友人は精神科の患者となった

医学生だった頃、私はある友人(以後A子)の誘いで同じ下宿で暮らしていたことがあった。引っ越してすぐ隣のA子の部屋がにぎやかだったので部屋を訪ねた。にぎやかな声の主はかわいい中学1年の(あやちゃん)女の子だった。どうして一緒に住んでいるのか最初は分からなかった。
親御さんは娘を早く自立させようと大学の入学前から知っているA子に預けたのだ。あやちゃんの家は医者で娘が医者の道に進んでくれたらと思ったのだろう。A子はあやちゃんの食事の用意、弁当を作る、勉強まで教えることで大学生活ができていた。こんなこと事はすごいストレスだ。お母さん役と大学生をしなければならない。
A子は小柄で、髪はおかっぱで丸顔、声はすんでいて優しかった。奨学金をもらっていたと思うが自由になるお金はなかった。その頃の授業料は一期6,000円で年間で12,000円と今では考えられないくらい安かった。私は授業の6000円を持って事務室に行くとものすごく丁重に扱われた覚えがある。6000円しかないのに600,000円ぐらい持っていったように事務員に深く頭を下げられたのである。この時私は自分が大きな荷物を背負っているのだなと認識させられた。

私は入学当初から大学生活が全く面白くなかった。気ままなもので下宿が厭になれば、突然その日の夕方に引っ越したりしていた。自分の生活に刺激を与えるため貸主の事などいっこうに介さずあちこちとさまよい歩いた。満たされないものへのうっぷん晴らしだった。持ち物などほとんどなくリヤカーを借りて引っ越していた。勉強に必要な机など持っていたのだろうか?今では忘れてしまったがあったに違いない。勉強するのには最低机は必要だろうし形をなしたものだから机がなければリヤカーなどを借りる必要は無い。その他のものは柳行李と言うものであったとおもうがすんなりと入ってしまった。
何を着ていたのだろう?いちど街に出た時にある店に入ると工夫を凝らしたブラウス類がたくさん並べられていた。今のような均一なデザインでサイズだけ違うものではなく一つ一つ違った刺繍がなされているのだ。全部欲しかったが1枚も買えるお金は持っていなかった。

私が引っ越し先を見に行くのは授業が終わった夕方になるので冬などは真っ暗だった。そんなこともあって部屋の向きは住み着く決定条件ではなかった。A子の隣に引っ越してから部屋に陽がまるで入らないのを知ったのはしばらくたってからだった。朝、起きると部屋が暗くて何がなんだかわからないので裸電球をつけた。「今頃の天気は本当に憂うつ」などと呟いていたが、西向きの部屋の前に大きな一本のマロニエの木が不釣り合いに立っていたので一日中陽が入らなかったのだ。畳がじめじめして汚れていたのも気づきもしなかった。食事も三食スナック程度の物を食べていた。
私はそんな風に無神経で無頓着であったから引っ越して3ヶ月くらい経った頃、下宿であったいざこざに腹が立って、A子がもう少し我慢してと言うのも聞かず引っ越してしまった。その頃すでにA子の心に異変が起きていたかどうかはっきりしなかったが、少なくとも精神の安定を失わせることが日々目の前で繰り広げられていた事は確かだった。

A子は同級のある美しい男性を好きになったのだ。努力せずにA子の視界にはいつも美しいブロンズ像が見えた。その恋心は私も歳になってしまったので思い出すこともできないが切なく辛いものであったに違いない。あなたが好きなので付き合って欲しいなどと言えたとは思えない。A子には一人の確かに対峙する女性がいた。
その女性は私はあなたが好きです。私と生涯を共にしてくださいと言えるくらいのはつらつとして清々しい明るさを持った女性だった。私はいつもA子の味方であったから校内で顔を合わせるその男性と女性が情欲のばけ物のように思えて顔を決して見なかった。もちろんその男性と女性は情欲のばけ物などではなく、かわいらしいやぎのような男性と女性だった。ただ男性は誰が見ても美男子であり漂ってくる女性を振り切る事ができるかどうかという不安材料を抱えていた。
教養課程での学期末の試験が始まった頃、A子は物理が出来ないと嘆いていた。物理が嫌いなことが精神の安定を失わせるものだろうか? A子の心を惑わせているのは美しい仮面すなわち恋と20代前後の若者の精神にいたずらする病、それはたまに死には至らせないが生涯を棒にさせるような病も加わっていたと思う。
「物理がだめならドイツ語をやるようにしたら」と私は言った。すると「あなたもそう思う? 私はドイツ語一生懸命やっているの」私の言葉が心のわだかまりと一致したのか分からないが真剣な表情でそう言った。A子はドイツ語が好きで物理が嫌いな事に劣等感を持ち、そんな自分を軽蔑していた。専門課程に入り子供の世話をしながら勉強をするのは大変だったと思う。口にした事はないが労働に対する対価は少なすぎた。私は実家に電話をかけるため近くのたばこ屋の電話を利用していた。私が電話をかけに行くとたばこ屋の奥でA子がおかみさんと対座して本を読んでいるのを何回か見かけた。木曜日の夕方はどんな事があってもそこに出かけて行き、おかみさんから聖書の教えを受けていた。その時間はあやちゃんから解放されるので木曜は朝から楽しげであった。私はA子が大学生になって急に宗教に没頭し始めた原因を深く考えた事はなかった。一時的に誰でもある事だろうと思っていた。
私はA子から「あやちゃんみたいに利口だったらなあ」とよく聞いた。確かにあやちゃんは利口だった。下宿でいざこざがあると中学一年生とは思えない口ぶりで原因を私達に教えてくれたりした。
A子は田舎の女子校からストレートで医学部に入った。それなりに頭はいいしきちっと勉強したから自分に自信はあったのだろう。あとで考えてみるとA子と一緒に恋愛とか結婚とかいった話をした事はなかった。A子は童女のように私には思えて必至にけなげに生きている姿が好きでA子の心の中では渦巻いている恋愛問題を持ち出すのはもっと先の事のように思えた。

それから話が一年飛ぶことになる。
その間、A子があやちゃんを置いて家出をして行方不明になるという事件が起きたが、それも周囲の努力で平静の内にA子は戻ってきた。それ以来、A子は落第するのではないかとひそかに噂されていた。授業中いつも放心したようになりノートもとっていないらしかった。私がいよいよ専門課程に入るとA子は専門課程2年に及第できずもう一度私達とやることになった。
私の大学では専門1年から2年に上がるとき何の試験もない。基礎医学のすべてが2年で終わりまとめて試験がある。落ちると言う事は考えられない。私の学校は試験を文部省から課されている成績をつけるための義務だからやるのであって勉強するしないは個人の責任であるとされていた。よって教える側は採点などをつけるめんどくさいことはしたくない。成績表と言うものもなかった。成績記録はあったが我々には知らされなかった。
もう一度1年をやらなければならないのはA子には勉強以外の理由があることになる。A子の病気を先生方が気づいたとは思い難い。後で述べるが聖書研究会の先生が気づいていた。授業ではA子は階段教室の左が右側に座りに宗教書を読んでいた。様子がおかしい事は誰の目にも明らかだった。私は医学に興味を見出す事が出来ず医者になる事に興味を得られないで苦しんでいるのだと思っていた。

A子が入院したのは10月の半ばだった。その間、色々な心の動揺を示したが私と話す時はいつも思いやり深く接してくれた。私が解剖で疲れ切って自信を失くしてノイローゼ気味になった時には敏感に悟って「この頃どうしたの」と逆に尋ねられた。「私、医学をやっていく自信がないのよ。ノイローゼなのよ」と言うと「絶対に大丈夫よ、貴女がノイローゼだったら私はいったい何かしら」と自問していた。私は解剖学が始まる前から専任教授は怖いとインプットされていた。覚えるのが大変で答えられないと叱られると言うことだった。そのためだろう授業になるといつもトイレに行きたくなった。そうなってしまう私も相当おかしかった。私は専門課程の4学年間ずっとトイレの不安神経症に悩まされた。授業に出られないこともあり、今になってもずいぶん損をしたと思っている。

A子が入院する前だったが、私達の大学では何年かに一度医学祭が開かれる。私は生化学部門で筋肉の収縮に関するモデル実験をする事にした。アクトミオシンの世界である。A子も一応生化学部門に入っていたので一緒にやらないと何回も誘った時実験や展示の手伝いを楽しそうにやっていた事はなかった。「私 何もやりたくないの、学校も辞めてしまいたい、田舎に帰ってにわとりの世話や土をいじって一生すごしたいわ」と何回か私に言った。「学校止めて鶏と一緒に生活した方がどれ程のびのびとしていいかしら、そうしたらいいのに」と言ってはみたが、それがいかに容易ならない決心であるか。医師になりたいが大学での勉強は自分にはできないと言うより自分でも制御できない渦巻きに飲み込まれていたから這い上がる事は難しかった。
A子が突然教室から消えていなくなる2~3日前「今日おもしろい所につれていってあげるから一緒に来ない」と不可解な事を言った。「おもしろいって?」と尋ねたが答えはなかった。「今日は医学祭の準備があるでしょう。だから」と私は断ってしまった。後になってなぜA子の頼みこむような誘いを聞いてあげなかったのか、いったい私を何処につれていこうとしたのか。
そしてA子は精神科の患者となってしまった。入院して自分がどうしてこんな場所に入れられているかわからないと語ったと聞くが、心の奥底ではどうにもしがたい不調和が存在する事は知っていたはずだ。私はA子は絶対精神病ではない、絶対違うと叫ぶように誰にでも言った。

聖書クラブの顧問の先生がA子を精神科にいかせたのだ。その時点で退学になったかはっきりとは知らなかった。A子の抜けた解剖台、続けられなかった遺体、そこに目を向けるたびに厳し過ぎた現実を私は感じた。私はそれから驚くべき事実を聞くはめになった。「A子、年下の男と同棲していたなんて、いったい今頃の女子学生はどうなっちゃっているの」と先輩の精神科の威勢のいい女医がいった言葉が私の胸にぐさりと刺した。「そんなこと!!」2、 3日は驚きが続いた。
相手の男性は私と入学時が同じの男性だった。入学当初からいつもおどおどしていて何かがおかしかった。自分でも自覚しているようで私に僕おかしいかなと何回か聞かれたことがあった。そういえば彼は専門課程に入ってきていなかった。2人は一緒に決着をつけようとしたか?私は日々の忙しさにかまけてA子を追いかけるのを忘れてしまっていた。
何とか救えないかと言う大学の意向はあったと思うが女であるA子はいとも簡単に退学させられたと思う。精神疾患々者が胃腸の病気と同じような響きをもって我々に受けいれられる日がこないだろうか。そうであればA子は大学を卒業し精神科医になれたかもしれない。当時、精神科の教授は精神疾患があっても医者として働いている人もいると講義では言っていた。後年、卒業名簿を見たときその男性が死亡していることがわかった。しかし、A子について学籍簿への記載は一切なかった。



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