見出し画像

『義』  -吉田の過去(中)- 長編小説



吉田の過去(中)

「夏休みを控えたとある帰宅時、俺と元は汗の染み込んだ柔道着を抱えて、歩いていた。日が落ち、街灯が俺らを照らしていた。その時、柔道部の上級生から虐められていることを、元は俺に教えてくれた。俺は驚いたよ。そんな素ぶりは一切なく、毎日笑顔で部活に励んでいたからな。俺は、虐めの一部始終を聞いた。元は涙を流すことなく、声を荒げることなく、震えることなく、どこか達観した声色で話してくれた。虐めは限りなく陰湿だった。俺がいない時を狙って、元を呼び出し、金銭の要求をしたり、華奢な身体を殴ったりとね。元の家が裕福だと、どこからか情報を手に入れていたのだ。それで、文句を言わない、告げ口をしない元を狙い、虐めていた。

 俺は、虐めを察することの出来なかった自分が憎くて仕方なかった。元に何度も何度も誤った。道着を投げ捨て、土下座をした。周りを歩く生徒たちは俺らを見て不振に思っただろう。きっと。

 すると、元は土下座する俺に抱きついて『雅彦くん、見っともないよ。起きてよ』と言って土下座する俺の肩を持ち上げ、『雅彦くんは、僕の分も強くなってね』と耳元で囁いたんだ。初めの瞳に街灯が光があたり、きらきらと光っていた。

 俺たちは立ち上がり、泥が付いた柔道着を抱えて無言で歩いた。別れ際、俺は元へ何かを言おうと思ったが、怒り心頭し、言葉が出なかった。元は手を振りながら走っていった。どこか遠くへいってしまうような、手の振り方だったが、翌日会えるだろう、と呑気に考えた。

 翌朝、俺は元との待ち合わせ場所へ向かった。すると、元の姿がない。珍しいこともあるもんだ、と思つつ学校へ向かう生徒の波を眺めながら、元の到着を待った。しかし、元は現れない。その時、胸騒ぎがした。それは蝉の声の錯覚だったかも知れないし、浮かんでいる夏雲の暗示だったのかも知れない。何もしていないのに、勝手に鼓動が早くなる。俺は、元の家へ走った。

 元の家の前に、パトカーが二台止まっていた。俺は元の家に駆け込んだ。警察官が止めようとしたが、押し退けて駆け込んだ。すると、元の両親が顔面蒼白で立っていた。事情を聞くと、元は昨夜の深夜遅く、部屋で首を吊って自殺したとのことだった。遺書はなく。

 俺の脳内にある、全ての思考が灰燼に帰す。幼馴染だった元へ、一緒に遊んでいた元へ、嫌な顔をしない元へ、優しい元へ、もう永久に会うことが出来ないわけだ。この世に残ったものは、心臓の止まった華奢な肉体と、手垢が付いた瑣末な遺品だけだ。俺は現実から逃れるために、庭に飛び出し、咲き始めようとする向日葵畑に駆け込んだ。向日葵は無邪気に、天に向かって伸びていた。綺麗な向日葵、元が愛した向日葵が、憎く思えて仕方なかった。こいつらは、何故、元を守ってくれなかったんだ。何故、俺に知らせてくれなかったんだ。向日葵を数本引っこ抜き、投げ捨てたが何も起きない。すると、胸が焼けるように熱くなり始めて、立っていられないくらいの倦怠感を感じ、地面に仰向けなった。空は憎たらしいほどに高く、青かった。それから、まるで向日葵の棺にでも入ったように、涙を流しながら、元との記憶を回想した。

 初めて出会った入園式から始まり、昨日見届けた元の小さな背中まで、空っぽの脳内をさらさらと流れてゆく。音も聞こえた。さらさら、と言う音を。星の数のように存在する元との記憶が、互いに背比べをし、互いに殴り合い、角が取れながら流れていたのだろう。そして、全ての記憶が流れさり、最後に残ったものが『雅彦くんは、僕の分も強くなってね』だった。下校時、元が俺に残してくれた言葉だ。俺は起き上がり、溢れ出していた涙を向日葵の葉っぱで拭った。

 魂に刻んだ。『雅彦くんは、僕の分も強くなってね』と言う元が残した言葉を。

 向日葵畑から駆け出し、全速力で走り帰宅した。親に事情を話、電話で先生に事情を話、暫く学校を休むことにした。サボりたいわけではなく、哀愁に浸りたいわけではなく、強くなるために肉体を鍛えたかった。部屋に篭り、部活で習ったトレーニングの概要と、図書館で借りた書籍を参考にし、肉体が壊れるほどの筋肉トレーニングに励んだ。部屋での筋肉トレーニングを終えると、マスクなどを着け変装し、ランニングだ。日が昇っている間は、一切休まなかった。元の葬儀や納骨にも、行かなかった。元の仇を打たなければ、と思っていたからだ。

 一週間後、素知らぬ顔で学校へ行き、部活へ参加した。肉体が悲鳴を上げていたが、我慢して稽古に励んだ。どのように仇を討つかをずっと模索していた。試合稽古で敵を畳に叩きつけ、何も知らない審判が適当に旗を挙げて勝利したとしても、それは全くの無意味だ。元の辛さには、比べ物にはならない。俺は拳を使うことを決めた。

 しかし、武道を志す中学生が、拳の使い方を熟知しているはずもない。もし、上級生へ相談すると、歪んだ精神を正すために折檻されるだろう。部内では駄目だ。悩んだ末、不良の高校生を相手に、拳を使う練習をすることにした。部活後、自転車に乗って街を彷徨うと、公園にて隠れてタバコを吸っている高校生を見つけた。此れ幸いと、自転車を止めて高校生へ向かっていった。数人の高校生の身長は想像以上に高かったが、何故か恐怖はなく、汗ばむ拳が肉に飢えて震えていた。高校生は、俺の制服を見て、子供をみるような目付きで睨みつけた。中学生だから、とバカにしていたのだろう。俺は高校生の前に唾を吐いて威嚇した。未成年者の喫煙だから、俺の方が正しいに決まっている。すると、高校生は俺を取り囲み、長身の男が俺の胸ぐら掴んできた。次の瞬間、俺は固く握り込んだ拳を、高校生の頬へ放った。

 当たったはずの拳に、感覚がない。いや、障子を破ったような感覚はあったが、肉体に触れたような感覚はない。だが、拳を受けた高校生は、地面に大の字なり転がっていた。初めて使った拳で、相手を秒殺し、拳を使う感覚を習得してしまった。他の高校生が掴みかかってきたが、どの高校生の動きも、蝿が止まるほど鈍間な動きに見え、一人は投げ飛ばし、一人には膝蹴りを食らわした。三人は地面に這い蹲り踠いていたが、俺は気にすることなく、一瞥して自転車で帰宅した。風呂に入り自分の拳を眺めた。拳から滴る雫に決戦の足音を感じた。

 翌日学校へ行き、目をつけていた部内の上級生を探すと、上級生は教室の隅で、憎たらしい顔つきでニヤニヤと笑っていた。その場で、掴みかかりたい気持ちを抑え、部活の用事だと偽り、人気のない校舎の陰に呼び出した。すると上級生の態度が一変し、下級生の俺を睨んできたんだ。それは、まるで偉人でもなって成り上がったような、不躾な態度だ。俺は、高校生を殴り倒した拳に自信が漲っており、上級生へ動じることなく、元の件を問いただした。上級生は知らん顔をして外方を向いていたが、目が泳ぎ、無意識に罪を認めていた。俺は拳を握りしめ、上級生の頬を殴った。すると、軽快な音と共に、上級生は地面に倒れた。俺は馬乗りになり、上級生の頬に拳を突き当て、虐めの一部始終を問いただした。

 すると、涙目の上級生は洗いざらい白状し、震える声で『ごめんなさい、ごめんなさい』と何度も言った。俺は、誰に言っているのだ、と再び怒りが湧いてきたが、ここで殺すわけにはいかず、拳を離した。すると、上級生は大声で号泣し始めた。俺は胸ぐらを掴み、共犯者を聞き出した。部員以外にも共犯者がいることが分かった。

 その日以後は毎日、元を虐めた生徒を一人ずつ呼び出しては、制裁を食らわしてやった。がむしゃらに抵抗してくる上級生もいたが、俺の日に日に成長してゆく格闘技術の前では、諸刃の剣だった。首謀者と共犯者の全てを叩きのめし、報告の意味を込め、元の眠る墓へ向かった。そう、多磨霊園へ。

 小遣いが少なく、一輪の菊の花だけを買い、多磨霊園へ向かった。広い霊園で山岡家の墓を探し、綺麗に整えられた墓の前に立った。元が眠っていると思うと、不思議な気分だった。菊の花を捧げ、虐めていた上級生へ制裁を食らわしたことを伝えた。すると、元の声が聞こえた。『雅彦くんは、僕の分も強くなってね』と。それは、風の音、木の騒めき、蝉の声、墓で駆け回る子供たちの声、それらの音ではなく、正しく元の声だった。蘇生し、耳元で囁いてくれるように、明瞭な声だった。

 再び、魂に刻んだ。『雅彦くんは、僕の分も強くなってね』と言う元の声を。

 それから、授業と部活は今まで通りに過ごし、深夜には不良たちとの喧嘩に明け暮れた。喧嘩する姿を知らない大人たちからすると、俺が優等生だと思っただろう。だが、面従腹背だ。強さのみを求めていた。


続く。

花子出版   倉岡




文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。