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ベースボールとトランポリン 就活で病まないために

先日、十数年ぶりに野球観戦に行った。実際にスタジアムに行ってみると、スポーツ観戦というのはスポーツではなく興行であることがよく分かる。タイやヒラメならぬチアガールが舞い踊り、筒から火が出て、アメリカンなテンションの放送がノリよく試合を進行し、幕間にはなぜかリレーをしている。むしろディズニーランドに近い。

さて、勝負事の興行はこうした楽しい仕掛けが多いシステムではあるものの、試合という形式上観客にそこそこの負荷がかかる。自分の応援しているチームが勝つか、負けるか。細分化すると、この回で何点取れるか、今この時のチャンスを生かせるか、窮地を切り抜けられるか。精神は常に少しだけ張り詰めている。

私の観た試合は私の座っている側の陣営の守備のミスが目立ち、観客がキレ始めていた。敵チームが完璧な守備を披露するので得点は阻まれ、応援しているチームは失点を許してばかりいる。門外漢の私はというと、応援しているチームが盛大に失点をするたびに大笑いしていた。横にいた友人は頭を抱えていたが、別に友人やチームの不幸を笑いたいのではなかった。ただ、野球の失敗というのは心地の良いものだな、と思ったのだ。

生活しているなかで、失敗はネガティブなものだ。自分がやらかすのはもってのほか、他人がやらかしている場所にもできるだけ立ち会いたくはない。その一方で、YouTubeやTwitterをくるくるしていると盛大にやらかした人の話や動画が流れてくる。新品のスマホをとんでもないところに落とすとか、猫ちゃんが机から大コケするとか、そういう些細だけどダメージのあるものがいつ起きるのか、つい画面を凝視してその瞬間を待ちわびてしまうし、それが大きければ大きいほど頭を抱えながら笑ってしまう。つまり、自分には関係ない場所で起きた他者の失敗は(命にかかわらない程度のものであれば)エンターテインメントとして成立するのである。野球が好きでチームを応援している人にとっての1つのミスは大きな問題だが、普段野球を見ていない私からすると大笑いできる楽しい出来事だった。

だが果たして野球ファンも成功が続くことだけを望むのだろうか、とここしばらく考えていた。守備がボールを取り損ね、応援席は頭を抱える。そのとき張り詰めていた緊張が一気に解ける。綱渡りをしていて、ミスしないように、上手くいくように、そう願う一本の糸が切れてしまったとき、空中に放り出された絶望に落ちることになる。しかし、みんななんだかんだ「次行こ」と気を持ち直す。落ちる前は、真下は針山で、もし手を滑らせたら死ぬと思っていたが、案外ちゃんとトランポリンが敷いてありました、が繰り返される。

話は違うが、私の年代だと「浪人/留年/就活失敗/退職をしたら社会的に死ぬ」という価値観に侵されることがある。実際私もそう思っていたし、大学の先生と話したときも、特に親御さんは「留年は絶対に許さない、留年したらまともなところに就職できない」と言う人が少なくないらしい。私の親の世代は就職氷河期で100社200社受けてひとつも受からない、みたいなことも多い大不況のなかで何とか生き延びてきた人も多く、私の母もその一人だったから、その強迫観念も重々理解できる。子供には躓かないで生きてほしいのが親心というものだろう。

だが今日、もしうっかり就活に失敗してもいきなり死ぬことはない。1浪や2浪で人生が終わることはない。留年している人間は数知れずだが、みんなその辺で生きている。就活が失敗したというのは「就職できなかった」状態であって、別に死んでない。金が必要なら一旦バイトをして考えよう。ブラック企業は働いているほうが寿命が縮む。

問題は「その状態を許せる余裕があるか」というところにある。自分のプライドが許せず病んでしまったり、親が叱責して子供を見放したり、経済的な問題で制度にも救われずにっちもさっちもいかなくなった場合、これは社会的どころか実際の死に繋がりかねない。そして、自分の下にトランポリンがあるかどうか、生きて帰ってこられるかが分からないこともあるし、余裕がないことが自明な場合には、本当に命を懸けて頑張らなくてはいけないことがある。特に経済的な問題に対して自分から何かできることはない(東大の学費値上げに関しては言いたいことしかない)。

そんなことを言って、おまえはどうせ余裕がある側だろ、と思われるかもしれないが、私はどんな奨学金にも通りかねないほどの事情持ちである。ただそのなかでは恵まれているのは間違いのない事実だ。幸い親がそれこそ命を削って作ってくれた環境を食い、あとは幸運によって浪人した後に四大を卒業して就職できた。だが、浪人したときは大学校も公務員も受けたし、大学に合格してからも、大学校に進めば経済的に楽になる……と3月にものすごく悩んだ。大学生になってから就活で内定を得たとき「もう親に金銭的な迷惑をかけなくて済むんだ」という気持ちが一番大きかった。

でも、浪人させてもらえていなければ私もずっと怖かっただろうと思う。自分が「これをミスったら人生終わる。普通のルートを通るしか道はない」とどこかで思っていた予定が大幅に狂うときの絶望はすごい。もう理想の自分になる計画は台無しなのに、体は勝手に死なず、これからもこういうことがずっと続き、何があってもなんだかんだ生きていかないといけないんだということを悟る。脅されてた割には意外と死なねえなとも思う。良い大学に行き、大企業に入ることは、もはや理想ではなく強制である。だからこそ浪人時代に就活をしたり、大学生になってからバイトをして、自分が想定していないところで働いている人がいて、みんなそれぞれ生活をしていることを知ることは、もし何かあったときに自分を許すための、いわば精神的なトランポリンを作ることだと思う。なぜこれが必要かというと、年齢を重ねるごとに失敗は怖くなっていくものだし、結果的に致命的なものになりかねないからだ。

いわゆる就活は、大学名だけを頼りに大卒者を刈り取るシステムであり、これは世界中でもトップ10に入るくらいバカのシステムだと思うし、よくその程度の評価基準で人を採用して会社が回るなと思う。私も就活をある程度一生懸命やっていたクチだけれど、働き始めてからこんなことのために就活で精神をすり減らすのはバカバカしかったな思うことばかりだった。大企業に入った友人は職場環境のひどさに心身をやられ、入社後わずか数か月で休職している。

ずっととんとん拍子に来ている人ほど、就活というシステムのなかで振り回され、押しつぶされ、息が詰まりながらも早く人からも自分でも認められる良い企業から内定が欲しい、と思っていることだろうと思う。もうこの時期に大手企業なんて残っていない、周りの友達はあの企業に就職したのに自分は、と思うかもしれない。浪人や留年と違い、就活においては「合否」のような「成功/失敗」という明確な基準もないからこそ、いつか笑い飛ばせる「盛大な失敗」も生まれにくい苦しさがある。

そういう時には野球を見に行くのをおすすめしたい。誰もが成功を願いながら、失敗してもみんな大げさにがっかりしながら観るのをやめない。ボールを取り損ねて誰も死なない(降格などはあるかもしれないし、選手のストレスはあるだろうが、その瞬間からすべてに見放されて抹殺されることはない)。誰とも知れない存在が押し付けてきた「普通のキャリア」のためにプライドを高く持ち、心をすり減らす努力をするよりも、まずは自分が自分のトランポリンになれるようになること。どんな生き方をしても、自分が自分を許してあげられるようになること。それはいずれ、他者の失敗に対してのセーフティネットとして、人を救うこともあるだろう。


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