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冬の匂いがした

さしてお気に入りでもない大きな本屋の前でバスが減速する。私が好きな本屋はここではなくて、一つ先の通りを南へ抜けた路地の中にある方の本屋だ。そんな事を思いながら、いつも通り席を立った。

別にここで降りる必要はない。でも毎回ここで降りては、気に入っていない本屋の中を抜けて商店街に入り、そのまま大通りへ出て人混みの中を散歩して、別のバス停から家の近くへ向かうバスに乗るのが私のルーティンになっていた。悪く言えば時間とお金の浪費。何とか頑張って良い方向に考えるのなら、運動不足の身体を動かすための散歩、くらいのものだろうか。

バスが完全に停車すると、無機質な機械音をたててドアが開いた。バスの系統番号と、行く先を告げる機械的に録音された女性の音声は、耳に押し込んだイヤホンから流れる音楽に遠く押し流されながら、微かに聞こえてくる。運転席の前でカードをタッチして運賃を支払い、寒くなってきたからと今朝ようやく引っ張り出したショートブーツの踵を鳴らしながらバスを降りた私の頬に、ぴっと切りつけるような風が吹きつけた。想像していたよりも外の世界は寒い。昨日お気に入りの美容室で切ってもらったばかりのショートボブの髪が、乗せた黄色ごと揺らして大きくなびいている。

いつも通り歩いていれば、少しは寒さもましになるだろう。そう思って寒さにきゅっと肩を竦めたまま、私はお気に入りではない本屋を通路的に突っ切るだけのつもりで入店する。イヤホンからはお気に入りの曲。店内のBGMはどうでもいい流行りの曲。遠くから聞こえるどうでもいいBGMがお気に入りの曲に混ざって、首を傾げたくなるような音になる。BGMも、店の広さも、客層も、店員のエプロンの色も、何もかもがどうもしっくりこない。この空間に居る時に嫌いじゃないのは、本屋特有のあのにおいだけだ。

細身のデニムに包んだ足をずんずん進めて、ようやく反対側の扉へたどり着く。私はちょっとだけほっとした気持ちになって、開きかかった自動ドアに身体を捩じ込むようにして商店街の通りに入る、はずだった。

あ、と気付いたときにはもう遅かった。少し前まで毎日のように見ていた目、鼻、唇。私が買ってあげたドイツ軍迷彩のパンツ。嫌いだった深く開いた黒いUネックのシャツの襟ぐりで、じゃらり、と音を立てるドッグタグ。最悪。

何か言いたげな顔をそこに残したまま、逃げるように踵を返して、気に入っていない本屋を先程の1.5倍くらいのスピードで逆戻りする。かつかつかつかつ。イヤホンをしているはずなのに、やけにブーツの踵の音が耳について、流れ込んできていたはずの椎名林檎の声が遠くから聞こえる気がする。

「出逢ってしまったんだ」

ああそうだ、私は出逢ってしまった。この世で一番出逢いたくない人に、今。だからこの本屋は嫌いだ。『お気に入りじゃない』から、今まさに『嫌い』になった。最悪。最悪。最悪。

絶対に振り返ったり立ち止まったりしないと心に決めて、元来た道をきれいに後戻りした私は、何の用もなく立ち入った最悪な本屋からようやく抜け出した、その瞬間。鼻の奥をつんと突くような、温度とも空気ともつかないそれに気付いて、闇雲に前へ進んでいた足が不意に止まった。

温度でも空気でもない。これは「匂い」だ。

肺の中がぎゅうっと縮こまってしまうような冷たい空気を、溺れるみたいに鼻から何度か吸ったり吐いたりを繰り返すと、その「匂い」はいつの間にか消えてしまう。泣き出したくなるほどつんとしていた目頭も、いつの間にかその痛みを失っていた。私はいくらかほっとして、また足を前に進め始めた。

2階だけが喫煙スペースだったのにいつの間にか全席禁煙になってしまったけれど、たらこパスタが絶品でお気に入りの洋食屋。誰にお土産にしても喜んでもらえる、いちご大福が名物の和菓子屋。私にぴったりのサイズの靴を奇跡的に品揃えしている靴屋。大好きなチェーン店のコーヒーショップ。気になっていた北欧のブランド食器が並ぶ雑貨屋に、絶対に買おうと思っている万年筆がショーケースに入っている文房具屋。そうだ。私はこの通りが好きだったのに避けていたんだ。

胸元の金属音、足元の靴底の音、ちょっと冷えた左手と、右側から聞こえる声。この通りを歩くと思い出すそれを全部忘れたかったから。さっきの最悪な本屋にそれは全部置いていこう。決めた。そうだ、そうしよう。

右手の人差し指だけ少し剥がれた赤いネイルは帰ったら塗り直そう。いつものルーティンとは外れた道からいつものバス停に向かって、好きなものに満ちた通りを進む。イヤホンから流れ込む音楽はいつの間にか曲目を変えていた。

これは「逃げ」じゃない。自分の心を守るための「防御」だと心に言い聞かせて、またひとつ大きく息を吸い込むと、もう一度冬の匂いがした。冷たいのか泣きたいのかわからないような鼻の奥の痛みに、少し笑えてくる。そうやって私は、アンハッピーに気付かない振りをした。

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