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『何も知らない』という事を知らない罪は重過ぎるよって話し。②

こんばんは。

前回の話しの続きを綴るのに、間が空いてしまいました(笑)
近頃は、私の通っている専門学校は今流行りのウイルス達により学級閉鎖となり、試験が延期となり、オンライン授業開始となり、、、
ダンス活動の方では、スタジオの発表会が前日に延期と決まってしまったり、、、

そんな時に、対人関係で悩んだり、気持ちの割り切りをも出来なくなってしまい久々に打ちのめされてました。(笑)

数年後の自分や他人からしたら、大したことないと思う様な事だろうと理解は出来るので余計不甲斐なさがありますね。

初めてなんですよね。
何も打ち込む気になれない自分の甘ったれ具合とそれを許して欲しいと懇願してしまっている様な落ちた気持ちがここまで混沌とした感情として自分で感じるのは。。。

という私の少し前の感覚を自分でも客観的に把握したい為、このままテーマに沿っていきたいと思います☺︎

前回の続きというよりかは、このテーマに対する私の感じ方を綴っていこうかと思います。

まず、
『知らない』ということを認めるには何かをもって『気づく』という瞬間が無いと『知らない』という事を知ることが出来ないということ。

自分だけ知らない、自分にしか分からないというのも『気づく』というきっかけが無ければ生まれない。

この『知らない』という期間が長ければ長いほど、『気づく』という瞬間から、なんだか知らなかったことが恥ずかしくなったり、悲しくなったり、内容やタイミングによってその感じ方は様々である。

ちなみにこの私のテーマをつけた感覚では、『知らない』という期間の中でも様々な選択や判断を行わなければならない為、それが良いか、悪いかでは無く自然と自分の生涯の中で『知らない』という深い罪を常に犯し続けている状況だと、私の中ではそのような要約で考えたものだ。(笑)

生き続けていく中で、
最終的に全てを知ること、理解することは無理なのだと。(はっきりとした答えが無いものも含む。)

まぁ、そういう感じ方で間違っていない(笑)

この『知らない』ということが、罪だと感じるかどうかというのも人それぞれだが『気づく』努力をするかしないかというのも、人それぞれかとも思う。

(自分の意思により、『知らない』ことを知りたくなかったり、興味が無かったり。)

ただ、その『気づく』ことに対する努力を、私が『努力』という言葉で表現する意味は、対人関係を良くしようと心掛けられるよう考え、行動したり、時には自分の価値観を広げる為に様々な経験が得られるよう考え、行動したり、、、
その人の意思と行動による努力がつきまとうと考えるからだ。

この『努力』を何かしらの固い意思決定で『しない』という選択をするということは話しは別だと考える。(感情や自分の気持ちというのをこの選択により、守ることが出来るのも事実。)

本当の事を全て知る事が正義でも無いが、自分の気持ちや感情を大切にするなどという意思決定以上に『知らない』事を知ろうとしない、『努力』をしないという事は私にとっては罪深いなぁと感じている。

最近の私は打ちのめされ、何も打ち込む気になれない自分の甘ったれ具合とそれを許して欲しいと懇願してしまっている様な落ちた気持ちがある。と最初に言ったが、まさにこの『努力』を怠り、それを許して欲しいとまで懇願するような怠け者である(笑)

(私は大概、興味のないことも多いが、見てみたい、経験してみたいという好奇心は強めなので、ここに自分の感情や気持ちは無視する事が多い。だが、時には知り過ぎは自分の気持ちの健康には良く無いものもあると学ぶことがある。今回、そのキャパシティが崩壊したものを初めて修復するのに時間がかかったという訳だ。。。(笑))

そのような時は
極力、外出しない。
人様にこのような怠け具合を見られたく無いのと同時に上記の自分から何かしら良くない影響は与えたくないからだ。(笑)

今回の、私のおうち時間はひたすら寝るか、読書か、たまーにするテスト勉強(笑)
まぁ、たまにはそのくらい極端に自分に怠けても良い時期だったのかもしれません。

はい、今回はこんな感じで終わります☺︎

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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