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中卒だった頃の自分、今の自分①

ごあいさつ

こんにちは。ハナチェンコです。現在私は大学の教員をやっています。准教授ですが音楽仲間からの呼び名はなぜか「教授」です笑

noteはかなり前に登録していたのですが特に書くこともなく、たまに無料有料の記事を読む程度でした。

記事を書こうと思ったきっかけ

今回記事を書いてみようかなと思ったのは、私がSNS上で設置している匿名質問箱の回答件数が10000を超えたのがきっかけです(2023年12月追記:今は20000超えました)。勤務先や非常勤先の事に関する単純な質問(「来年度の授業開始日はいつですか?」の類)も多いのですが、中には文字通りの「人生相談」的なものも結構あります。

たまに学生が直接研究室にやってきて相談をすることもあります。そういう時、自分の若い時の話をすると「先生より全然マシでした!さよなら笑」となんか元気を出してくれる事がありました。

要するに誰かの何かの参考に少しでもなれば、また、参考にならなくても「なんだコイツ笑」などと笑ってもらえればいいかな、という事で記事を書くことにしました。

ちなみに私の専門は社会学で、毎年1年生向けの入門的講義の初回に「わたしと社会」というテーマで「自分と社会との折り合いの付け方」みたいな話をしています。ここでいう「わたし」とは受講者ひとりひとりの事ですが、大学の講義で、しかも初回授業なので、私は受講者の事は何にも知らない訳です。

そこで自己紹介を兼ねて、私が中学以来どういう生活を送って社会と折り合いをつけてきたのか(いや実は「つけてこられなかったのか」)を話しています。それを聞きながらみなさんは自分が中学の時はどうだったのか、比較しながら聞いてください、という訳です。比較の基準とするのはあまりにも、なのですが...。以下のお話はそこでのものを膨らませたものです。

以下、長くなるので何回かに分けて書きます。何分note初心者ゆえ読みづらいところはご容赦いただけると幸いです。


0.小学生時代

中学に入学するまではごく普通の子どもでした。通知表の成績も人並み、友達も人並み、誇れることといえば足が速い、という事ぐらいでした。足が速いだけで多少モテました。でもほんと「多少」でした💦。好きな子はたくさんいたのですが、どれも実りませんでした笑

1.中学生時代(超長いです)

異変はじまる

中学入学後(1979年 12歳)に異変が訪れました。以下の通りです:

(1) 制服がうっとうしい私服にしてくれ💦
(2) 1日6時間黙って教室で授業受けるとか無理
(3) 授業内容クソつまんない
(4) なんでこんなに叩かれるのか笑

そこで中1の冬、担任の先生(20代半ばの女性の先生でした)にこう言いました:

僕、数学以外やりませんので、よろしく!😇

当時数学にハマっていて他の科目は特に関心なかったので、数学だけやりたかったのです。制服は着て行きましたが、靴や靴下など、校則違反の常連でした。さまざまな種類の「強制」にもう我慢ならなかったのです。なお髪型だけはマルガリータだったのでクリアしていました。

その先生は大学出たてで、私の言葉をそのまま職員会議に持っていってくださいました(今考えたらすごい先生です。仕事のない日曜に、Q大理学部数学科に通う自分の弟の下宿まで僕を連れていってくれたりもしました。感謝しかないです)。

後日先生に呼ばれ「ダメだって」と告げられました。職員会議でこっぴどく怒られたそうです。ちなみにその先生のご担当科目は理科でした。なのに「数学しかやらない」などよく言ったものです笑。

そうでしたか…

となればよかったのですが、なりませんでした。こうなれば強行だ、と本当に数学しか勉強しませんでした。

やりたい事だけやり始める

そもそも当時から夜型生活で、深夜ANN(ニッポン放送のオールナイトニッポン)を、時には2部まで聴いてから寝ていました。ビートたけし、明石家さんま、タモリ、中島みゆき、吉田拓郎、笑福亭鶴光等々、それはもう面白かったのです。親兄弟も寝静まり誰にも邪魔されない、至福のひとときでした。

こんな毎日だったのでラジオを聴き終わるのが早くて朝3時で遅いと朝5時、なので「朝」起きたらもう10時過ぎになっている事もしばしばでした。遅れて教室に入ると、先生に怒られ、時に張り手をかまされました。ジーンとした頬をさすりながら自分の席に着いて、また眠っていました。最初のうちは先生も怒り続けていましたが、じきに何も言われないようになりました。

起きたら給食が終わっていて5時間目になっていた事もありました。俺の給食...

なおこれは数学の授業中も似た感じでした。当時の私が「数学以外やりません」と宣言したのは授業での話ではなく、自分が好きなように、参考書等を見つつ勉強したい、という事だったからです。

ところで国語や社会などの座学の授業については教室で寝ていれば済むかもしれませんよね。じゃあ体育はどうだったのでしょうか。

先に「足は速かった」と書いた通り、陸上競技は総じて好きでした。なので陸上部にも入っていました。体育が陸上競技の場合はキャッキャ言いながら授業に参加していました。もとより協調性はなかったのですが、ヘタなりに球技の授業もギリなんとかやれていました。

問題は水泳でした。

当時はもちろん、私は今でも息継ぎができません。当時は思春期、つまり女子の目が気になる訳です。中1の夏の水泳の授業は普通に出ましたが、ノンブレスで25m泳ぎ死ぬかと思いました。かと言って途中で立ってしまったら女子から笑われる訳で、これは何としてでも避けたいのでした。男がすたる...。

そこで中2の水泳からはズル休みを使うようになりました。そんなのはすぐにバレて先生に殴られるのですが、そもそも水着を持ってきていないので泳がずに済みました。中3になるとより生意気になり、水泳の授業中、1人でグラウンドで走り回ったりして遊んでいました。

ご想像通り、通知表は悲惨なものでした。割り箸(1)とアヒル(2)のオンパレードでした。得意なはずの数学ですら5は取れず、4でした。

なぜ数学しか勉強していなかったのに4だったのか。定期試験の問題はすぐに解き終わります。でもそれに飽き足らず、答案用紙の余白に「この問題を解け」などと先生に問題を出していたのです。要するに「態度最悪」という事で5はもらえませんでした。

本格的な「問題児」扱いが始まる

以上の通り数学についても授業中は寝たりしてまともに聴いていないのですから、そもそも机の上で勉強する事がなくなった訳です。

そこで、机の中に入れてあった「技術」授業用の彫刻刀で机を彫りまくりました。と言ってもデタラメに彫ったのではなく、

聖子命

と江戸文字勘亭流ぽく彫りました。そこそこ上手くできたので、彫った部分にマーカーで色を付けました。確かピンクだったと思います。(松田)聖子ちゃんなだけに。

「これはさすがにマズい、先生に殴られる」と次の日多少ビクつきながら登校したら、私の席の机がまっさらなものに交換されていました。担任の先生も、何事もなかったかのように私に何も言いませんでした。もちろん殴られもしませんでした。

周囲の自分に対する扱いが一段階上がったぞ...これはマズい

と危機感を覚えつつ、「聖子命」机を探す旅に出ました。ほどなく見つかりました。保健室の建物の裏側にひっそりと置かれていました。

この頃から周囲と完全に折り合えなくなったように思います。私の中学生当時は英語の時間に筆記体を習っていたのですが、中2の英語の中間試験の問題文が筆記体で書かれているのが全く読めず、「やーめた」と勝手に席を立って学校を後にしました。もちろん先生が追いかけてきましたが、上述の如く足は速かったので逃げ切り、近所の山の上でしばらく過ごした後に帰宅したりしていました。当然親に連絡が行っており怒られましたが、うちの親は手は出さなかったので「大丈夫」とかなんとか言ってやり過ごしていました。

自分の成績は壊滅的だったので試験はどうでも良かったのですが、クラスの友人は中間試験や期末試験に戦々恐々としていました。それで一度、答案用紙が入っていると思しき会議室のデカい金庫の、あのぐるぐる回すダイヤルを放課後超ぐるぐるぐるぐる回して帰ったら、次の日金庫が開かないとかで先生たちが苦戦していました。これで少し友人の助けになったかな、などと思うほどのバカでした。

殴られても懲りなかった謎のメンタル

そのほかにも、いわゆる「黒歴史」的なものはありすぎて全部はとても書けませんが、いろいろやりましたし、その分よく先生に殴られました。最高は「グーで8発」です。みなさんご存知ですか。グーで8発殴られると立っているのがやっとで、いくらか後退りします。

この時さすがに殴りすぎたと思ったのか、殴った担任の先生(30代の男性体育教師)が家に電話して「今日ハナチェンコ君をかなり殴ったので、落ち込んで帰ってきたら慰めてあげてください」とフォローがあったようでした。

なのに帰宅後私はさらに母から怒られました。鼻歌を歌いながら帰宅したからだそうです。「落ち込んで帰ってくると思ったら…」と。

と、まあこういう中学生活で、とにかく「自分が疑問に思ったことはやらない、好きじゃない事もやらない」を通した3年間でした。好きだった数学と陸上競技だけやった3年間でした。

謎の万能感

当時『高校への数学』という月刊誌があり(今でもありますが)、そこの「学力コンテスト」や「宿題」という難問コーナーによく応募していました。最初は物差しで測って「だいたい1.4cmぐらい」などと解答し、帰ってきた講評欄で「君のは数学じゃないです」などと酷評されていましたが(当たり前だ笑)、それが悔しくて頑張っていたらそのうち成績優秀者で名前が載るようになりました。

当時の雑誌が出てきたので載せます。確か最初に名前が載った時で、本屋から家に帰るまで「載ったー!きゃー!!」みたく声を上げながら帰宅した記憶があります(汗)。周囲とぶつかりまくっていた当時、こういう所でギリギリ「わたし」という存在の意義を維持できていたのだと思います。あっ本名のままだ笑

宿題

人が5教科やっている間に私は数学しかやっていないのだから数学の成績がいいのは当然と言えば当然なのですが、それが分からず、なおかつ「他教科だってやればすぐいい成績取れる」などと謎の万能感を発揮していた私は、自身の数学の成績を他教科にも等しく適用してしまい、進路相談の時中3の担任の先生に

ラ・サールと久留米大附設を受けます(ドヤ顔)

と宣言してしまいました。その時先生はグーで8発殴る代わりに、とても困った顔でこう言いました。

ハナチェンコ、お前は行ける高校がないと思う。どうする?

「この先生は何を言っているんだろう」と私は両校の入試要項を取り寄せました。

…あまりにも長くなってしまったので今回はここまでにします。次回は高校入試から高校入学、ついで退学のあたりをお話しします。お読みいただきありがとうございました。

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