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雲の影を追いかけて    第4章「前半」全14章



第4章「前半」


「こんにちは。裕君」

 祥子は柔らかそうな素材の赤いスカーフを巻き立っていた。

「こんにちは」

 裕は緊張が口元に張り付き、少しおぼつかない。

「では、行きましょうか」

 二人は洋食店に向かって歩き出した。行き交う人混みの中、二人は距離を詰めて歩く。対向者とすれ違う際、二人の腕と腕がそっと触れた。裕は身体が強張ったももの、気にしない素振りで歩く。祥子も気にしている様子はなかった。暫くし、裕は意図的に腕に触れてみた。祥子の柔らかい肌の感触が腕に伝わり、再び身体が強張った。今度は祥子が気付き、横目で裕を見て笑みを浮かべた。裕も微笑んだ。このようなやり取りを、数回ほど繰り返し、街中に佇むレストランに辿り着いた。

 レンガ調の壁に木製の扉が、洗練された美の象徴として街を彩っていた。裕は重々しい扉を開けた。

「いらっしゃいませ」

 蝶ネクタイを着けた細身のウェイターが丁重に頭を下げ、裕と祥子を予約席へ案内し、二人は上品な彫刻が施された椅子に着席した。テーブルには活け花が飾られている。裕は身分とレストランの雰囲気が乖離しているように思えて困惑し、指先の震えを感じた。牛丼の香りや、牛丼を掻き込む音は皆無で、平静が色濃く広がる。俯いていると、様子を察したのか祥子は小声で話しかけた。

「緊張しますね。格式高いお店に来たのは、数十年ぶりですので私も緊張します。職場の人にお勧めされ予約したのですが、私達には、少し背伸びし過ぎましたね」

 祥子が同じ気持ちを抱いているで、裕は安堵した。顔を上げ、緊張しつつ周りを見渡した。気品溢れる正装を着こなす客ばかりだった。

「ははは、確かに。ちょっと場違いかも知れませんね。でも、僕は祥子さんと一緒に来れてとても嬉しいです。予約して頂きありがとう御座います」

「いえいえ。美味しい料理が楽しみですね。今日は、料理長のオススメの白身魚って書いてありましたよ。白身魚って何の魚でしょう」

 緊張する二人は、順番に出てくる料理を食べた。途中で顔を見合わせ、「美味しいですね」と口を合わせて言ったが、裕は美味かどうか分からなかった。

 食事を終え、ウェイターが慇懃な態度で食器を下げてゆく。

「そうそう。裕君の『月の雫』を読ませていただきました。とても、瑞瑞しい物語で、若い頃に戻ったような気分です。なんでしょうね、きっと物語に乗せられ、タイムトラベルしてしまったようです」

「タイムトラベルですか。いい表現ですね。嬉しい書評ありがとう御座います。喜んでもらえて、何よりです」

「はい。あ、もし宜しければ、敬語で話すのを辞めませんか?」

「是非」

「良かった。敬語だと、話し辛いこともあります。あら」

 祥子は敬語が出てしまったことを恥じるように頬を赤らめた。裕はその姿に、愛おしさ感じた。

「『月の雫』が芥川賞を受賞出来ると良いね。でも受賞したら、裕君は有名人になってしまう。それはそれで、ちょっと少し寂しいかな」

「例え、受賞出来たとしても、僕は変わらないよ。いつも通りの毎日を送る。もう少し、多少のお金が入ったら執筆に専念したいから、牛丼屋のバイトを減らしたり、もしくは辞めると思うけれど」

「そうよね。執筆に励まないといけないものね。応援しているよ。いつまでも・・・」

「ありがとう。ねえ、今から祥子さんの家に行っても構わない?」

「勿論良いけれど。突然どうしたの?」

「祥子さんのお父さんに会ってみたいんだ」

「父は寝ているかも知れない。でも、来るのは構わないわ」

「良かった、ありがとう。会ってみたくなったんだ、祥子さんのお父さんに」

「唐突ね」

「うん。今日までの数日間、ずっと祥子さんのことを考えていた。何故かは分からないけれど、感情の波を止めることが出来なかった。祥子さんのことや、お父さんのことをもっと知りたいと思ってね」

「嬉しい。私も同じ気持ちだった。裕君をもっともっと知りたいなあと思っていたの。さて、お店を出よう」

「うん」

 二人はそれぞれお金を出し合い、ウェイターに支払った。ウェイターは笑顔で挨拶をし、二人を見送った。

 お店を後にし、二人は手を繋いで歩いた。お互いに自然と歩みより、言葉を交わすことなく指先が重なり合った。裕は掌の手汗を危惧したが、冷たい玲子の指先で、汗が引いたように思えた。

 行き交う人を交わしながら、街に張り巡らされた道路を歩く。ビル街を抜け、橋を渡り、閑静な住宅街へ向かった。


第4章 「後半」へ続く。


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