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中之島の淡い光と福澤諭吉誕生の地

こんにちは 

幕末から明治に活躍された福澤諭吉(天保五年十二月十二日〜明治三十四年二月三日、1835年〜1901年)。一万円札に肖像がありますので、日本人なら大半が認知していることでしょう。

出生地が大阪だったとは知らずに、大阪で自由気ままに過ごしておりました。昨日に書籍で大阪出生地だと知り、且つ誕生の地という石碑があるとのことで、仕事を終えて秋雨の中に行ってまいりました。


〒553-0003 大阪府大阪市福島区福島1丁目1


中之島に屹立するビルの明かりが、堂島川と土佐堀川に反射して麗しく、又少し哀愁に満ちた光を作ります。夜景の写真を撮っておられる人と数人ほどすれ違いました。撮影スポットが点在するようです。

この独特な雰囲気が、私は気に入っています。人が去ったオフィス街で喧騒がなく、寂しさが漂う街。道頓堀に煌びやかさよりも、この寂しさの方があっています。金閣寺よりも、銀閣寺に趣きを感じる私の性なのでしょうか・・・。

川沿いには、いくつか石碑がありました。

阿部彦太郎


阿部彦太郎 (1879-1965)
明治12年滋賀県に生まれ、市立大阪高等商業(大阪市立大)から慶應義塾に学び欧米に渡る。
のちに英国に約5年滞在し経済界の実情を視察する。
手堅い現物商いをモットーとした大型優良株に資産を投じ、大株主として役員に名を連ねた。
大阪商船、大阪製麻、日本生命などの取締役を務め、東洋紡績、角一山林の監査役を務めるなど、日本経済の近代化を支援した。
公共事業に対しても熱心な支援者で数々の事業に寄進。


阿部彦太郎は、巨額な納税者だったようです。

更に西に進み歩きます。

川と道路を挟んだ場所に、今回の目的であり福沢諭吉誕生の地に着きました。

せっかく写真を撮りましたが、ぶれてしまいました。見苦しくて、申し訳ありません。

天ハ人ノ上二人を造ラズ
人ノ下二人ヲ造ラズ

有名な一句です。

幕末明治の大教育家福澤諭吉先生ここに生る 時に天保五年十二月十二日(西暦1835年1月10日)。ここは豊前中津藩倉屋敷の長屋跡である。先生の父百助は一面に於いて、経學者、詩文家であったが、然も理財の道に精通した循吏であって、金穀會計の俗役に奔命して其生涯を終わった人である。彼は妻お順が、大きな、瘠せて骨太な五番目の子を産んだ時「これはよい子だ、大きくなったら寺へ遣って坊主にする」と語ったと傳へられている。封建門閥の世に下級士族が其予をして名を成さしめる道はこれを佛門
に入らしめる以外にはなかったのであろう。當時に於いて、この子が後年、西洋文明東道の主人となり、封建的観念形態の打破に努力するに至る将来を誰が予見し得たであろうか。


一部読めない漢字がありましたが、大筋は碑文通りです。

福澤諭吉が封建的観念を打破できなかったとなると、又封建的秩序がもっとつよくなり佛門の世界に送り込まれていたら、今の日本はあったのだろうか、と考えてしまいます。
もちろん、時流が福澤諭吉を動かしたのはいうまでもありませんが、偉大であった事実は間違いありません。

偉人に感謝しつつ日々を送りたいと思います。


おすすめの石碑があればご紹介くださいませ。取材して、記事を更新します!!!

花子出版   倉岡 

文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。