像

【小説】あなたの人生に幸多からんことを 第二話 生後三日


「ゆかり、お姉ちゃんになったの」
 病院に着くなり、誰かれとなくそう言うゆかりに人々は笑顔を向ける。
「まぁ、すごいわねぇ。ゆかりちゃんはいくつ?」
 杖をついた老女が訊ねると、ゆかりは5本の指を前に出して、「五歳」と大声で答えた。
 隣にいる父親が「すみません」と笑いながら言うと、老女が「お子さん、お生まれになったの?」と尋ねる。
 父親は「昨日の夜生まれまして。今日は、娘連れてきたんです」と答えた。
「まぁ、それはおめでとうございます」と老女が言った。
「あのねぇ、弟なの。お名前、まだないの」
 老女を見上げて大声で言ったゆかりに、老女が「あらまぁ、じゃあお名前つくのが楽しみねぇ」と返す。
 ゆかりが笑顔で大きくうなずいた。
 父親の手を引かれて三階にあがったゆかりは、新生児室の前に立った。
「パパぁ、赤ちゃんいっぱいいる」
 並んだベッドには、生れたばかりの赤ん坊が並んでいる。
これではどれが弟かわからない。みな、同じに見えた。
 赤ん坊たちは、眠っていたり、もそもそ動き、みぃみぃ泣いていたりする。
 ガラスにへばりつくゆかりの横に父親が来て、顔を寄せた。
「あそこ、ゆかりの弟はあそこだ」
 父親の指差すの方を見て、ゆかりは破顔し、手を振った。
「こんなにたくさんいると、迷子になっちゃうよ」
 ちょっと不安になったゆかりに、父親が笑う。
「大丈夫だよ。みんな、ちゃんとしるしがついてるんだよ。そこにちゃんと、ゆかりの弟ですって書いてあるから」
 教えてくれた父親に顔を向けたゆかりは、ほっとしたように笑ってうなずいた。
「もうちょっとしたら、ママの所に行こう」
 父親の言葉に、またゆかりがうなずいた。
 窓越しに新生児を眺めていたゆかりが、突然指をさして、父親に尋ねた。
「あの赤ちゃん、箱にはいってる」
 ゆかりの指差した部屋の右奥に、透明のケースが置かれている。
「なんで箱にはいっているの?」
「あれはね、お医者さんが特別にみてあげないといけない赤ちゃんがはいるところなんだ」
 父親の言葉に、ゆかりは視線をケースに向けたまま、また尋ねた。
「病気なの?」
「うーん……どうかな。お父さんも、そこまではわからないなぁ」と父親が答える。
 するとゆかりは、通りかかった看護師に大きな声で尋ねた。
「あの赤ちゃんは、なんで箱にはいってるの?」
 少女ようなあどけなさをまだ残した表情の若い看護師が立ち止まり、ゆかりの視線のところまで身をかがめると、ゆかりの指差す方を見た。
「あの赤ちゃん」
 そう言って、ゆかりはもう一度指で差す。
「ああ、あの赤ちゃんね」
 若い看護師は少し考えるようにしてから、「少し具合が悪いから、特別に面倒見てるのよ」と優しい声でゆかりに答えた。
 すると、横のイスに座っていた年配の女性が大きな声で言った。
「ああ、あの子なんだ。この間、みんなが騒いでいた捨て子の子って」
 驚いて声のする方を振り返った父親の横で、看護師が笑顔を消した。
「捨て子ってなぁに?」
 屈託のない声でゆかりが尋ねた。
 答えに詰まる父親に、看護師はゆかりに笑顔を向けて、「お母さんが迷子になっちゃってるから、今、みんなで探しているところなのよ」と答えた。
「やだ、あなた、何言ってんのよ。見つかるわけないじゃないの。ゴミ箱に捨てられてた子なんでしょ。そんなのさぁ、探すだけ無駄だって」
 かさついた声で笑いながら言った女に、看護師が厳しい視線を向けた。
「すみません、もうやめていただけませんか?」
 看護師の言葉に女は顔色を変えた。それからぎょるりと険しい目で彼女をにらみつけると、立ち上がって何かを言いながら去っていった。
 困惑した表情で看護師を見る父親の横で、ゆかりが大きな声で言った。
「ママ、見つからなかったら、赤ちゃん、ひとりぼっちになっちゃう」
「みんなで探しているから……きっと見つかると思うよ」
 ゆかりは父親の服の裾を小さな手で引っ張った。
「ねぇねぇ、パパ。そしたらあの赤ちゃん、ゆかりの弟みたいに、お名前書いていないの?」
 言葉に詰まる父親に、看護師が「そうねぇ、まだお名前はないねぇ」と答えると、ゆかりが笑顔を浮かべて大きな声で言った。
「じゃあ、ゆかりがつけてあげる!」
「ゆかり!」と諫めようとした父親に、ゆかりはぴょんぴょん飛び跳ねながら、さらに大きな声で言った。
「ぽーちゃん!」
「えっ!」
 今度は父親が大きな声を出した。
 怪訝な表情を浮かべた看護師に、父親は恥ずかしそうに、「すみません、うちで飼ってるインコの名前で……」と言った。
「ぽーちゃん!」
 父親の言葉をさえぎるように、またゆかりが大声を出す。
 看護師は、笑いを堪えながらゆかりに言った。
「そっか。じゃあ、あの赤ちゃんはぽーちゃんね。ゆかりちゃんがせっかくつけてくれたお名前だもんね」
 看護師を見上げて、ゆかりがうれしそうにうなずいた。
「すみません」
 父親が看護師に頭を下げた横で、ゆかりが奥のケースにひとりだけで眠る赤ん坊を見つめている。
 それから、何かを決意するように言った。
「ゆかり、あの赤ちゃんのおねーちゃんになってあげる!」
 父親と看護師に向かって、宣言するようにゆかりが大きな声で言った。
「ゆかり、ぽーちゃんのおねーちゃんになってあげる。そしたら、ぽーちゃん、ひとりでも寂しくないでしょ? おかーさんが見つかるまで、ゆかりが抱っこしていてあげる!」
 父親が何かを言おうとして、一瞬それをためらった。それから、どうしていいかわからないような表情で、看護士を見た。
 看護師はその父親を見つめ、それから腰を落としてゆかりの顔をのぞきこんだ。
「そっかぁ、ゆかりちゃんがおねーちゃんになってくれるんだぁ。だったら、ぽーちゃん、寂しくないね。お名前もつけてもらったし、おねーちゃんもできたし、ぽーちゃんもきっとうれしいよ」
「うん!」と、ゆかりがうなずく。
「ぽーちゃんが箱から出たら、ゆかり、いっぱい、いいこいいこしてあげる! いっぱい抱っこしてあげるの」
 看護師はじっとゆかりを見つめた。
 その真剣なまなざしを、ゆかりは屈託ない笑顔で見つめ返す。
 看護師は、かすれた声でつぶやくように言った。
「ありがとうね、ゆかりちゃん」
「うん」
 ゆかりがうれしそうにうなずいた。
 そして、またガラスの向こうにいる赤ん坊を見ると、手を振る。
「ぽーちゃん、早くでておいで。ゆかり、待っててあげるから」
 ぺたりとガラスに顔をくっつけたゆかりの後ろで、看護師が顔を少し歪めた。
 それに気づいた父親が何かを言おうとしたが、看護師は彼に笑顔を向けてそれを制した。
 ゆかりがくるりと振り向いて、はじけるような笑顔で父親に大きな声で言った。
「ねぇ、パパ。もし、ぽーちゃんのママが見つからなかったら、ぽーちゃんもいっしょにうちに帰ればいいよね。ゆかり、お姉ちゃんになったんだもん。昨日生まれた弟も、ぽーちゃんも、ちゃんと抱っこしてあげられるよ」
 どうしていいかわからないという表情を浮かべ、父親はしばらくゆかりの顔を見ていたが、ふっと表情を緩めてゆかりの頭にぽんと手をのせると、新生児室を見ながら答えた。
「そうだな、みんなでいっしょにおうちに帰ろうな」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?