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建築家・松村正恒研究と日土小学校の保存再生をめぐる個人的小史  [11]2007年〜2008年:岩屋寺大師堂、博士論文のスタート、そして実施設計を巡る綱渡りなど

 日土小学校の改修が正式に決まり、2007年度はその実施設計を行う年となった。ただしすぐに開始できたわけではなく、その設計者選定については大変な綱渡りが待っていた。しかし何しろ日土小学校が残ることは決まったので、正直言って私は気持ちと時間に余裕ができた。そこで、松村正恒に関して集めてきた多くの一次資料をこのままひとりで抱えていてはだめだと思い、それを元に博士論文を書く決心をした。今回はこの2つのこと、およびそれに加えて、愛媛県久万高原町にある岩屋寺大師堂の重要文化財指定を巡る日土小学校保存再生関係者との不思議な縁という3つの話題を中心に、この時期の出来事を記録しておきたい。

 2007年度は、4月27日、鈴木博之先生に八幡浜市長さんと面談をしていただくことから始まった。曲田先生はじめ私を含む関係者も一緒に市役所を訪れ、日土小学校を残す決定がなされたことへのお礼や今後の進め方についてのやりとりをした。
 一段落ということで、翌日は愛媛県久万高原町にある岩屋寺大師堂を皆で訪れた。なぜ岩屋寺大師堂なのか。そこには、和田さんと堀さんと鈴木先生をつなぐ不思議な糸があった。
 この寺のことは、前回以下のように書いておいた。

2007年になり、1月17日には文化庁の堀さんが日土小学校を訪問された。後に重要文化財指定される久万高原町の岩屋寺大師堂を見にこられた足で、日土小学校にも立ち寄られたのだ。県と市の教育委員会の方と和田さんらが案内され、後日、日土小学校について好印象だったとの連絡を曲田先生から聞き安心した。なお岩屋寺についてはさらに続きの話があるので、次回に回したい。

 岩屋寺大師堂は、大蔵省の技手であった河口正一が設計し、1920年に完成した建物だ。仏教建築であるにもかかわらず、向拝柱にヨーロッパ建築のエンタシスのようなテーパーがあり、フルーティングや柱頭飾りも施されるなど、各所に洋風のデザインが混在する不思議な建築だ。そして2007年に国の重要文化財に指定されている。
 和田さんは、若い頃にこの寺の仕事をした縁で大師堂のデザインに興味をもち、ひとりで調査を続けていた。その成果を最初に発表したのが『愛媛温故紀行 明治・大正・昭和の建造物』(財団法人えひめ地域政策研究センター編、2003年)である。愛媛県内の近代化遺産の調査結果をまとめたもので、判型も大きく写真も見事で素晴らしい本だ。この連載の第2回目に紹介した青木光利さんや曲田先生も関わっている。
 和田さんはその中で岩屋寺大師堂を取り上げ(178頁)、西洋建築のモチーフが使われた不思議なデザインであること、設計者が河口正一であること、寺が所蔵する設計図には実現した案とは違う伝統的な姿が描かれていることなどを記した上で、「社寺建築にまでも押し寄せた近代化の風が、瞬時にして通り過ぎていった「時代の象徴」として、深く近代史に刻まれていくであろう。まさにこの造形は、近代化遺産の超一級品といえよう」と結んでいる。

001/愛媛温故紀行表紙

『愛媛温故紀行』表紙

002/愛媛温故紀行岩屋寺

『愛媛温故紀行』の岩屋寺大師堂の頁

 和田さんによれば、文化庁の堀さんはこの本で岩屋寺大師堂の存在を知り、和田さんへ連絡があってメールでの情報交換が始まったそうだ。そして前回書いた通り、堀さんは2007年1月17日に愛媛県へ来られ、日土小学校とともに訪問された。その際には和田さんと一緒に小屋裏へも上がって棟札もご覧になり、「これはすごい」となったらしい。そして東京へ帰った堀さんが鈴木先生に大師堂と和田さんのことを話したところ、鈴木先生の方は「え、和田さんというのは日土のあの和田さん?」と驚かれ、「ノーマークだったすごい建物があると文化庁で話題になっている」と和田さんにおっしゃり、今回ぜひ見たいということになったのであった。
 そして、その後間もなく2007年6月18日付で重要文化財指定がなされ、鈴木先生もその直後に朝日新聞の連載「奇想建築」で取り上げた(「岩屋寺大師堂 日本 和風の中に破綻なく西洋組む」2007年6月24日)。すごい早さで重要文化財となり、県の教育委員会も和田さんも驚いたらしい。その後和田さんたちは、2008年5月に立派な報告書をまとめている。日土小学校が生み出したといってよいかどうかわからないが、誠に不思議な縁による近代建築史上の大発見だったといえるだろう。
 なお、河口正一と岩屋寺大師堂については、『工手学校 日本の近代建築を支えた建築家の系譜 工学院大学』(NICHE編、2012年)の「河口正一 こんな摩訶不思議な建築、観たことない!」でも和田さんの名前とともに紹介されている。

003/岩屋寺大師堂報告書

岩屋寺大師堂の報告書の表紙

004/岩屋寺大師堂報告書目次

岩屋寺大師堂の報告書の目次

 さて時系列に従えば、次は私の博士論文のことになる。冒頭に書いたように、日土小学校が残ることが決まったので保存活動に割く時間が減り、私は松村正恒研究を再開しようという気持ちになった。何しろ一次資料をひとりで抱え込んでおり、それを公開しなくてはという義務感もあった。
 とはいうものの、歴史研出身でもなく、修士論文のあとは短大時代の紀要を除けば商業誌か書籍にしか文章を書いたことがなかったので、博士論文なるものにどう手をつければよいのか途方に暮れた。今さら博士課程の学生になるわけにもいかず、いわゆる論文博士として博士論文をどこかの大学へ提出するしかない。もちろん審査をしてもらうには主査が必要で、それはもう鈴木先生しかないと思われた。しかし鈴木先生は東大を2009年3月に定年退官されることはわかっており、そうなると締め切りは2008年秋なので、すぐにでもお願いしなくてはいけなかった。何より、今は制度が変わっているかもしれないし当時の他専攻のことも知らないが、少なくともあの頃の東大の建築学専攻は論文博士には査読論文があることを必須条件にしておらず、私のような書き下ろしタイプにはありがたかった。
 そこで上記の岩屋寺大師堂へ向かう4月28日の車の中、後部座席の横におられる鈴木先生に向かい、意を決して「ご相談が・・・」と切り出したのである。すると即座に「論文のことですね」というお返事があり、すべてお見通しだったと驚いた。もちろん主査は快諾していただき、その場で大まかなスケジュールの説明も受け、私の博士論文はスタートした。もう後には引けないと緊張する一方で、これでたまったものを吐き出せるという安心感のようなものを感じたことも覚えている。
 論文を提出したのは翌2008年10月3日なので、この日から1年5ヶ月ほどの作業となった。学科主任をやっていた時期で何しろ忙しく、それ以外に、授業、日土小学校以外の学内外のプロジェクト、原稿書き、もちろん日土小学校のこと、親のこと家族のことなどの用事の隙間をすり抜けながら、少しでも空いた時間があれば少しでも調べ少しでも書く、ということを続けていった。
 進捗状況の記録はないが、当時の手帳で提出1ヶ月前の2008年9月を見ると、「○章のまとめ了」「補遺かいた」「結論残りほんの少し」といった記載が続き、東大へ持参した10月3日の4日前に最終のPDFを作って必要部数の印刷までを自宅で行い、予約しておいた三宮の印刷屋へ3日前に持ち込んで製本を依頼したとある。
 博士論文についてはまた書くこともあると思うが、査読をパスした何本かの論文を束ねながら仕上げていく課程博士とは違い、査読者という他者からの評価によって削ったり加えたりする機会がないまま、自分で作った目次に沿って調べわかったことと考えたことをひたすら書き続けていくという積み上げ方式になった。おそらくそのこともあって、全体が時系列に沿ったモノグラフ的、伝記的、あるいは読み物的な仕上がりとなり、そのことを面白がってくださる方も出たように思うが、仕事と両立させるにはそういう書き方しかなかったのだ。
 しかし、空き時間には必ず博士論文関係の何かをする、頭が動くときは文章を書き、そういう余裕がないときは集めた写真や資料のスキャンを機械的に行い内容別のフォルダに入れていくということを自分に課した毎日は、日建設計時代に描くべき実施図面を一枚ずつ仕上げていったときのような気分になり、大学の日常業務を行う自分とは別の自分が生まれたようで嬉しかった。

 7月14日には、日本建築家協会四国支部と日本建築学会四国支部・愛媛支所による「2007 JIA・AIJ 建築市民講座」として、「地域に根ざした建築を育むには 地域資産としての建築を考える」というシンポジウムが松山で開かれた。
 パネリストは、鈴木博之先生、写真家の増田彰久さん、私、進行は曲田先生である。最初に鈴木先生が「建築保存 四国から全国へ」と題して日土小学校の保存再生のことから始め、広く近代建築の保存について基調講演をされ、増田さんはご自身の写真によって各地の優れた近代建築を紹介し、私は日土小学校の保存再生のこれまでの経緯を報告した。そして、改修設計には深い考察とデザイン力が必要であり、設計者選定には慎重な判断が求められるので、これまで調査・研究を行ってきた建築学会と行政との連携が重要であると付け加え、日土小学校の次のステップである実施設計者の設定を意識したアピールもした。和田さんが関わった前述の岩屋寺大師堂や、武智さんが関わってその後保存再生が実現する伊予市の翠小学校も紹介された。

005/「2007 JIA・AIJ 建築市民講座」のフライヤー

「2007 JIA・AIJ 建築市民講座」のフライヤー

 さて今回の重要な話題、日土小学校改修の実施設計者選定の件である。前記のシンポジウムでも話した通り、これまで保存活動を担ってきたメンバーとしては引き続きその中で実施設計を行うのがよいと考え、八幡浜市に対してそういう提案をし、市側もさまざまな努力をされたのだが、残念ながら最終的には設計入札が行われることになった。設計入札とは正確にいえば設計料入札であり、設計料の安さを競う仕組みである。ただし市側もこれまでの経緯は理解しておられ、落札者はその設計内容について建築学会の監修を必ず受けることという条件がつけられた。
 もちろん保存関係者側も入札に参加することにし、和田耕一さんの事務所がその担当となった。入札の日は9月6日と決まり、私も神戸から松山へ向かった。どういう結果になろうとも打ち合わせが必要だからとにかく来い、というわけだ。
 日土小学校に関わって以来、これほどはらはらしたことはない。不謹慎な表現と承知の上で書けば、保存活動の経緯を知りながらも入札に参加される設計事務所が複数あり、競争になったからである。
 しかし、新神戸から新幹線に乗り、岡山で特急に乗り換え、予讃線が愛媛県に入った頃だったろうか、携帯電話が鳴り、その不安は一瞬にして吹き飛んだ。列車の出す騒音と途切れがちな電波の向こうから、曲田先生の「とれたよー!」という声がはっきり聞こえたからである。
 入札会場へ行った方々が八幡浜から松山に戻り、私も合流した。祝宴である。そこで、入札の詳しい経緯を初めて知り、まさに綱渡り、奇跡のようなことが起きたのだと知らされた。皆さんから聞いた話をまとめると次の通りだ。
 和田さんは公共建築の入札に参加するのは初めてだった。主に木造住宅や民間の仕事をされてきたからである。したがって入札の要領がわかっていない。会場に着いたところで知り合いから、「封筒はもってきたか」と尋ねられたが準備がない。金額を書いた紙を入れるためだと初めて知った。そこでスタッフの方が慌ててコンビニへ走り買ってきた。
 いよいよ入札開始である。会場には関係者が座り、前に市の担当者たちがいる。それぞれの事務所が与えられた用紙に金額を書いて封筒に入れ提出する。
 いくらにするかについて前日まで関係者で作戦会議が続いていた。和田さんは金額を記入する際、何を思ったか、皆で決めた額よりほんの少し下げた金額を記入した。その紙を封筒に入れようとするが入らない。コンビニで買ってきた封筒がごく一般的な手紙用だったので、金額を書いた紙を折って入れようとしても、B5用の封筒なのでA4用紙の短手方向がはみ出すわけだ。そこで端を折りまげて封をした。
 そして、市の担当者が各封筒から金額が書かれた紙を取り出し重ねていく。和田さんは金額の安い順だと考えた。そして下から二つ目に端が折られた紙が置かれたのだ。その瞬間和田さんは、「ああだめだった」と思ったそうだ。他の事務所は入札に慣れており、用紙がそのまま入る大きな封筒を用意してきている。和田さんのだけに折り目があり、下から二つ目が自分の出した紙だとわかったからだ。
 ところが市の担当者からは信じられない言葉が出た。「二社が同額なのでくじ引きにします」。和田さんが記入直前にほんの少し下げて書いたその金額が、もう1社の額と同じで一番安かったのである。
 別室で市の担当者があみだくじを作り、和田さんともう1社が線を選ぶ。和田さんは金額を書いた紙の順番が下から2枚目だったから、あみだくじも(右からか左からかは聞き忘れたが)二つ目の線を選んだそうだ。それが見事「当たり」だったのである。
 こんなことがあるとは信じられなかった。日土小学校は強運だなあとあらためて感心もした。祝宴会場では、「和田さんは一生の運を使い果たしたんじゃないか」とか「和田さんのご利益を被りたい」といった冗談が飛び交った。
 その後具体的には、和田さんの事務所・和田建築設計工房が全体の統括と既存部である東・中校舎の改修を、武智さんの事務所・アトリエA&Aが新築する新西校舎と外構を、3棟の構造設計を東大の腰原研究室がそれぞれ担当して実施設計が始まった。理想的な布陣であった。日本建築学会四国支部日土小学校保存再生特別委員会の中に監修委員会が設置され、指導と助言を行うという体制も作られた。
 日土小学校の保存再生の成功の裏には、このような綱渡りがあったのである。もちろん仮に新たな設計事務所が選ばれていてもうまくいったのかもしれない。しかし文化的価値の高い建物の改修の場合は、本来、その現況調査、基本計画をおこなった組織が引き続き実施設計をおこなうべきだろう。また、そのような一連の作業をきちんとこなすことのできる設計者の育成も必要だろう。

 ところで入札が行われたのと同じ9月6日、日土小学校の東校舎と中校舎が八幡浜市の有形文化財(建造物)に指定された。何ともいえない日付の一致だが、たいへん嬉しいことだった。

006/『広報 やわたはま』(2007年10月号)

日土小学校が八幡浜市の有形文化財(建造物)に指定されたことを伝える『広報 やわたはま』(2007年10月号、発行:八幡浜市役所)の記事

 その後、2007年の後半からしばらくは、私は博士論文の作業に時間を割いた。
 まずは入札の日の翌日も松山に残って松村邸へ行き、松村が残していた様々な人から届いた手紙の束などの資料を奥様からお借りして神戸へ持ち帰った。蔵田周忠や内田祥哉先生などから届いた手紙である。いずれもたいへんに興味深く、これの解読による松村と外部世界との交流の分析が、やがて博士論文の後半を占めた。

007/松村家からお借りした手紙の束

松村家からお借りした手紙の束

 また10月には、そのころ曲田先生と関わっていた西予市の新市庁舎建設のためのプロポーザルの委員会へ出席した翌日の10月6日に、独立後の松村の事務所で長く働いた二宮初子さんへのインタビューを松山で行った。
 驚いたのは、二宮さんと私の間の間接的なつながりがわかったことである。彼女は、松村と同じ時期に八幡浜市役所に勤めていて、学校で建築を学んではいないのだが、松村が松山へ出て独立する際、手に職をつけたいというようなこともあり、市役所を辞めて松村の事務所で働き始めたのである。
 その二宮さんが私と会うなり、「日土小学校の保存運動のニュースで「花田」という名前を見て以来、ひょっとしたらと思ってきたのだが、八幡浜で女学校の先生をしていた親戚はいませんか、自分が教わった中に花田という女性の先生がいたのですが」とおっしゃるのである。
 この連載の[1]に書いた通り、私は現在の西予市野村町の出身だ。父親はそこに職場があり、出身は同じく現在は西予市の一部になった明浜町である。そこでさっそくこの話を彼にしたところ、「ああそれは〇〇さんのことだろう」と教えてくれた。当時としては珍しく東京へ勉強に出してもらい先生になった遠縁の女性がいて、八幡浜で教えていたというのである。
 この連載の[3]では、野村町で小さい頃に遊んでもらった近所の姉妹が、松村が設計した市立八幡浜総合病院の看護師になっていて、松村研究のおかげで再会した話を書いたが、それに続く何とも奇妙な縁を感じたのであった。なお10月5日の夜は小学3年生の秋までを過ごした野村町へ行き、当時の友人と40何年かぶりに会っていたので、さらに夢の中を歩いているような気持ちになった。

 ところで論文博士とはいえ、主査の鈴木先生への進捗状況の報告は必要だと思い、10月19日に東大の研究室にお邪魔した。もちろん本文の草稿はまだなくて、目次構成や集めた資料の画像を印刷したものなどを持参したと思う。鈴木先生は、そういったものもご覧いただいたとは思うのだが特に感想はなく、「博士論文と本や雑誌原稿との違いがわかりますか」と質問をされた。私が答えに窮していると、「博士論文には文字数の制限がありません。存分に書いて下さい」とおっしゃったのだ。
 この言葉は、書き下ろしで博士論文をまとめようとしていた私にとってこの上ない励みとなった。大げさかもしれないが、私は、「書きたいことを好きなだけ書け。それが自由ということだ」と鈴木先生がおっしゃっているように解釈した。そこで、初めに書いた積み上げ方式を信じ、ひたすら書いて書いて書きまくろうと思ったのだ。
 なおこの日の午後には愛媛のみなさんも上京し、腰原さんと構造の打ち合わせを行った。

 12月21日には西予市の市庁舎についての委員会があったので、前日20日に八幡浜へ行き、レンタカーを借りて松村が市役所で設計した4つの学校(松蔭小学校、愛宕中学校、神山小学校、舌田小学校)を訪れた。いずれもすでに建て変えられてはいたのだが、それぞれの校長先生にお目にかかり、かつての校舎に関する話をうかがい、古い写真や資料を撮影したりお借りしたりした。市役所に残る実施設計図は全てコピーしチェックし始めてはいたものの、現地に立ってみて松村の意図がわかったように思うこともあり、すべての松村担当物件をこんなふうに解読していけばよいのではないかという手応えを感じた。
 また22日には、松村が独立後に設計した病院を訪れたり、市立八幡浜総合病院の前述した看護師の知人に会い古い資料の探索依頼をしたりした。

 年が明けて2008年1月25日には、愛媛の皆さんや鈴木先生と一緒に文化庁の堀さんを訪問し、実施設計の進捗状況を報告した。もちろん私は鈴木先生に博士論文の状況も報告した。

 そして、やっとまとまった時間がとれる春休みになり、3月26〜28日の3日間、再度八幡浜を訪れてレンタカーを借り、残りの学校など(白浜小学校、尾ノ花保育所、松柏中学校、川上公民館、真穴中学校、長谷小学校、狩江小学校、新谷中学校、新谷小学校)を見るためにかけずり回った。当たり前のことだが、やはり現地に行くことは重要で、長谷小学校以外は建て替えられていたが、実施設計図だけではわからない建設の経緯や周辺環境などがよくわかり、解読作業は深まった。
 その際、またしても奇妙な縁との出会いがあった。狩江小学校での出来事である。
 建て替え前の校舎は、松村が八幡浜市役所の職員であった最後の頃に、当時は八幡浜市外の町である明浜町の町立小学校であるにもかかわらず、彼が設計したものだ。松村は「町長に懇願され」たと書いている(『無級建築士自筆年譜』154頁)。今なら考えられないことだろう(なお、初期の作品である大洲市立新谷中学校も、他市の公務員でありながら松村が設計している)。
 そして解体時には、当時の校長であった紺田満徳先生が松山にいる松村を探し当てて招待し、子供たちや親御さんなどと一緒に素晴らしいお別れ会を開いたことで知られている。私は紺田先生から当時の先生が残した校舎の建設過程を撮影したスライドの存在を教わっていたので、その現物をお借りする目的もあり訪問した。
 すると、校長先生にいろいろなお話を伺っていたところに女性の先生が入ってこられ、「花田先生ですか。主人が田之浜の土地をお借りしていたんですよ」とおっしゃった。田之浜というのは明浜町の狩江地区の隣の地区であり、私の父親の出身地だった。したがってそこに実家があり、私も小さい頃に行ったことがある。今は親戚は誰もその集落に住んでいないのだが、ある時期までは土地やみかん山があったはずなのでそのことだろうと思われた。またもや不思議な縁を感じることになったのである。
 ちなみに、紺田先生と初めてお目にかかったのは、この連載の[4]に書いた通り、1999年7月24日の「子どもと学校建築」と題したシンポジウムだ。前述のスライドのこともそのまとめ冊子に曲田先生によって記録されている。その後もやり取りは続きお世話になってきたのだが、残念ながらつい最近亡くなったと知り驚いた。しかも、松村正恒の第一発見者ともいえ、さまざまな資料や情報もいただいてきた内田祥哉先生と同じ日にだ。曲田先生から送られてきた愛媛新聞の訃報欄に並んで掲載されており、何ということかと言葉を失った。悲しみが何倍にもなる偶然であり縁であった。

998/愛媛新聞210508

愛媛新聞2021年5月8日の訃報欄