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萩を訪ねて Part2   -萩城跡-

こんにちは。

萩を電撃訪問した記録の更新になります。萩を訪ねて Part1は以下です。


吉田松陰の史跡を巡り、そのまま萩城跡に向かいました。
夕暮れまで、今しばらく時間があります。

駐車場に車を停め、いざ萩城跡へ。



案内看板より、文字抜粋。

国指定史跡 萩城跡
所在地 萩市大字堀内字旧城
指定年月日
昭和二十六年六月九日
萩城は関ヶ原の役後毛利輝元が慶長九年(1604)築城に着手し四年後の同十三年(1608)に至って完成したものである。萩市街隅、指月山(標高143メートル)の麓に位置し山名をとって指も呼ばれた。山麓の平城と頂城とを併せた平山城である。当時輝元は隠居していたがその子、初代藩主主秀就が幼少のため、築城後も政務を執っていた。以後代を重ねこと、十二代敬親に至って幕末多端の国事を処理するに不便なため文久三年(1863)四月山口に移った。ついで明治七年(1874)建物のすべてが解体された。本丸には高さ14,5メートルの五層の天守閣があったが、今はその台座のみ残っている。周囲には石異を築き内部には藩主の居館ならびに藩役所と付属建物があった。この城は259年間防長両国政治の中心であり明治維に大きな役割を果した重要拠点でもあった。

萩市教育委員

うーむ、とても重要な拠点ですね。日本海に面しており、容易に船を出すことができます。以前は造船所もありました。

萩城での営みを想像しつつ、跡を進んで行きます。
平日且つ夕暮れ前ですので、観光客は両指で数えるくらいだけでした。


そして、さらに進みます。

写真の通り、陸続きの隣には小高い山があります。ここは、指月山といい、標高百四十三メートルです。

せっかくなので、山頂を目指すことに。



萩城要害跡
ここ、指月山の山頂(標高百四十三メートル)は、要害または丸と呼ばれ、戦時に絶城するための、まさに最後の砦であった。
要害は周囲を石垣と土塀でとり囲み、要所には矢倉を配置していた。
平時には眺望の利く大小様々な矢倉から陸地と海上を監視した。
矢倉内には緊急時に備え、武器類も配備されていたようである。
矢倉門である要害門矢倉を抜けると、二の丸(東西十九間・・・三十七・四メートル、南北二十間・三十九・四メートル)が広がる。
建物は現存しないが、二の丸には監視役の執務場所である要害番所と宿所である居小屋が存在した。
さらに一段高くなった東側には本丸(東西二十四間•••四十七・三メートル、南北二十間·三十九・四メートル)があった。本丸には天守が存在したという記録はないが、藩主が要害登山時に儀礼空間や酒肴の場として用いた茶屋が建っていた。二の丸と本丸との間は土婦で仕切られ、両者は棟門で連絡していた。また、本丸の東端には裏門となる理門があった。なお、鬼門の方角にあたる北国矢倉の石垣は北東隅をいた石積みとなっており、興味深い。
この他にも飲料や消火用の貯水施設であった用水や池、石垣石材を調達した石切場などが残っており、要害の機能や築城過程の一端をうかがい知ることができる。




汗はそこまでかきませんでしたが、多少心拍数は上がっていました。夏なら汗だくでしょう。景色は最高でしたが、無人の萩城要害跡のため、悪戯を散見してしまいました。



名前を刻むなら、歴史に名前を刻めるよう勉学に励みましょう。時間は有限であります。


美味しい有名なうどんを食べ、萩を一望できる旅館に泊まり、帰路に着きました。

萩は、きゅっと納まった街です。もう少し時間を取り、色々な史跡を巡るほうがよかった、と少し後悔してます。いつになるか分かりませんが、また訪れたい場所であります。


花子出版    倉岡 剛

文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。