建築家・松村正恒研究と日土小学校の保存再生をめぐる個人的小史 [12]2008年〜2009年:実施設計の進行と完了、改修工事の着工、そして博士論文の完成
日土小学校の改修の実施設計は、前回書いた奇跡のような出来事が起こり、保存関係者で行えることになった。
市との契約は和田耕一さん(和田建築設計工房)が窓口となり、全体の統括と既存部である東・中校舎の改修設計を担当した。そして彼の元で、新築する新西校舎と外構を武智和臣さん(アトリエA&A)が、3棟の構造設計を東大の腰原研究室がそれぞれ担当した。契約期間は、前回書いた入札の翌日である2007年9月7日から、前回の記事の最後の時期である2008年3月31日までの半年で、新築とは違う細やかな判断が必要な仕事としては、たいへん厳しいスケジュールだった。
したがってそこには山のような苦労があったわけで、今回はその話を書くべきなのだが、私にはその資格がないし、資格どころか書くべき材料をもっていない。
いうまでもなく、ときには和田さんや武智さんから意見を求められたが、関係者全員で集まりゆっくり相談するような時間はなく、基本的な方針は皆で共有できていたし、何よりこの3人とそれぞれのスタッフの皆さんは、お任せしておけば大丈夫という有能な方々だったからである。ただし、日本建築学会四国支部日土小学校保存再生特別委員会の中に監修委員会が設置され、実施設計に対する指導と助言を行うという前提だったので、関係者が集まっての打ち合わせは何度か行われたことは言うまでもない。
ところで、嬉しいことに『住宅建築』編集部から改修前の日土小学校の姿を記録した特集を組みたいという提案をいただき、実施設計のお役に立てない私はその編集に協力することにした。
考えてみれば、改修工事が終わってしまえば、松村が設計したままの姿は二度と見られなくなる。そもそも日土小学校が建築雑誌にきちんと発表されたのは竣工時の『建築文化』1960年2月号だけだし、しかもなぜか図面も写真も東校舎中心だ。したがって、最後に記録してもらえるのは大変ありがたいことだった。さらに、進行中の改修設計の内容も発表することにし、日土小学校の保存再生計画の現状を読者の皆さんへ伝えることにした。
撮影は、2008年8月の夏休みに、写真家の相原功さんによって行われた。そしていくつかの論考と対談を加え、以下のような構成で「特集 近代木造の射程」(『住宅建築』2008年12月号)が完成した。
趙 海光「私たちは木造をどう体験したか」
腰原幹雄「近代木造とは何か」
50年代のハイブリッド木造 日土小学校(写真=相原 功)
腰原幹雄「日土小学校のハイブリッド構造」
日土小学校の不思議な技術 腰原幹雄さん・花田佳明さんに訊く 聞き手・趙海光
花田佳明「谷間のユートピア 松村正恒とその建築、とくに日土小学校をめぐる考察」
和田耕一+武智和臣「小学校として使い続ける文化財を目指して」
(和田耕一「東・中校舎保存改修」、武智和臣「新・西校舎増築について」)
梶本教仁「使い続けるという決断」
『住宅建築』2008年12月号表紙
改修前の教室(『住宅建築』2008年12月号)
改修前の外観(『住宅建築』2008年12月号)
座談会の頁(『住宅建築』2008年12月号)
拙稿「谷間のユートピア」(『住宅建築』2008年12月号)
撮影は夏休みに行われた。後でも書くが、実施設計が2008年の春に終わり、8月から改修工事が着工される予定になっていたので、最後のチャンスだった。
したがって校舎内に人影がなく、相原さんの写真は静かな気配に満ちたものとなった。しーんとした空気だけが写っていると言ってもよい。しかしその奥から、子供たちの歓声が聞こえてくるような気持ちにもなる。「これだこれだ、あのとき感激したのは」と、10数年前の懐かしい記憶もよみがえった。物と空間はそのままで、人だけが消えたような光景を写し取った写真からは、いよいよ改修工事が始まるのだということをあらためて実感した。
腰原さんの「近代木造とは何か」は、わが国の伝統的な木造建築とは別の近代木造という分類を提示し、その工学的特徴や保存再生の可能性について論じたもので、日土小学校のことを考える背景を整理してもらったともいえる興味深い論考だ。
また「日土小学校のハイブリッド構造」は、日土小学校において木造と鉄骨造が自在に組み合わされている様子を「ハイブリッド構造」と呼び、その特徴を論じたもので、まさに実施設計における耐震補強のための条件整理でもあった。
趙海光さんと腰原さんと私の対談は、9月11日に東京で行った。よくある建築計画的な話ではなく、構造的視点から日土小学校のデザインを議論した。まさに現況調査と実施設計から見えてきた事実に基づく内容だ。現況調査後にまとめられた軸組図や伏図も掲載した。
私の「谷間のユートピア 松村正恒とその建築、とくに日土小学校をめぐる考察」は、松村正恒の経歴を紹介した上で、彼が設計した日土小学校以外の学校建築の分析も加え、それらの系譜の上に日土小学校を位置づけたものである。後で書くように博士論文の提出を10月3日に終えた直後にまとめたものなので、その梗概のような内容になっている。したがって註のひとつに博士論文のタイトルを挙げ、「現在審査中」と付記した。
和田さんと武智さんの文章は、実施設計を終えた後に書かれているから、その過程での発見や、それへの考察と対応なども多く記され臨場感にあふれている。今回の原稿の冒頭に、私には実施設計の苦労を語る情報がないと書いたが、お二人の文章を読んでいただくと、その一端をわかっていただけるに違いない。和田さんの文章には、松村が設計した既存部に見出した数々の発見からの松村解釈があり、武智さんの文章には、松村建築の横に新しい校舎を作るという難問をどう解いたのかがわかりやすく書かれている。
当時、八幡浜市教育委員会におられ、日土小学校の保存再生を実現するために住民と行政との調整をされた梶本教仁さんにも寄稿していただいた。短い文章ながら、行政マンという立場での考察と苦悩が記されている。「使い続けるという決断」というタイトルの「決断」という言葉に、当時のご苦労がよく表れている。
『住宅建築』2008年12月号は、改修前の日土小学校の空間を、きちんとしたカラー写真と図面と文章で知ることができる唯一の貴重な資料である。今からでもぜひ手に取っていただきたい。
さて日土小学校の方は、春に実施設計が終わった後、工事業者の選定が行われ、2008年8月から、ついに改修工事が始まった。まずは、新西校舎に建て替える旧西校舎が撤去され、運動場に仮設校舎が建設された。
そして、そこへの引越しも終わり、中校舎と東校舎の中が空っぽになったところで、8月31日、日土小学校において、八幡浜市教育委員会と日本建築学会四国支部により、改修内容の報告会と改修前の最後の見学会が開催された。午前10時半から見学会、午後1時半からは体育館で報告会が開かれた。百数十人の地元の方や建築関係者が集まり、地元の方々も建築関係者も、日土小学校の元の姿を目に焼き付けた。
廊下との壁などに手を加える予定の職員室まわりや、法的対応から作り変えざるを得ない65mmのL型アングルが支える繊細な渡り廊下、そして新西校舎への廊下を作る旧音楽室などは、とくに念入りに撮影した。以前書いたが、台風被害のおかげで発見された金揉み紙と伊予絣を市松模様に壁に貼った旧補導室の不思議さにも、あらためて感じ入った。
報告会は、教育長・井上傳一郎さんと日本建築学会四国支部長の賀村智さんの挨拶に始まり、私が日土小学校や松村正恒の位置付けと改修計画の概要を紹介した後、和田さんと武智さんが改修計画の内容について詳しく説明をし、吉村彰先生が新しい学校建築の可能性について話をされた。
改修前の東校舎(奥)と中校舎(手前)外観。車列の左側に仮設校舎
運動場に建設された仮設校舎
空っぽになった職員室(中校舎)
「キーホールダー」
職員室と廊下の間の壁。ガラススクリーンに改修した
銀揉み紙貼り天井の校長室。このあたりも間仕切りを変えた
65mmのL型アングルが支える渡り廊下。改修工事で作り変えた
生徒会室になっていた旧図書室
東校舎2階廊下。地元の方も多く来られた
東校舎川側のテラスと鉄骨階段
空っぽになった東校舎2階の教室
旧補導室。右の壁は金揉み紙と伊予絣を市松模様に貼っている
旧音楽室。左が運動場側で、入り口の位置から壁を作り、新西校舎への廊下にした
右側にあった西校舎は解体済みで、ここに新西校舎を建設した
報告会のプログラム
当日の様子は、地元の新聞で詳しく紹介された。
愛媛新聞2008年9月1日
八幡浜新聞2008年9月2日
八幡浜民報2008年9月2日
こうして改修工事が進む一方で、私は博士論文の執筆を行っていた。ただし学科主任もやっていた時期で大学の仕事はきわめて忙しく、そのわずかな空き時間を使っての作業である。時間があればとにかく書く、調べる、画像のスキャンをする。そのいずれかを必ずやった。オープンキャンパスや入試などのない休日は、使える時間はすべて博士論文の作業に充てた。
集めた資料、自分の能力、松村正恒の特徴などを考え合わせ、建築史的研究というよりは(正直言って何が建築史的研究なのかはよくわからないが)、彼の建築的思考の研究をしたいし、私にはそれしかできないと考えた。その結果、やるべきことは以下の4つだと判断し、それが目次構成にもなった。
(1)松村正恒の経歴を詳細に調べ明らかにする。
(2)松村正恒の八幡浜市役所時代の設計物件すべての設計と建設の経緯を明らかにし、その建築的構成を分析する。
(3)松村の自宅に残された彼宛の手紙を分析する。
(4)以上を総合して松村の思考のメカニズムを明らかにする。
建築史と建築計画と設計方法論と伝記が混ざったコウモリみたいな論文だなとは思ったが、迷っている暇は全くなかった。
(1)については、宮内嘉久によるインタビューをおさめた『素描・松村正恒』(建築家会館、1992年)や、松村自身の『無級建築士自筆年譜』(住まいの図書館出版局、1994年)・『老建築稼の歩んだ道』(私家版、1995年)などで本人が語ったり書いたりしていることがらを細かく確認し、情報を増やしていく作業を行った。また、松村家には、武蔵高等工科学校時代の卒業アルバムや松村家の家族写真などがあり、それらをお借りして、若き日の時代の空気をできるだけ再現することに努めた。
(2)については、八幡浜市役所に保管されていた図面一式のコピーは以前とらせていただいていたので、建物ごとに縮版も作り、それらの図面を解読していった。また、松村家に残る各建物の写真などもお借りし、図面との比較を行った。もちろん、彼と彼の作品について論じた文章などはできるだけ集め、分析した。
(3)については、前回も写真を掲載したが、松村家には蔵田周忠や内田祥哉をはじめとして、松村が関わりをもった建築関係者からの手紙や葉書が松村の手によって分類・保管されており、それをお借りして全てを読んだ。(1)と(2)はいわば松村の輪郭と外側の世界の分析といえる。一方私には、戦後東京から郷里へ戻り、八幡浜市役所時代には地方都市の一公務員として働き、独立後は松山で大小400以上もの建物をひたすら設計した彼が、自分をどう支えていたのかが気になった。焦りや孤独感はなかったのか、あったとしたらそれをどう克服したのか。そういったことが他人事には思えなかった。そこで、松村に届いた手紙や葉書から、彼が書き送った内容も想像しつつ、彼の内面を少しでも明らかにできないかと考えたのである。
2008年の手帳を見ると、(4)としての「結論」の章は、博士論文の完成の2週間前くらいから書き始めている。(2)で細かく分析した作品群の建築的変化に対し、(1)(3)で行った考察も加味した上で、どういう言葉を与えるとよいかをぎりぎりまで考えていたようだ。
結果的に、「自己参照的メカニズムによるデザインの展開」、「建築の意味が確定することの拒否」、「価値観を明示した総体的建築の提示」という3つのフレーズへと整理することにより、自分が松村の建築に感じてきたものを言語化できたという実感をもった。
タイトルはいろいろ考えたが、オーソドックスに、「建築家・松村正恒に関する研究—八幡浜市役所における活動を中心にして—」とした。
ただしその後、この博士論文を単行本化した『建築家・松村正恒ともうひとつのモダニズム』(鹿島出版会、2011年)の「あとがき」に書いた通り、この結論に漂う建築の自律性への信頼は、卒業論文と卒業制作あたりから実感し始めた自分の中の建築観であり、そしてそれは大学院生時代に広部達也先生から教わった建築空間理論の枠組みの上にあるのだと理解した、まさにその枠組みの上に再び乗っていたのだと再認識することになる。
そして、すべてのデータをPDFにし、自宅で必要部数をプリントアウトしたのが9月30日から10月1日にかけてで、予約してあった三宮の印刷屋に持ち込んで製本し、完成したばかりの何冊かの論文をスーツケースに詰め、10月3日(金)に新幹線で東大へ向かった。
提出先は丹下健三が設計した本部棟だ。意気揚々と事務局に差し出し必要書類のチェックを受けたところ、副題のハイフンの表記が申請書と論文本体で違うという指摘が出て血の気が引いたが、書類を修正し郵送すればよいと言われほっとした。
その後、建築学科の同級生である松村秀一君を研究室に訪ねて久しぶりの雑談をし、約束の14時に鈴木先生の研究室にも行き、提出できた旨の報告をした。鈴木先生からは、副査は藤森照信先生・難波和彦先生・西出和彦先生・松村秀一先生になったことと、公聴会は11月後半から12月の10時から12時に行われ40分間発表をする、したがって準備を始めるようにという指示を受けた。
小さな宿題は残ったが、軽くなったスーツケースをゴロゴロと引っぱりながら、本郷通りを本郷三丁目の駅に向かって歩いたことを思い出す。
博士論文の表紙(後に提出したハードカバー版)
博士論文の中身
その後、公聴会は12月19日(金)と決まり、前日の3年生の設計課題の最終講評会を終えた後に東京へ移動して一泊し、19日の公聴会で準備した100枚のスライドを使って発表した。副査の先生たちからいくつかの質問が出たが、松村秀一君の「松村正恒みたいには人は他にはいなかったのか」という問いが一番悩ましかった。全貌は私には見えていない、松村を研究したのはその建築が素晴らしいと直感したから、そのことの証明がこの論文の目的と結果、という循環論法みたいな答えをしたはずである。
そして、学位がおりたとのメールを2009年2月2日に鈴木先生からいただき、2月16日(月)に研究室へ伺い学位記を受け取った。恥ずかしいが、亡くなった鈴木先生の思い出として記念写真を掲載する。
鈴木先生との記念写真
2月3日には鈴木先生の最終講義があったが、学科の卒業制作の最終講評会などと重なり、残念ながら出席できず、その後公開された動画で拝見した。しかし幸い、3月28日に東京デザインセンターで鈴木研究室の卒業生による鈴木先生を囲む会が開かれることになり、私にも声をかけていただき参加した。
研究室に学生として所属した身ではないので驚くとともに、論文博士とはいえ弟子のひとりに数えていただけたのだと嬉しかった。しかし、博士論文を書くにあたり、建築史的研究ができるとも思えず、まして建築史の研究者だという自覚もないコウモリ人間の私は、多くの建築史プロパーのOBの皆さんが眩しく見え小さくなっていた。
印象的だったのは、鈴木先生の最初のご挨拶だ。それはすべて英語で行われ、「私にとって皆さんはcolleagueである」というところで涙ぐまれたのである。「Colleague」、つまり仲間だ。先生と学生でもなく、師と弟子でもなく、仲間であるとおっしゃったのだ。どう解釈するのがよいのかわからないが、一番最後に駆け込みで弟子入りした私は、嬉しさと面映さが入り混じる不思議な気持ちに襲われた。今になってみると、私などは知る由もなかったご病気のことがあったのかもしれないと思ったりもする。
日土小学校の改修工事は、2009年3月に新西校舎が一足先に完成し、6月の竣工をめざして着々と進んでいた。