見出し画像

放課後の焼却炉・後(小説#5)

前話            話一覧            次話

「小学校のとき、とても仲のいい子がいたの。家も近所だし、学校にはよく一緒に通ってた」

    何年も経ち過ぎて忘れそうになるけれど、周りで妙なことが起こりだすまでは、私にも友達が沢山いた。近所のその子とは、お互いの家にもよく行って、一緒に遊んだっけ。この事件をきっかけに、段々話さなくなっていったけれど……。

「その日も、いつも通り学校から帰ってた。最初は五人くらい一緒だったけど、帰る方向が違う子から別れていって、最後はその子と二人になった」

    全くいつもと同じだった。ランドセルを背負って、こどもの小さな歩幅で二人で歩く。他愛のない話をしながら、電気屋の前を通り、ガソリンスタンドの前を通り、住宅地を通り……小さな川にかかる橋の上にさしかかったところで、

「友達の、水筒の紐が解けたの」

    留め具が壊れたのか、水筒は音をたてて落ち、吸い込まれるように川に向かって転がり見えなくなった。楽しそうに笑っていた友達が途端にしょげて泣きそうになっているのを見て、なんとかしてあげなくちゃ、と、気が急いたのを覚えている。
    橋の横に、川に降りるための小さな階段があるのは知っていた。べそをかく友達の手をひきながら、その階段を慎重に降りていく。あの日も夏の終わりくらいだった。夏の間に好き勝手に生い茂った草が階段の上に被さって、滑りそうで怖かった。
   サッと拾って、すぐ戻るつもりだった。でも、友達の小さな水筒は、意外な程見つからない。浅く小さな川だったから、水のなかに落ちても見つけられるはずだ。しずき達は堆積した砂利や、小さな岩の上を跳ぶように移動しながら懸命に探し続けた。
    あった!    と声をあるまでに、どれくらい時間が経っていたんだろう。十分?    二十分?   予想外に時間がかかった。

    ……その後のことを考えたら、それくらいの時間、大したことはなかったのだけど。

    大きなススキの根本に引っ掛かっていた、ピンクのキャラクターものの水筒を、体を目一杯伸ばして拾い上げ渡してあげると、友達はほっとした笑顔を浮かべて嬉しそうにお礼を言った。良かったね、と二人で喜んで、戻らなきゃと後ろを振り返ると。

ーーあれ?

    橋が、見えない。探し物に夢中になって下ばかり見ていた二人は、初めてその事に気付いた。

    思ったより移動しただけだと、その時は思った。友達も、遠くに来ちゃったね、と呑気に笑っている。

    来たときとは反対に、川の流れに逆らって行けば、すぐに戻れるはずだ。そう信じて引き返し、橋の横の階段に戻ろうとする。ついさっき通ったばかりで見覚えのあった川の様子も、何度も同じような中洲や岩場を伝っているうち、見たことがあるのかないのか、分からなくなっていった。

    ……一向に、何も見えてこない。
    おかしいね、今どこらへんだろうと話しながら川の上を見上げても、白いガードレールの裏側が延々続くのが見えるだけで、その向こう側は、ほんのり赤く染まる空だけだった。
    それは違和感だった。歩く人とか自転車とか、街路樹とか。何か見えてもいいのに。人の声も、車の音もしない。周囲は、水の流れる音と青臭い川の臭いだけ。

    子供心に、何か変だな、と思った。でも、とにかく進むしかない。 二人で必死で歩いた。靴に水が入ってきて、重いし冷たいし、歩く度にぐちょぐちょ音がして気持ち悪かった。不安で気持ちがパンパンになって、言葉を交わす余裕もなく、濡れるのもお構いなしに、夢中で水のなかをザブザブ歩いた。そうしてるうちに、どんどん空が暗くなってきて、足元も分かりづらくなってきて……。

    バシャンと大きな音に振り向くと、友達が深みに足をとられ転んでいた。水のなかに膝と手をついたままこちらを見上げてくる、強張った、血の気のひいた顔。それはみるみる歪み、わあっと声を上げて泣き出した。 

    助け起こそうとしたしずきの腕を振り払い、友達は水の中に座り込んだまま大声で泣き続ける。友達の号泣する声と、自分のわななく息を聞きながら棒立ちになったその時。

ーーおい、いたぞ!

    大人の声。見上げると、ガードレールの向こう側から覗き込む沢山の人の姿と、懐中電灯の光が見えた。

「あ、階段があったよ!」

    少女が指差す先に、校舎の三階から二階に降りる階段が見えた。少女が先に駆けていって下を覗き込み、こちらに手を振っている。無限に続くかと思える廊下にようやく終わりが来たことに安堵するはずのところ、しずきはどこか上の空だった。
    ようやく見つけた階段よりも、光に照らされて、夜の闇の中ちらつく、川の水面の方が強く目の前に広がっていた。

「……そこからは早かったな。大人の人が川のなかを歩いて助けに来てくれて、私とその子を抱っこして運んでくれたの。あんなに見つからなかった階段はすぐそこにあって、あっさり橋の上まで戻ってこれた。外は真っ暗で、もう夜の八時を回ってた。小学生が日が暮れても家に帰らないから、近所の人達が捜してくれてたの」

「……お母さんは?」

「え?」

    二人で階段を降りる。先に二階の廊下に降りた少女が、見上げながら尋ねてきた。

「そんなに遅くなったら、お母さんが心配したんじゃない?」

「……母さんは……」

    橋の上には、沢山の人が懐中電灯を持って集まっていた。ケガはないかい、と知らない男性に尋ねられ、気が緩み、涙がこぼれそうになる。

    その時だった。

    マユ!    と、金切り声。飛んできたのは、友達のお母さんで、橋の上でいきなり我が子を張り飛ばした。そして、心配かけないでと涙声でいいながら抱き寄せる。友達は、母親の腕のなかで、怖かった怖かったと叫びながらワアワア泣いた。

    ……私は、その横で棒立ちになった。

ーー久坂さんのお母さんは?
ーーさあ……連絡がつかないらしい。

    涙がこぼれそうになっていたはずだった。
    でも、母親に抱きしめながら大声で泣く友達を、一人で立って見ていると、気持ちが凄い勢いで冷えていくのを感じた。

「母さん、あの頃は、今みたいにずっと家にいないなんてことはなかった。夕方には家に帰っていて、ご飯も一緒に食べてた。……たまたまなの。あの日は、たまたま仕事で遅くなってて……」

    二階から一階に降りると、エントランスが広がっている。焼却炉は、ここか外に出て、校庭沿いに回り込んだ先にある。
    しずきは、そっと靴箱を覗いた。果たして、自分の外靴は一揃い入っている。でも、暗い隅にじっとうずくまる靴が、どうしてもいつも履いているものとは思えず、履き替えることなく外に出た。上履きで土を踏む慣れない感覚。でも、それ以上に慣れないのは、目の前に広がる光景だ。暗い赤に沈む無人の校庭は、まるで砂漠のように思えた。

「近くのバス停のベンチに座らされて、そこでお母さんを待つことになったの。近所の人達も一緒に待ってくれてた。夜遅くまでそばにいてくれて、親切な人達だったけど……でも、その話し声がずっと聞こえてきてた」

ーー家に帰ってこないって捜されてたのも、横田さんの子供さんたけだそうよ。
ーーおいおい、久坂さん、娘がいなくなってたことにすら、気付いてないんじゃないか?

    ……やめてよ。

ーーこんな時間まで連絡がとれないってどういうことだ?
ーー普段、ちゃんと面倒見てあげてるのかしら。

    ……お母さんのこと、悪く言わないで。

    どれくらい待っただろう。
    スミマセン!    と慌ただしい足音をさせ、人混みを掻き分けて母が来たとき、友達とその母親はとっくに帰ってしまっていた。

    母は、この頃から、どちらかというと無口で無愛想で、友達の母親のような柔らかい笑顔など見せることのない人だった。
    でも、いつもキリと前を見る頼もしい横顔がしずきは好きだったし、仕事で忙殺されるなか、家のこともキチンとこなすその大変さも、なんとなくだが分かっていた。

    だから。
    そんな母が、非難の視線をあびている。自分のせいで、頭を下げながら肩身が狭そうにしている。それが無性に悲しかった。

ーー久坂さん。何もなかったからいいけれど、こんな時間にようやく、ですか。

    ーー申し訳ありません、気を付けます……。

ーー横田さんが気づいてくれたから良かったものの……。お子さんも、真っ先に迎えに来られて、もうとっくに帰られましたよ。

    ーーはい、ご迷惑をおかけしました……。

ーーまだ娘さんもまだ小さいでしょう。もっと気にかけて、一緒にいてあげなきゃ、可哀想じゃないですか。

ーーやめて!

    たまらず顔をあげて、声を出していた。  

ーー大丈夫だから!    私、お母さんいなくても平気だよ!

    ガシャン!    と大きな音。
    はっと見ると、少女が錆び付いた金属製の扉をひいて、中を覗き込んでいる。
    胸辺りまでの高さの、錆色のひしゃげた箱。焼却炉を間近で見たのは初めてだった。遠くからは薄墨のように見えた煙も、間近で見ると太く勢いがある。

「わあ、凄いね、ほら」

    少女が指差す炉の中では、炎がチロチロと生き物のように揺れている。そっと手をかざしてみた。

「熱い……」

    ぶわぁと大きく炎が背伸びし、頬を熱がひりつかせる。全てが静的なこの世界で、うねり熱を吐く炎の存在は異質に思えた。

「そうだ、プリント……」

    ポケットから、授業参観のプリントを取り出す。これを燃やすために来たんだっけ。熱風に煽られはためくそれを、しずきはしばらく見つめた。

「ね、さっきのお話は、もう終わりなの?」

「……うん、おしまい。そのままお母さんに連れられて、家に帰った。今思えば、私の周りで不気味なことが起こり始めたのは、その頃からで……あのときの友達も、怖がって一緒に帰ってくれなくなっちゃった」
    
    ためらう気持ちを首を振って打ち消す。燃やしてしまおうとそのお知らせを炎にかざしながら、ふと、思い出した。
    あの夜。責められる母を庇おうと、思わず叫んだ後。……気のせいか、こちらを見た母が、ひどく傷ついた顔をしているように見えたっけ……。

「あ……」

    飛んだ火の粉が移ったのか、プリントの端が黒くなり、そこから溶けるように形は崩れる。指先に熱を感じ手を離すと、あっという間にプリントは、炎の光を弱く放ちながら空中に霧散した。

※        ※        ※

「燃えちゃった……」

    空になった手を、しばらく茫然と見つめる。理由のはっきりしない喪失感。それをもて余していると、少女が話しかけてきた。

「ねえ、今はもう焼却炉は使われてないはずって、あなた言ってたでしょう?」

「うん……」

    そばに立っているはずの彼女の声が、ずっと後ろからする。離れたのかな、と大して気にせずに、しずきはぼんやり燃え続ける炎を見続けた。

「でも、ここでは焼却炉は動いてる。つまり……現在とか過去とかが、ここではあべこべになることもあるの」

「あべこべ……?」

    戸惑って振り替えると、誰もいない。あれ、と呼び掛けようとして、少女の名前すら知らないことに気付いた。

「だから、ね」

    見渡しても、見つからない。姿がないまま、声だけがどこからか響いた。

「あなたが聞いた、焼却炉で燃えちゃった子の話。それは嘘じゃないかもしれない。ここで、これから起こることかもしれない」

    ゴウ、と低い、唸るような音に振り返ると……焼却炉の炎が、見上げる程高く、柱のように噴き上げている。

「あ……」

    衝撃で立ち尽くすほんの数秒の間に、周りの空気がとんでもなく熱く変わった。後退り、そして逃げようと振り向くが、そこにも、炎の海が広がっている。

    なんで!!

    炎が起こした風で髪が煽られる。右も左も、前触れなく起こった炎の渦で埋めつくされ、どこにも逃げ場がなかった。

    熱い……息が出来ない……!

    死ぬのか、と思った。
    焦りと恐怖のなか、少女との屋上での会話が脳裏をうっすらよぎる。

    死んでもかまわない。
    死んでもかまわない?

    ……嘘だ。
    死にたくない!

「こっちだ!」

    炎が唸る低い轟音をついて高く響いたのは、子どものように細い声だった。
    手首を掴む、冷たい感触。
    熱から逃れようと体を丸めた体勢のまま引き摺られる。
    もう何も考えられなかった。もつれた足で、歩いたのか、歩いてないのか……ガタンと引戸を開けるような大きな音がして、前のめりに放り出される。

    冷たい空気。冷たい床の感触。
    うつ伏せの状態から、そろりと顔を上げた。うって変わって、物音ひとつしない。

    ここは?

    暗くて、何も見えない。身を起こすと、ギシリと床の軋む音がした。柔らかい感触。畳……?    手を伸ばすと、ざらりとした漆喰の壁の感触がする。

    家の、なか?
    冷たい空気と一緒に、古い家特有の木が湿ったような匂いがする。

    なぜ。さっきまで学校にいたはずなのに。いや、それよりも……

    助かった……。

    壁に手をつきながら、震える足でなんとか立ち上がる。何も見えないなか、手をそっと前に出して周囲を探ると、カタンと音がして硝子戸らしきものに当たった。ガタガタと少し立て付けの悪いそれを開け、摺り足で出てみる。硬い木の床の、廊下。手探りで探し当てたドアノブを回す。ギイと軋んだ音を立てながら、開いた。

    屋外ということを感じさせる、空気の流れ。段差を降り、地面に立って、しずきは大きく息をついた。

    真っ暗。
    夜なのかな……。

   涼しい風が、立て続けに起こる出来事に麻痺した思考の表面を撫でた。

    振り返ると、蔓草の絡み付く、土壁の大きな家がじっと横たわっているのが、闇のなかぼんやりと見える。自分はこの家の裏口から庭に出てきたらしい。広いが、雑草が伸び放題の荒れた庭を見つめながら、ここはどこだろう、とぼんやりと思った。なんとなく、見覚えがある気がする。けれど、疲弊した頭は上手く回らず、考えることが出来ない。しずきはとりあえず外に出ようと、とぼとぼと歩き出した。

    疲れた。どうかもうこれ以上、何も起こらないで……

「……しずき?」

    思いがけない声に体が跳ねた。振り向いた先にいるのは……。

    母だ。
    疲れきった表情を浮かべ、驚愕に目を見開いて、こちらを見ているのは、突然現れた母だった。

「あなた、何してるの! こんな時間に、こんなところで、何してるの!」

    激しい叱責のような口調に、思わず身を翻して逃げた。
    なんで?    なんで、母さんがいるの?

    背後から、待ちなさいと、刺すように鋭い声が追ってくる。夢中で走り、門を走り抜けた。
    と、土を蹴っていたはずの足から、硬いコンクリートの感触が伝わった。白い、弱い明かりに照らされたフェンスの影が足元に落ちる。
    風に混じって聞こえるのは、遠くから聞こえる犬の遠吠え、ガタゴトと電車の通って行く音。

    夜の、学校の屋上。
    ハアハアと息をつくしずきの頭上で、白い月が光っていた。

次話↓
頑張って書いてます。
たぶん、菊池絵莉那視点になります
   

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?