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『義』  -天草への憧憬- 長編小説




天草への憧憬

 自宅に着き、健斗の肩を揺すって起こす。浅い眠りを彷徨っていた健斗は、すぐに瞼を開けて、背伸びをした。

「もう自宅か。悪いな、起こさずに運んでくれて」

「気にするなよ。しかし、よく寝ていたな。暫く、海沿いをドライブしていたけれど、全く起きなかったぞ」

「いや、深い眠りではなかった。夢の中で、さっちゃんと、潮騒を聞きながらドライブしていたからな。現実と夢の世界が混じり合って、心地よかった」

「健斗らしい」

 大輔は、満足げに話す健斗の横顔が、自分のことのように嬉しく、健斗と咲子が円満に続いて欲しい、と願うばかりだった。二人は車を出て、部屋に入った。

 日が暮れ、母の作った夕食を四人で囲む。網戸を潜ってくる風が清涼で、扇風機は止まっていた。

「なあ、母さん。健斗をもう少し住ませてやっても、構わないだろう?」

 肉じゃがを食べながら、大輔は問い掛ける。

「構わんけど、あんたたちは、もう大学が始まるんじゃなかとね?」

「始まるよ。なあ健斗?」

 大輔は健斗を見る。

「うん」

 健斗は唇を嚙み、申し訳なさそうな表情で、小さく頷く。

「なら、帰らんといかんたい。大学生はしっかり勉強せんとね。学費も安くないとだけん」

 母が言う。

「健斗はね、大学を辞めて、この村で生活したいと言っているんだ。就職も、天草のどこかでする。選ばなければ、色々な仕事があるだろう。それに、若い男が増えて、嬉しいだろ?」

「若か人が増ゆっことは嬉しかばってん、健斗くんのお父さんやお母さんは、何て言いよらすとね?」

 母は健斗に問い掛ける。父はビールを飲みながら、テレビで放映される刑事事件を見ている。

「両親には、まだ相談していません。絶対に反対されるので、相談したくはありません。父も母も、東京しか知らない大人です。この村のような豊かの自然を知らない、コンクリートの街で育った大人です。金になる合理性と偽善的博愛主義に毒された大人です。だから、相談しても無意味なのです」

「そうねえ」

 母は顎に握り、思案する。

「なあ、構わないだろ。健斗の気持ちを優先させてくれよ。応援してやりたいんだ。それに、仕事が見つかるまでは、野良仕事や家事でも何でもすると言っているよ。さっちゃんだって、健斗が居てくれると、喜ぶし」

 大輔は箸を置き、熱弁した。

「なんで、咲子ちゃんが出てくるとね? 関係なかばい」

 母が言う。

「俺、さっちゃんの事が好きなんです。少しでも、さっちゃんの力になりたいと思っています」

 健斗が顔を上げて言った。健斗の声の大きさに、父の眉がぴくりと動いた。

「咲子ちゃんは、旦那さんが亡くなったばかりよ。そんなことよかとかね・・・。咲子ちゃんは家庭内暴力とかあったけん、優しか健斗くんが来てくれたら、嬉しかかも知れんばってんねえ。ちょっと複雑たい。こん村は小さかけん、噂もすぐに広まっとよ。そしたら、居辛くならんかねえ」

 母は益々難しい顔になった。

「大丈夫です。そんなことは些細なことです」

 健斗が言う。

 すると突然、

「いかん」

と、父が口を開く。三人は、父の低く掠れた声に驚き、身体を強張らせて目を大きく見開いた。父は手に持ったビールを飲み干し、話しを続けた。

「健斗くんは、東京へ帰りなさい。そして、東京でやるべきことばやって、両親ば納得させてから、こっちへ来なさい。若か時は、親の考えなんか絶対に分からんたい。だけん、感情だけで動いたらいかん。まあ、健斗くんの気持ちが分からんでもなかけど。俺も若か時は、親んことば嫌っとったけんね。毎日、殴り合いの喧嘩三昧たい。何度家出したか分からん。でも、こうやってオッさんになると、色々分かってくるたい。時間が解決する。俺の言うことを信じてみんね? 咲子ちゃんとのことも、暫く遠距離で付き合えばよかたい。健斗くんなら、出来る」

 口下手な父は、言葉を探しながらゆっくり話した。

「ねえ、父さんも、こぎゃん言いよるけん、東京で暫く頑張ったい。こん村は若か人が少なくなって過疎化の一方やけど、私らも頑張って、健斗くんが喜んで帰って来るるような村を頑張って維持すっけんね。大輔、あんたも、健斗くんの友達として、支えてあげなっせ。健斗くんが大輔を支えることになるかも知れんばってんね」

 母は空笑いするも、張り詰めた食卓の空気が溶けることはなかった。健斗は俯き、少量ずつ茶碗の白米を口に運んだ。目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

 ぎこちない夕食を終え、大輔と健斗は麦茶を持って部屋に入る。麦茶を注ぎ、二人は無言の乾杯をして乾いた口を潤した。

「俺の考えが間違っていたのだろうか?」

 不安げな健斗は、弱々しく嘆いた。

「いや、健斗は間違っていないと思う。しかし、俺の親が間違っているとも言い難い。一つ言えることは、俺たちは、まだ二十歳だと言うことだ。大人のような子供、子供のような大人。社会の善にも、社会の悪にも染まる事が出来る。東京で『義』を大切にし、精進しよう。俺は、この村も東京の街も好きだ」

「『義』かあ。俺も大輔のように『義』を貫き通せるかな。東京は、誘惑が多いからなあ」

「それが出来なければ、さっちゃんを諦めろ」

「やる」

 健斗は即答した。二人は目を合わせて、哄笑した。すると、部屋のベニヤ板の扉を叩く音が、数回鳴った。大輔が返事をすると、母が入ってきた。手には缶ビールを三本持っていた。

「邪魔してよかね?」

 風呂上がりにて髪の毛の濡れている母が、二人へ問い掛ける。

「もちろんですよ」

 健斗が答え、大輔の近くに寄り、卓袱台に空間を作った。母は座り、缶ビールを配った。

「乾杯しようかね。乾杯」

 三人は缶ビールを重ねた。雫が卓袱台にぽたりと落ちる。

「健斗くん、ごめんなさいね。父さんは、健斗くんの事が嫌いというわけじゃなかけん。本音は、健斗くんが居てくれたほうが嬉しかとよ。若か男が一人でも増ゆると、村にも活気が溢れるけんね。でも、健斗くんの親のこともあるけん、一度は帰んなっせ。また、大輔と一緒に来るとよかたい。大輔も大学卒業したら、天草で就職すっとだろもん? 二人が帰って来るんなら、こん村は盛り上がったい」

「ありがとうございます」

 健斗は笑顔を作った。大輔は手を振り、健斗の笑顔を遮った。

「おいおい。俺は、まだ決めてないぞ。東京でやりたいことがある。東京でやらなければならないことがあるんだ」

「そりゃ何ね?」



続く。

花子出版   倉岡



文豪方の残された名著を汚さぬよう精進します。