見出し画像

『義』  -さよなら- 長編小説



さよなら

 大輔の携帯電話が激しく鳴った。珍しく、着信だった。大輔は不鮮明な意識に鞭を打ち、二日酔いの身体を起こして携帯電話の画面を見る。健斗からの着信だった。応答ボタンを押した。

「おい、大輔。今、大丈夫か?」

 健斗のけたたましい声が、大輔の鼓膜を揺さぶる。

「ああ」

 大輔は曖昧な返事をする。

「何だ、その声は。寝ていたのか? こんな時間なのに。それで、大変なことが起きたんだ。おい、聞いているか?」

「ああ。聞いている」

「実は・・・。貴洋くんが、死んだ」

 健斗は故人を悼むように静かに言った。大輔は言葉に詰まった。貴洋が死ぬはずがない。昨晩、眠りにつくまで隣にいたのだ。

「大輔、聞いているのか?」

「おいおい。あんまり冗談言うなよ。そんなはずが無いだろ? だって、昨晩は、この部屋に泊まっているんだぞ。全く不謹慎な冗談を」

「ちょっと、寝ぼけ過ぎだぞ。東京にいるはずがないだろう。死んだんだ、貴洋くんは。一ヶ月ほど前に、アパートで孤独死していたんだよ」

 大輔は、健斗が偽りを述べていると思い、布団から起き上がり隣を見た。そこには、寝ているはずの貴洋の姿はなかった。立ち上がり、遮光カーテンを開ける。眩しい日光が室内に流れ込み、部屋を照らした。しかし、貴洋の姿はなく貴洋の荷物もなかった。

「貴洋くんは、熊本へ帰ったみたいだな。飛行機で帰る、と言っていたから、俺を起こさないように静かに帰ったのだろう。きっとそうだ。だって、昨晩、この部屋で一緒にいたんだ」

「おい、大輔。しっかりしろ。貴洋くんは死んだんだ。ついさっき、さっちゃんから聞いた。疑うのだったら、母さんにでも聞いてみろよ。村中の噂になっているから、知っているはずだ。じゃあな」

 健斗は電話を切った。大輔は、健斗の言葉が信じることが出来ない。昨晩に新宿で会い、お酒を飲み、この部屋で一緒に眠った。貴洋の小学校から変わらない石鹸の香りが、鼻に残っている。貴洋の張りのある声が、耳に残っている。貴洋と話した際に出てきた懐古的な唾液の味が、口内に残っている。貴洋くんの柔和な笑顔が、瞼に残っている。貴洋くんが撫でるように触る指先が、全身に残っている。パンツを脱いだ。すると、パンツに付いた液体が乾き固くなっていた。夢精だろうか。記憶にある限り、これまでの人生で夢精の経験はない。貴洋の指先の刺激によって射精したのだ。となると、尚更貴洋が死んでいるはずがない。貴洋は静かに帰省したのだ。間違いない。

 大輔は裸のままベッドに腰掛け、母へ発信した。

「ああ、もしもし」

「もしもし。大輔から電話するなんて、珍しかね。元気にしっとと?」

 母は電話に出た。陽気だった。

「貴洋くんが死んだと聞いたけれど、嘘だろ?」

 母の声が消えた。

「おい、嘘だろ?」

「いや、事実たい。お亡くなりになったとよ。孤独死だけん、貴洋くんの家は大変らしか。大輔は東京におっとだけん、連絡はせんかったとよ」

「おいおい。健斗と同じような嘘を言うなよ。不謹慎過ぎる。昨晩、俺は貴洋くんと会って、一緒に酒を飲んだんだ。そして、貴洋くんはこの部屋に泊まった。死んだなんて、有り得ないだろう」

「大輔こそ、ボケてないで、現実を見なっせ。もう、貴洋くんは、この世におらっさんと。明日に葬式があるばってん帰ってくると? 健斗くんが、まだこっちに居んなるけんまだ夏休みでしょ」

「今、何時?」

「昼の十二時たい」

 大輔は終話ボタンを押した。部屋には静音が戻る。

 昨日会った貴洋は、一体誰だと言うのだろうか。幽霊なのだろうか。いや、足が有り、手が有り、顔があった。貴洋の実態がこの世界に存在していた。BARの店員も、はっきりと貴洋を見ただろう。現に、店員は訝しむことなくドリンクを提供してくれた。貴洋は存在しているはずだ。『孤独死していたんだよ。一ヶ月ほど前にな』と言う健斗の言葉を想起した。仮に、健斗や母の言ったことが真実ならば、深夜の秘密基地で会った貴洋も、幽霊だったということになる。幽霊と酒を飲んでいたのだろうか。幽霊と話をしていたのだろうか。

 帰郷するため、勢いよく立ち上がった。葬儀風景の写真を送ってもらうことも出来るだろうが、信用にならない。自分の目で見なければ、全てがでっち上げられた虚構だ。ジーパンを履きTシャツを着て、読みかけの本と財布を持ち、アパートを飛び出した。電車に乗り、羽田空港へ向かう。飛行機の空席状況やレンタカーの空車状況を考える暇はなかった。電車に揺られながら、貴洋と過ごした時間を反芻し、絶対なる事実と健斗たちが言う虚構を、逼迫する思考へ並べて吟味した。

 熊本行きの便は、空席があった。大輔は飛行機に乗り込み、機内誌を眺めた。
 
 順調な飛行にて、熊本空港には定刻通り着いた。外はまだ明るい。大輔はレンタカーショップの受付に行き、空車の有無を確認する。レンタカーもすんなりと借りることが出来た。

「長期間お借りされますが、お仕事ですか? ご旅行ですか?」

 店員が荷物を持たない大輔を、物珍しそうに眺めた。

「ええ、少し用事がありまして。早く返却できる場合は、早く返却します」

 大輔は心情を汲み取られないように、冷静に答える。

「これから、どちらまで行かれますか?」

「天草へ」

「天草ですか。天草は良い所ですので、楽しんで下さいね」

 店員は笑顔を作った。大輔は会釈した。

 レンタカーに乗り込み、故郷を目指してアクセルを踏み込んだ。

 日が暮れ始め、空港線を走る頃には帰宅ラッシュに巻き込まれ、車が思うように進まない。すると、信号にて止まる度に、並走する軽自動車を運転する女と目が合った。知り合いだろうか、と思案するも、見覚えはない。自分の顔に何か付いているのだろうか、と右手で顔を触るも、伸び始めた髭以外は何もない。女の渋滞での楽しみなのだろう、と勝手に解釈し、海に向けて車を走らせた。

 熊本市内を抜けて海岸線へ走る頃、水平線に夕日が沈み始めた。夜が駆けてくる。

 ヘッドライトが故郷の細い道を照らす。大輔は慎重にアクセルを踏んだ。暫く走ると、視界が開け、闇に落ちた田園風景が広がった。徐行し、遠目で貴洋の家を探す。貴洋の家の前には、複数の自動車が止まっている。貴洋が死んだのは、事実なのだろうか。大輔の心拍数は、実家へ近づくに連れて上昇した。

 実家に着き、早足で居間に向かった。父と母は畳に寝転がりテレビを眺めていた。

「ただいま」

 父と母は、大輔の声に驚き、勢いよく身体を起こした。

「なんね、大輔ね。はー、もう、たまがった。どぎゃんして帰ってきたと?」

 母は胸を撫で下ろした。二人は、再び横になりテレビを眺めた。

「急いでいたから、レンタカーを借りてきた」

「またレンタカーねえ。ほんとに勿体なか。そんなお金持っとると?」

「問題ない。金の話なんて構わない。電話で話していたけれど、貴洋くんは、死んだの?」

「そうたい。亡くなんはった。あんたは何回も、しつこかねえ」

「父さん、どうなんだ?」

 テレビを見ていた父は、やれやれといった表情を作る。

「ああ、亡くなんはった。俺は嘘はつかん。貴洋くんのことは事実たい。疑うんなら、貴洋くん宅へ行ってくるたい」

「健斗は?」

「ご飯食べて、出ていったばい。ねえ、大輔、喪服は持っとると?」

 母は大輔へ問い掛けた。大輔は答えずに居間を離れた。

 玄関を出て、貴洋の家へ向かう。歩きながら、父の言葉を想起した。父の嘘を、これまで一度も聞いたことがない。乾いた冗談も、一度も聞いたことがない。となると、貴洋の死は現実なのだろうか。昨晩の貴洋との出来事が空想なのだろうか。すると、足裏に伝わる硬い地面の感触が消えた。アスファルトを歩いているはずだが、まるで、水面を歩いているような感覚だ。沈むのだろうか。いや、沈まない。何故か、沈まない。不慣れな足取りで、一歩一歩と足を進める。

 貴洋の家の前に着いた。貴洋の家には鯨幕が掛かり、提灯が朧な明かりを放つ。風に乗り線香の香りが漂い、悲しみに揺れる空気を穏やかに均していた。大輔は俯きながら、玄関へ向かった。蝉の鳴き声に隠れて、すすり泣く声が聞こえてきた。横目で見ると、見知らぬ女が泣いていた。目を合わせないように視線を逸らし、地面を見ながら足を進める。

 玄関を開けると、喪服を着た老若男女が、彼方此方に散らばっていた。居間の先に、座敷があり、仏壇があり、遺影が立っていた。遺影は、若い男だ。笑顔の眩しい若い男だ。幼馴染の男だ。それは紛れもなく貴洋の写真だ。大輔はスニーカーを脱ぎ捨て、居間を横切り、遺影の前に座った。遺影に写る貴洋の顔は、柔和な笑顔だ。しかし、昨晩会った本物の貴洋と違い、紙に印刷された虚像だ。現実を認めたくない感情が火を吹いたが、慎む遺族の視線に消され、次第に思考がままならなくなり、頭が空になった。

 大輔の隣に、女が座った。喪服に無地のエプロンを巻いている女だ。

「大輔くん?」

 女は窶れた声で、大輔に問い掛けた。大輔は女の顔を見た。皺が目立つももの、小綺麗な身なりの女だった。

「はい。大輔です」

「久しぶりねえ。貴洋の母よ。覚えとるね?」

 大輔は想起する。貴洋の家に遊びに来た際、貴洋の母から菓子を貰う機会が多々あった。

「あ、思い出しました。おばさん、お久しぶりです」

「大輔くん、大きくなったねえ。貴洋のために来てくれて、本当にありがとうね」

 貴洋の母は指先と額を畳に付けて、一礼をした。大輔も、慌てて貴洋の母へ一礼をする。

「大輔くんは、東京におっとでしょ? 遠いところから、わざわざありがとうね。貴洋も喜んどるよ」

「はい。東京の大学に行っています。貴洋くんのことは、今朝に母親から聞きまして、飛んできました。こんな時にお聞きするのは、大変不謹慎だと思うのですが、貴洋くんは本当に亡くなったのですか? まだ信じられません」

「大輔くんと、同じ歳だもんねえ・・・。貴洋はね、一ヶ月位前に亡くなっとったと。もともと持病があって、借りとったアパートでひっそりとね。異臭がしとったけん、隣に住んどらす人が、管理人に連絡して、貴洋の遺体が発見されたと。冷房をつけとったけん、遺体の腐敗が遅くなったらしかけど、住んでいた部屋は大変な状況たい。こげん体験したことなかけん、もちろん悲しみもあるばってん、驚きでいっぱいたい」

「やっぱり、事実ですか・・・」

 大輔は肩を落とした。

「うん。悲しかけれどね。お茶を飲んで行きなっせ」

「いえ、今日は帰ります」

 貴洋の母は、再び一礼をし、大輔の前を去った。大輔は線香を上げて、合掌した。

 貴洋が死は事実だった。自分の周りにいる人が、全て同じ回答だ。では、昨日会った貴洋は、やはり幽霊などの幻影だったのだろうか。いや、この際、幽霊だろうと、夢の世界のおとぎ話だろうと、例え死神になった姿だろうと構わない。話し足りないことが、山積みだ。謝り足りないことが山積みだ。

 これからの世界は、貴洋のいない世界。懇願しても会えない。金を積んでも会えない。自分の五感に残る記憶だけが、貴洋の全てになってしまった。時間と共に記憶が薄らいでゆくことはあるだろうが、剥がれた壁を塗り直すように、貴洋の新たな色彩を記憶に塗り込むことは不可能だ。目頭が熱くなり、涙が溢れそうになったため、瞼を閉じた。涙は流せない。それが、秘密基地で結んだ、貴洋との永遠の約束だった。

 立ち上がり、遺影の前を離れた。スニーカーを履き外へ出ると、喪服姿の健斗が立っていた。健斗は大輔に気が付き、二人は距離を詰めた。

「帰ってきたんだ。長旅お疲れ様」

 健斗は小声を出す。

「ああ、びっくりした。まだ、受け入れられないが、貴洋くんは、死んでしまった」

「俺も、今朝さっちゃんから聞いた」

「さっちゃんは?」

「さっちゃんは、自分の家にいると思う。また、こっちに来るとは言っていたけれど」

「分かった。ごめんな、健斗。田舎の村のこんな騒動に巻き込ませてしまった。その綺麗な喪服も買ったんだろ? 父さんの喪服ではなそさうだ」

「構わない」

 二人は庭先へ出た。入れ替わるように、腰が曲がった喪服姿の老人が、足を引きずりながら、家へ上がっていった。

「今のは、この道の先に住んでいる、後藤さんだな」

 健斗が老人の後ろ姿を見ていた。

「顔がはっきりと見えなかった。何故、あの老人のことを、知っているんだ?」

「後藤さんはね、野良仕事が好きな気さくな老人。でも、腰が悪いから、いつも鎌を持って畦道に座っている。俺が散歩する時によく会うから、畦道に座って話をするんだ。まあ、訛りがあって、半分くらいしか理解出来ないけどね」

「健斗はこの村に馴染んでいるな。遊びがなく、泣き言を言って、東京へ戻ってくると思っていたけれどね」

「自分に合っているんだろう」

 二人は狭い道路をのんびりと歩く。街灯に群がる蛾や蝶やカナブンが、日の落ちた村に微細な動きを描き、退屈させないよう命を燃やしていた。

「俺が電話をした時『貴洋くんと会った』としつこく言っていただろ。あれはどういうこと?」

「あれな。見間違いだったのだろう・・・」

「おい、隠し事するなよ。大輔が隠し事するときは、声が弱々しくなるから分かるんだ。何かあったんだろ? 教えてくれ。友だろ」

 健斗は大輔の背中を叩いた。

「友か・・・。健斗は『義』を持っているか?」

「もちろん。大輔と違うかも知れないが、俺にも、『義』はある。命を懸けても譲れない、男の『義』だ」

「分かった。俺と貴洋くんの秘密基地に行って、酒を飲みながら話そう。その方が貴洋くんも喜ぶはずさ」

 二人は早足で、自宅へ帰った。

 自宅に着いた。大輔は、小学生の時に使っていたリュックサックを押入れから出し、懐中電灯と鉈を入れた。健斗は、テレビを見ながら寝息を立てる父母を余所目に、冷蔵庫からビールを取り出した。二人は抜け出すように家を出た。



続く。

花子出版   倉岡



文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。