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『義』  -義と欲情- 長編小説



義と欲情

 大輔は帰宅し洋服を脱ぎ、シャワーを浴びる。温水のシャワーが埃や皮脂、汗を削ぎ落としてゆき、肉体を輝かせてゆく。鏡に身体が映った。大輔は全身を撫でるように触り、筋肉の張りを指先で感じてゆく。気が向いた時に大学のトレーニングルームへ通っているが、吉田との筋肉の違いは明瞭だ。自分の肉体へ醜さを感じるほど、吉田の肉体は精緻な美を放っていた。

 夢中で吉田の肉体を想像していると、突如、身体が火照り始めた。水の温度が上がってしまったのだろうか、と蛇口の温度を確認するも、変わりなく三十八度だ。温水から冷水に切り替えて頭から浴び、身体を冷まそうとするも、一向に冷めない。激しい熱に伴い、自分の陰茎が激しく反り立ってきた。吉田の肉体へ、欲情しているのだろうかと、シャワーを止めて静観しようと辛労した。

 浴室を飛び出して身体を拭き、裸のままベッドに倒れこんだ。陰茎を弄りながら、欲情の波が引いてゆくのを、じっと待った。

 遮光カーテンの隙間から、日光が差し込み、自分の陰茎を照らしていた。反り立った陰茎の先端には、薄っすらと、犬の唾液のような液体が飛び出している。無意識に。まるで、朝顔の開花のように。静かに、ひっそりと。初めての感覚だった。

 同時に、堰を切ったように濛々たる罪悪感が湧いてきた。この欲情は、恐らく『義』とはほど遠い、正反対に位置する感情なのだろう。だから、薄暗い。『義』は人間としての正しい行いだ。そのように思い、先日も辞書をひいて確かめた。何故、崇高で厳格な吉田に、こんな愚劣な欲情が湧くのだろうか。

 友のために墓参りをしている吉田姿を、言わば強引に想起させた。

 清らかに澄み切った風が流れる霊園にて、吉田は友のために毎日、墓参りをしている。雨の日だろうか、風の日だろうと。皺のないスーツを着ている。一輪の菊の花を持っている。厳格な表情で、亡き友を思っている。これほどの美しい『義』がどこにあるだろうか。

 しかし、墓参りをする吉田にも、欲情してしまった。『義』への叛逆なのだろうか。

 勢いよく立ち上がり、携帯電話を鞄から取り出し、女の裸体の画像や動画を漁った。インターネット回線に繋がれた昨今、幸も不幸も世界中の女の裸体が見つかった。不快ではない。それもそのはず、劣化する肉体に歯止めをかけようと必死に編集を重ねた、又失われてゆく肉体を切り取った遺影のような写真や映像ばかりだからだ。

 女の裸体で視覚的な刺激はあったが、吉田の肉体を超える美は、何処にも見つからなかった。

 再び、勢いよく立ち上がり、鞄に手を突っ込む。吉田が飲み干したペットボトルが鞄に入っていることを思い出したのだ。鞄の奥にペットボトルがあり、取り出してみると、ペットボトルの内側に水滴は張り付いている。中に入っている、液体は不要だ。必要なのは、吉田の分厚い唇が触れたペットボトルの口だけだ。吉田の唾液がついたペットボトルの口だけだ。ペットボトルの口を凝視する。そこには、白い蓋が閉まっていた。幼児くらいの握力があれば、容易に白い蓋を開けることが出来るだろう。熱された鉄瓶に触れるように、蓋にそっと触れてみると、プラスチックの感触が伝わる。蓋が邪魔だ。この先に吉田の唇があるのだ。自身の口内に溜まっている唾液を一気に飲んで、仕切り直した。罪悪感が湧き出てくるも、ペットボトルの口に、自分の子汚い唇にて触れてみたいとのいう、好奇心が凌駕する。辺りを見渡したが、誰もいない。いるはずがない。ここは独り暮らしのアパートだ。裸体を晒し、陰茎が反り立とうと、捕まることはない。修行に励む僧侶すら、自室に籠って淫夢をみているだろう。堕落した世の中だから、きっと見ているはずだ。蓋を握りしめ、瞼を閉じて、一気に開けた。

 白いペットボトルの口が現れる。触れてみたいが、未だ、罪悪感が刃を突き立てている。仕方なく、ペットボトルを床に置いて吟味した。

 ふと、ある名案が思いついた。口付けをすると思わずに、中に残った手作りドリンクを試飲すると思えば良いだろうと。そうすれば、罪悪感が軽減される。吉田の唇へ間接的に触れる行為は、能動的ではなく、言わば不可抗力になる。いける。

 ペットボトルを咥え、中に入った水滴を吸った。ペットボトルが真空になり、形が変形するほどの力で吸った。中に入った水滴が、口内へ飛び込んでくる。

 吉田の触れた唇と、大輔の唇が間接的に触れてしまった。欲情が、嵐のようにやってきた。陰茎が破裂しそうだ。射精すれば、満足がいくのだろうか。

 暫くの苦悩の末、健斗の選んでくれた本を読み、心を落ち着かせることにした。射精してしまうと『義』への求道心も失われてしまいそうで、恐怖した。本を眺める。不慣れながらも、頼みの綱だと思いつつ、ページを捲っていくと、先ほどまで荒れ狂っていた欲情は風に飛ばされたように消え去った。安心すると、瞼が落ち始め、深い眠りへと潜っていった。

 ベッドの脇のゴミ箱には、歪に凹んだペットボトルが入っていた。

 翌日、大輔は朝から大学のトレーニングルームへ向かった。自宅へいると欲情が湧き、肉体を縛られるため、身体を動かすべきだと考えた。

 部活動に励む学生は、各々の肉体を高めるために櫛比している。大輔は、むさ苦しさを感じつつも、悶々とする日常を終わらせたく、インストラクターに教わりつつトレーニングに励んでゆく。

「斎藤くんは、部活動に入っていないのに、筋トレを頑張っているねえ」

 中年のインストラクターが大輔のトレーニングを褒めた。

「ありがとうございます。強くなりたいと思いましてね。あ、この前教えていただい、スポーツドリンクは好評でした」

「教えた配合のドリンクは、とっても美味で、疲労した身体にはもってこいだ。気に入ってくれてよかったよ。ところで、強くなりたいとは、何か武道に励むのかい? 部活動へ入部するのかい?」

「いえいえ、人間として強くなりたいと思います。方法は未だ模索中です」

「人間は心技体にて構成されているからな。身体だけ大きくなっても、いけないよ」

「ええ、分かりました」

 大輔は目を丸くした。大学の大人たちから、的を射た回答を貰ったことがなかったため、真っ当な大人もいるものだ、と驚いたのだ。

 トレーニングを終え、図書館へ向かおうとするも、風に乗って聞こえてきたテニスコートの歓声に耳を奪われ、テニスコートへ向かった。

 テニスコートでは、同年代の男女が汗を流しながら、懸命に黄色のボールを追っかけてゆく。強靭な体格もなく、弓のように張りつめられた集中もない華奢な男女が、それとなくテニスに励んでいた。大輔は、フェンスに覆われたコートを横目で見ながら、ゆっくりとした足取りで歩いた。彼らの姿に嫉妬もなければ、羨望もない。時間に駆り立てながら、必死に練習をしない理由を頷ける。彼らは、大会にて悲惨な結果だろうと、死ぬわけでもなければ、給料が減るわけではない。ある者にとっては、就職活動期の宣伝材料だろう。ある者にとっては異性との交わる機会作りのためだけの材料だろう。

 もし、自分が退部していなかったら、目の前のグループと一緒にテニスに取り組んでいるのだろうか、そして、吉田について、更には『義』にて考えることはあったのだろうか、と大輔は吟味した。

 すると、対面から女が歩いてきた。視力の良い大輔は、すぐに、付き合っていた遥香だと分かった。大輔と遥香の距離が、ゆっくりと縮まる。

「あら、大輔。久しぶりね。ここにいるなんて、テニスサークルに戻りたくなったの?」

 遥香は目に掛かる髪の毛を掻き上げ、大輔を見た。

「戻るつもりはない。トレーニングルームの帰りに立ち寄っただけさ」

「また、胸回りとか、腕とかが大きくなったんじゃない?」

「決して、誇れる身体ではないけれどね」

「全く、謙虚じゃないわね。私は褒めているのよ。素直に『ありがとう』と言ったらどうなの? 大輔はちっとも変わらないわね。そんな男は、このご時世に流行らないわよ」

 遥香は笑みを浮かべた。行為的な笑みを浮かべたようだが、大輔にとっては不穏な笑みだった。汚らしく、唾棄したくなるような笑みだ。文句の一つでも言うべきか、それとも吉田から貰った金をチラつかせるべきか、又無視して立ち去るべきだろうか、大輔は彼是模索した。しかし、どれも下賤な行為に思え、黙った。

「ねえ、せっかくだから、テニスコートで遊んでいかない? きっと先輩たちも喜ぶと思うわ」

 遥香は、俯く大輔の顔を見上げた。

「遠慮するよ。誘ってくれてありがとう」

 大輔は静かに答えた。

「そう、じゃあね。夏休みを楽しんでね」

 遥香はそそくさと走り、テニスコートに入っていった。

 大輔は遥香の短パンから伸びる白い足を眺めた。遥香と別れた日が遠い昔となり、走り去る足音と共に遠方へ去ってゆく。一方、別れを告げられた際に想起した妬みや憎しみの感情が、懐かしさとなり近づいてくる。胸元にて、淡い熱を感じた。

 図書館にて数冊の本を借り、帰宅した。

 それから吉田から呼ばれている試合の日まで、午前中にトレーニングルームへ通い、午後に読書をし、規則正しい生活を送った。



続く。


花子出版  倉岡



文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。