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話し合って解決する程、人の価値観というのは単純じゃない。

こんばんは。

毎日、誰しも皆平等な時間の中で自分も何か時間に追われながら過ごしている日常にとても苛立ちを覚えます(笑)

他人(自分以外)の『時間』・『人』・『物』etc...

この大きく3つの価値観は日常において、人の言動にかなり影響のでるものかと思う。

何を基準として何に価値を重く置くか。

私の場合、〈二度と戻ってこないもの〉として『自分にとって大切なものへの時間』が優先順位として1番にくる。

と言うわけで私は『誰とどのように過ごすかという時間』を常にどのように行動し、思考するのかという場合に置いて重点がある。

もちろん私が思う大切な相手の思う中で、自分がどれほど価値がある存在なのかは考えるのも図々しく、分かることもないが問題はそこではない。

極論、自分の事を大切にしてくれない人を大切にしようなんて大抵は思わない。
(よくいう無性の愛など細かい話しは置いておいての話し)

これは受け身のようで能動的でもある。

ただ、この思考と距離間がある限り、さじ加減はとても難しい。

変な言い方をすると、欲張れば対人関係は広く浅く、また社交性に欠けるとなると狭く深く。。。

私は白黒はっきりつけたいタイプなので極端ではあるがそう理解している。(笑)

自分が大切にしたいと思うこと(人)には、とことん自分の1番の犠牲となる『時間』(時にはその時の環境に伴う行動)を与えることによって信頼や安心感を与えられると感じる。


私は、自分が誰にでも平等に時間を上手く作れる要領の良く、言動を操れる程賢い訳では無いので自分の『時間』と毎日向き合い、時には大切なものの為に自らの『時間』というものを相手に奉仕するに近い状態で渡すというのが1番の私の価値観。


これまで、人と会話している中で、お互いの価値観を話し、共感し合えたことは1度も無い。


(その価値観と理解と受け入れるかどうかは別として。)


恐らくそこへの期待もない。又は、一種の諦めもあると言える(笑)

時には解決や意見の擦り合わせが摩擦を生み、一人一人の価値観という個性の傷つけ合いが起こる。
理解し、どちらかが価値観への変化の兆しがない限り永遠とどちらも肯定してもらえることのない関係性と違和感が残り得る可能性が高くなる。

価値観についての話し合いはするにしかねるものとして今年の夏、私の中で意見は纏まった。(笑)


最後まで読んでいただきありがとうございました。
終わります☺︎

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