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意識しすぎると死んでしまうもの

偶発性が生み出す魅力

「アートから感じる魂を、呼吸とともに取り入れたい」

そんな内なる欲求から外へ出るのですが、行き先はその場で決めることが多いです。「ここで〇〇を観るんだ」というより、「銀座のどこかでアートを観れたらいいな」という無計画さが気に入っています。

その方が、もっともっと感動がある気がするから。
事前知識をばっちり入れて行ってしまうと、何かを失ってしまいそうな気がするのです。

そんな無計画な旅で出合ったのは、井田幸昌の作品でした。

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Crystallization(結晶化)と題されたそのカラフルな展示は、書店の中に突如として現れ、目の前いっぱいに広がっていました。

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「勢い」「感覚」「無心」・・・まさにそんな言葉がぴったりで、そのランダムな筆遣いを興味深くじっと見つめてしまうのでした。

同時に「この筆遣いが考えられたものであったら、そして、作品に関する具体的な説明があったら、面白くなくなってしまうかもしれない」との想いもよぎりました。キャンバスでの出来事がランダムで偶発的だからこそ、そして、Crystallizationだけですべて終わらせているからこそ、その作品の自由度に魅了されるのでしょう。

あえて具体的にしないことによる世界観

なんとなく井田幸昌をもっと知りたくて、個展「Portraits」に関するインタビュー記事を読み、彼の核となるものを感じました。

ーーとくに海外では、作品について言語化することを求められますよね?

 そうですね。でも「とくに何も考えてないよ」って答えてます(笑)。......いや、もちろん考えてるんですが、作品に考えそのものが表出しているわけではありません。言語化できる前の段階の深いところでなにかしらの言語が発生していることを自覚はしているけど、言葉で表現しようとすると違うものになってしまうので、絵を描いているんだと思うんです。思考を完全に具象化してみたいといいますか。だから、絵画自体が言語でもあるだろうし、僕が言うべきことは最低限に留めたい。
「一期一会」のように核となる言葉は提示しても、ニュースキャスターの原稿のように決まったものを読み上げるのとは異なります。僕の作品に関していえば、どうやって見るか、読み解くかは制約を持ってほしくないですね。でも、絵を通して時間軸の共有ができたらいいな、とは思う。きっと、いい作品というものは時間を持つと信じているので。

時として、言語が制約になってしまうのかもしれません。

"記号化" すると誰でも理解しやすくなる分、記号化できないものはそぎ落とされるわけです。そこには自由度はなく、それ以外の可能性は起こりづらい。だからこそ、彼は絵を描くことにこだわっているのではないでしょうか。

プロ選手のプレーを、一言で下手くそにできる方法があるそうです。
―――「そのプレー、どうやったのか教えてくれませんか?」
これまで無意識的に身についていた動き(これは、脳の自動系システムに保存される)を意識的に評価することで、もともとの自動的な動きの完璧さを失うのだそうです。

つまり、意識して感覚的なものを言語化すると、元々あった世界観の一部をそぎ落とさざるを得ない。それは、脳の構造でも説明できることなのです。

決められない過程を味方につける

言葉は便利なものであるがゆえに、人の思考を縛り付けることがあります。「Aは、間違いなくAである」と決めつけてしまいます。

それに比して、アートの捉え方には幅があります。それは、特に「不安定」で、曖昧で、すっきりしないかもしれません。
ですが、「Aである」と決めつけられない過程は本当に素晴らしい贈り物で、その自由度が可能性を拡げてくれるはずです。

白・黒はっきりしないとフラストレーションが溜まる人は多いようです。
そんな人は、「決めつけられない過程は贈り物だ」との前提で生活すると、少し捉え方が変わってくる気がしませんか?

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