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エヴァのビデオを擦り切れるほど観たチルドレンだった/シン・エヴァ感想文

「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」の感想文になります。
ストーリーのネタバレも含みますので、ご承知の上お読みください。
今回は見出しなど設けずに長々と感想を綴っているので読み難いかも。



初めての“エヴァ”に触れたのは私が2歳の時だった。
父親がTVシリーズをビデオテープに録画したものをよく再生していたからだ。
同じ頃に他によく再生していたのは「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」や「MEMORIES」など。
いずれも子供には難しい内容だったけれど、結構楽しんで観ていた記憶がある。
ビデオデッキを自分で操作できるようになってからは、それらを自発的に繰り返し観ていた。
お陰で私は友達とセーラームーンごっこはできないが、布団たたきを松葉杖に見立てて脇に挟み、無表情でヨタヨタと歩きながら「ママ見て……綾波レイ……」という物真似を披露する子供になった。

TV版のエヴァにはキャラクター達の独白や自問自答の形をとった心理描写が多く見られる。
どれも簡単な言葉で紡ぐ連想ゲームの様であり、内容も人間の自意識に基づいた普遍的なものだ。
ゲンドウやゼーレの目的、エヴァンゲリオンの正体などは大人になるまで分からなかったが、幼い私にもシンジやアスカがどういった苦しみを抱えているのかおおよそ理解できた。
鬱々とした内容だったけれど、子供の頃から私はそんなエヴァの心理描写がお気に入りで、いきなり最終話付近が録画されたテープだけ観るということもままあった。
彼らの心の声は妙に心地良かったからだ。
それはやわらかい頭にエヴァが刷り込まれて、それが心地良いと思えるように順応しただけかもしれないが、エヴァファンの中にはこの心地良さを理解してくれる人が一定数存在するのではないだろうか。
また、心の深いところまでぐちゃぐちゃにされるシンジやアスカを哀れむことはあっても、不思議と彼らの幸せであったり、物語のハッピーエンドを望むことはなかった。
バッドエンド厨という訳でもないけれど、勧善懲悪が約束されているような子供向け作品はいまいちのめり込めなくなってしまった。

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」は奇しくも私が14歳の時に公開された。
序から破にかけては明らかに世界がチルドレンに少し優しくなっていて、シンジを取り巻く状況は少しずつ良い方向へ舵を切り出した。
その頃には私もエヴァ以外の様々なフィクション作品に触れてきていたので「確かに本来ならシンジはこれくらい報われるべきだ」「筋の通った親切なお話になっているな」と好意的に捉え楽しんでいた。
迫力満点のアニメーションや豪華な音響に、それだけでワクワクさせられたというのもある。
とは言えTVシリーズや旧劇場版のどうしようもない雰囲気が私にとってはホームになってしまっていたので「あれとは別物だ」とも考えていた。
とりわけ、アスカの精神が凄く安定していたことにはショックを受けた。
「他人に喜んでもらえると自分も嬉しくなる」感情が芽生えるなんて。甲斐甲斐しく手料理をするなんて。可愛くて良い子のツンデレキャラじゃんか、と思ってしまった。
大人の男に認められる為に躍起になる姿の痛々しさや、シンジに惹かれながらもエヴァパイロットとしては彼を憎むという自己矛盾や、死にたくない(母親の様になりたくない)と膝を抱える姿や、内臓を啄まれて殺してやると呪詛を吐く目つきが、死に物狂いな惣流・アスカ・ラングレーが好きだったから。
不健全な愛で方であることは承知の上で、惣流が居る“旧エヴァ”が好きなのだと再認識させられた。

賛否両論のQに関しては、突然突き放されてしまいシンジと一緒に困惑しながらも、何だか懐かしい気持ちに浸っていた。久しぶりの、例の心地良い感覚だ。
もう嫌だ。何もしたくない。死にたい。このまま消えたい。
最終的には失語症になってしまったシンジは、いつか旧劇場版で無気力状態になったシンジの姿と重なる。
彼に残されたのは呪縛によって朽ちない体だけ。
現実の私たちも、再び何年もの間放り出されることになった。
「シン・エヴァ」を観た後だからこそこうやって俯瞰して語ることが出来るが、当時は私も宙ぶらりんに放り出され途方に暮れたような心境で劇場を後にした。

そして待ちに待った「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」の公開初日。
SNS上でのネタバレを回避しきる自信が無く、また腐っても幼児期からエヴァに浸ってきたオタクとしての(しょうもない)プライドで、朝の回を観賞した。
感想を一言で表現するなら「作り手も作品もすっかり大人になってる……」といった感じ。
とても分かりやすく親切なエヴァだった。

まず私たちを待ち受けていたのは第3村での生活だった。人々の営みが、土を混ぜた様な暖かな色彩で描かれる。
TVシリーズでも家出をしたシンジが辿り着く霧がかった峰や、イメージとして登場するひまわり畑、蝉の鳴く畦道などの描写はあったが、それらはとても孤独で圧迫感のある風景ばかりだった。
第3村編はいつものスタイリッシュさは鳴りを潜め、ビジュアル的には全然「エヴァらしくない」と言えるが、不思議とすんなり受け入れられた。
人と人が交わりながら生きていくこと。それが人間社会に初めて参画するアヤナミレイ(仮)の五感を通してシンジに伝えられる。
ゆっくりと時間をかけて、碇シンジは自分がここに居ていいのだと知った。自分が壊してしまった世界は元には戻らないが、また作り変えることが出来るのも自分だということを理解した。
それはとてもありふれたことだ。鈴原一家や、ケンスケや、集落のおばちゃん達や、アスカや、ミサトや、ヴィレの人々も同じく、世界と関わり合いながら生きている。
エヴァらしからぬ予想外のアプローチに最初は面食らったが、シンジやレイ(仮)が他人と触れ合う過程をじっくりと描いてくれたのは非常に良かった。

一方で本作は「精算」「禊」のような大きな役割を担っており、次々と“エヴァ”を卒業していくキャラクター達の姿を眺めるのは喜ばしくもあったが、正直堪えた。
特に「私が先に大人になっちゃった」アスカには私の中で様々な気持ちが錯綜し、シンジの様にしっかり受け入れることは出来なかった。
アスカは本当に大人になったんだね、これが最終的な、今のアスカなんだね、と思うとやはり寂しかった。
式波・アスカ・ラングレーは優れたキャラクターだと思うし、とても良い子だ。
それに私が好きなのは惣流だから、最終的に式波がケンスケと良い仲になることに驚きはしたものの素直に「おめでとう」と言える。言えるけれども、これでオリジナルの惣流も一緒くたにされて消えてしまうのは悲しかった。
そんな拗らせた惣流ファンの為なのか、旧劇場版の赤い海で横たわるアスカとシンジのシーンを用意してくれたことでどうにか命拾いできた。
(彼女はボロボロで、でもとてもきれいな女の子だった。ありがとう)
この時点ではっきりと「庵野監督自身が、我々チルドレンモドキの為に作品にケリをつけようとしてくれている」ことを私は理解していたし、それで置いていかれたような気持ちになる自分は「まるで子供の成長を嫌がる毒親みたいだな」と思えて嫌になった。
「シン・エヴァ」がエヴァから卒業できるように背中を押してくれていることや、込められた想いは伝わる。気持ちの良い形でエヴァが終ろうとしている。飲むべきだ。飲まれるべきだ。それは分かる。頭では分かっているけれど、寂しいという気持ちがどうしてもこみ上げた。

多分、私はいつまでもウジウジするチルドレンと一緒に膝を抱えて、心地良いままでいたかったのだと思う。
「キモチワルイ」で終劇するエヴァが一番好きなんだと思う。
けれども、エヴァにちゃんとケリをつけてくれたこと自体が嬉しいのも本当だ。
エヴァも私も大人にならなければならないのか。
それが今でも寂しいし、こうして気持ち悪い長文を綴ってしまうほどには未練があるけれど、シンジがここまでしてくれたのだから、私もちゃんとお別れをしよう。


庵野さん、シン・エヴァ制作スタッフの皆様、描けるだけ描ききってくれて引導を渡してくれたこと、ありがとうございました。
寂しいけれど、嬉しかったです。
エヴァと一緒に歳をとって、私の人生は豊かなものになりました。
素晴らしいクリエイターであるあなた方の、今後の更なるご活躍を願っています。
さようなら。




※余談
どうしても感情的に許せないことがある。
最後の神木隆之介さんである。
あのシンジはエヴァの無い世界のシンジであるから、彼が抜擢されたのだと思う。普通に考えればニクいキャスティングとも言える。
けれども、私にとってはなんだか物凄く嫌だった。
おい、あんたなんか全然“こっち側”じゃないだろ!
“エヴァ”じゃないだろ!あんたはジ○リとか新○誠とかだろ!入ってくんな!私のエヴァに!!
私のエヴァなんか無いのに、そんなことを思った。哀れなオタク。
やっぱりエヴァ卒業はまだ難しいのかもしれない。
私はなんて狭量な人間なんだろう。
(今回の碇シンジ役も含め、神木さんの演技のお仕事はいつも素晴らしいと思っております。こんな大人気ない戯言は歯牙にもかけず今後も頑張ってください)

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