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布置の病

 秋は嫌いだ。いやでも僕をえずかせるから。
 秋は嫌いだ。いつでも追われる立場にあるから。
 冬が終わって春が来る。夏が来る。そうすると次に来るのは夏が終わる。
 秋が来るとは、言うが他に比べれば言うことは少ない。
 そうして秋は何処へ経ち消え来る冬。
 僕まで秋を嫌っちゃかわいそうじゃないか、とも考える。
 だから僕は秋を好きにならなくちゃいけない気がしてくる。
 だけど秋は僕に寂しさを分つことを強いてくる。
 だから嫌いなのだ。

 秋は好きだ。どこにいるかは知らないけれど包み込んでくれるから。
 秋は好きだ。悲しみと仲良くできるような気がするから。
 秋には実がなる。美味い飯を食えるし、時のたまには身体を動かしてみようかという気にもなる。
 だけどそれは秋のものではないのだ。秋そのものを形容しないシンボルなのである。またそれが秋である必要もない。夏という季節が暑すぎるからそうなるに違いないのだ。
 だからといって秋を嫌いになるべきかと言われれば私は詰まる。「好き」は私との間においてのものであるから。

 一〇月初旬、私は山小屋にいた。高見石にあるその小屋からは星がよく見えるという。私は夜になるとスマホとイヤホンを持って外に出た。その近くの岩場をヘッドライトで照らしつつ登り腰掛けると、そこからは二千メートルもないのに不思議と天頂の星が地平線よりもずっと近くにあった。そうしてしばらくしてネオプレン製の手袋越しに岩の冷たさを感じつつ振り返ると、ふと月がかった岩の天辺に人を感じた。私は呆けていた。

 その時聴いた曲といえばバンドだろうが機械音声だろうがとにかく秋に合う曲だった。というよりは、「今僕が一人歩いている」環境に合った曲を聴いていた時が秋であり、それがあの時星に重なったのだった。細く通った一本の声は夜想曲のようにも感じた。私にとっては、夜想曲は昼を想う夜を想う曲なのだ。夜に人は昼の明るさを想う。また来るともわからない昼を想って人は寝に入るのである。

 人々は昔、夜空の黒に何をみたのだろう。僕にさえあの岩場から天球が近くに見えたのだ。人々は近づこうとしたに違いない。しかし離れていくばかりの恒星天に人々は気付いたのだ。星々は立体的で描けやしないのだ。知ろうとするほどに遠ざかるよるべ無さに人は支えを失った。高く構造化された街は透視図的に無数に針を通して僕を安心させるが、根っこはすぐ現れる。街灯は決して夜を克服などしてはいないのだ。

 けれどもそれでいいんじゃないかな、とも思う。人はそこまで強くはできていないのだ。だから煙に揺らめくし筐体の騒音に囲まれるしプルトップ式のカップ酒をあおるのだ。
 自分探しの旅も似たようなものだと思う。人は一人で生きているのではないけれど、一人じゃ生きられないという訳でもない。そうではなくて、人が一人で生きていて、人と出会うのだと思う。「自分」が「ここ」にいることくらい分かっているのだ。分かってはいるのだけれど、それを再確認したくなる時が人にはある。だから人は一人自分を探しにいくのだ。

 なんて、こんな自分の考えを誰かに話すこともないんだろうけどね。

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